2017年3月 3日 (金)

岩下壮一神父のこと

夏目漱石の小品にもあるケーベル先生は東大で哲学を教え、教え子の中には岩下壮一、石原謙など日本の教会史に残る人たちもいます。ケーベル会という有志の会がありますが、余り活動はしていないようです。
 
JRの信濃町駅近くに真生会館というカトリックの施設があります。以前はテナントが多かったのですが、今はそれはなくなり、カトリック関係の学びが行われています。ここは最初は岩下壮一神父が開いたものです。
 
「岩下壮一神父の評価は今、どうなんだろう?」
「以前ほどではないけど、著書が文庫本で出ているから、それで知った人もいるだろうね。ある上智の教授は、彼は第二バチカン以前の人だからね、と、もう過去の人扱いだった。そんな面もあるだろうけど、キリシタン時代よりは新しいからね」
 
「プロテスタントの人が岩下壮一神父の本を読んだら、カチンとこないだろうか?」
「くるかも知れない。気になる人だよ。無教会の塚本虎二との論争は知られているけど、これが内村鑑三の塚本批判と関係あるんじゃないかなと思うんだけど、誰も言っていないんだ」
 
「岩下壮一神父はプロテスタントにとっては、手ごわい相手だったと思いますが、彼は生涯をルター研究に捧げてもよいと言っていたようですね。なぜですか?」
「ルターに惹かれるものを感じていたんでしょうか。神父のその言葉は割合よく知られていますけどね」

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2017年1月16日 (月)

原理主義

■「原理主義者にないのは何だろうか?」
「対話する能力かな。キリスト教では、最初は米国で自由主義の信仰を批判する言論活動として始まったんだ。そこには反論という対話があった。けど、イスラム原理主義にはそれがない。だから、対話の場の再建が大切だよ」
 
■「キリスト教原理主義や聖書の逐語霊感説に対する批判があるけど、どうなの?」
「批判される文脈があるのかも知れないけど、これは経験しないと分からないだろうね。それらはカルトの原因と断定されると、それはちょっと違うかもね。福音派はカルトじゃないからね」

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2017年1月14日 (土)

再臨主

■「統一教会(旧名)の再臨主には、あちらに誤解があるんじゃないの?」
「キリスト教会は空中再臨を待っているんだ。その時の携挙に教会の選択の可能性なんてない。地上再臨の時には、その地は韓国ではなくてイスラエルなんだよ。そのへんの誤解、混乱があるんじゃないかな」
 
■「あなたにとっての、後世への最大遺物って何なの?」
「それは復活して再臨するイエス・キリストを伝えること。復活だけでなく、再臨も大事なんだ。再臨主がいるという情報は、再臨信仰を少しは考えよという意味に理解している。だって、本当の再臨だったら、教会全体が認めるから」
 
■「再臨主を名乗る人が何人もいるらしいけど、どう思う?」
「ロマ書に、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことはない、と6章9節にあるんだ。再臨主は死んではいけないんだ。しかし、みんな死んでいくと思うよ。あの韓国人も亡くなったしね」
 
■「至福直観って何だろう?」
「再臨のキリストを見つけることじゃないだろうか」

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2017年1月13日 (金)

イスラエル建国

■「イスラエル建国はキリスト教信仰にとって何か意味あるの?」
「以前、それを言う人はあまりいなかったけど、最近、ネットでの伝道メッセージを聞くと、みんな、それを指摘しているんだ。何かが終わり、何かが始まるしるしとして、考え直す必要があるかも知れない」
 
■「あなたにとって、ディスペンセーション主義って何なの?」
「聖書観で置換神学に対立する考え方だよ。置換神学だとユダヤ人に対する祝福はキリスト教会が受け継いでいるので、ユダヤ人の使命は終わったと考えるけど、そうだとイスラエル建国の意味は見えてこないんだ。無視はできないと思うけど」
 
■「初代教会で、ユダヤ人クリスチャンの割礼派の主張がパウロに批判されたけど、現代のユダヤ人クリスチャンであるメシアニック・ジューには、その傾向はないんだろうか?」
「さあ、どうかな。クリスチャンなら、どこかの歴史的キリスト教会に所属する必要があるだろうけどね」
 

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千年王国について

■「セブンスデー・アドベンチスト教会の問題提起をどう思う?」
「解釈の問題は残るけど、再臨信仰の強調には異論はないよ。安息日問題では、ガラテヤ書でのパウロの憂慮を考えるけどね。パウロの相手はユダヤ教徒ではなくて、律法主義的キリスト教徒だったんだよね」
 
■「千年王国の諸説をどう理解したらいいんだろうか?」
「鍵は時代背景かも知れない。最初の教会は千年王国前再臨説だった。アウグスチヌスも最初はそうだったけど、後で無千年王国説に変わった。彼の時代にキリスト教が国教になったが、無説が一番合っていることは理解できるよ」
 
■「千年王国をカトリック教会はどう理解しているんだろうか?」
「フランシスコ会訳聖書の注だと、ローマの大迫害の終わりの時から キリストの再臨までとなってる。しかし、アウグスチヌスの無千年王国説を採用したと言われているけど、それだと教会時代に重なり、開始の時がずれているんじゃないかな」
 
■「千年王国後再臨説と無千年王国説は違うの?」
「一応は違うんだろうけど、千年王国後再臨説だと、どこから千年王国が始まったのかが問題になるだろう。カトリックだと公式には無説だけど、フランシスコ会の聖書だと、キリスト教公認あたりから千年王国が始まっているんだ」
 
■「千年王国はキリストの地上再臨があって、それから始まるの?」
「今、そう言う人が多いかもね。しかし、無千年王国だと、今が千年王国だ。『千年王国を夢みた革命』(岩井淳著、講談社選書メチエ)だと、17世紀英米のピューリタンに関心が高かったらしいよ。参考になるかも」
 

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2017年1月12日 (木)

現代を問う

■「西洋中世は暗黒時代と言う人がいるけど、そう思う?」
「ルネッサンスを光の到来と見る歴史観では、そう見えるんだろう。その影響で宗教改革も始まった。しかし、中世の内容はギリシャの哲学とユダヤの宗教、キリスト教の関係で成り立っているんだ。理性と信仰の関係だよ。これは今の問題でもある」
 
■「トマス・アクィナスへの疑問ってある?」
「ある。それは、明確な神体験が晩年にあるんだけど、なぜ晩年なのかということ。パウロやアウグスチヌスには明確な回心体験があって、それからキリスト教の活動を開始しているけど、そんな回心がトマスにあったんだろうかと考えちゃうんだ」
 
■「キリスト教的ヒューマニズムという言葉に出合ったけど、二つは対立するんじゃないの?」
「キリスト教は神中心、ヒューマニズムは人間中心と見れば、そうかもね。しかし、神中心が人間中心を破壊に導くのではなく、その完成に導くんだという視点があってもいいと思うよ」
 

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2017年1月11日 (水)

日本の伝道

■「日本で、キリスト教の伝道が進まないのはどうしてだろうか?」
「キリスト教を世界観、歴史観として説明できていないからじゃないかな。救いを新生に止めているか、あるいは聖化まで進めているか、その程度で伝道しているんじゃないかな。黙示録まで進まないとだめなんだろうね」
 
■「日本に神道や仏教があるのはキリスト教の伝道にとって壁なんだろうか?」
「そう考える人は多いかも知れないね。けど、理解が進むと、意外に似ているところに気づくかも知れない。伝えられたキリスト教には、そんな要素は皆無。だから、日本はキリスト教にとって新しい経験の場だよ」
 
■「キリスト教と言っても教派が多くて、どれを選んだらいいのか迷っちゃうよね。どうしたらいい?」
「最初は福音の根本的な教えを受け入れて信仰を持つんじゃないかな。そのうちに教えの解釈の多様性、教派問題にぶつかる。それは今でも教会全体の問題、課題なんで、あなただけの問題ではないよ」
 
■「キリスト教概論とかキリスト教問答とかあるけど、それらを学べばキリスト教が分かるんだろうか?」
「ある程度は分かるけど、自分に意味ある学びは聖霊に導かれ、教えられるんだから、聖霊降臨の出来事が自分にも起きなければならない。それが深く知るためには不可欠」
 
■「教会の概念に、いくつかあるって、どういうこと?」
「キリストのからだとしての教会、それに、漁師の網としての教会だよ。見えない、見える、という区別もあるよ。それをごっちゃにはできないだろうけど、教会と言っているんだ」
 
■「一神教の抱える難問って何?」
「一神教はキリスト教だけではないよ。ユダヤ教もあるし、イスラム教もあるんだ。パウロのサウロ時代はどうだったか。イスラム教との関係では中世に十字軍があり、その反省からドミニコ会ができた。イスラム教との関係は現代の問題でもあるよ」
 
■「キリスト教関連の動画の中には、新生の瞬間にまで導く内容のものもあるけど、どう?」
「実際に、その瞬間を経験する人がいるかも知れないよ。しかし、その後が問題。教会の交わりが必要なんだけど、それをどうするかが課題。新生はしたけれど、ほっといたら、とても危険だ」
 
■「内村鑑三はキリスト教以外の宗教でも関心持たれているの?」
「幸福の科学の出版社から、内村鑑三の伝道論の本があったよ。内村の言葉をまとめただけで、著書の考えを知りたかったけど、なかった。どういうつもりなのか、批判ではなく、評価の結果かな」
 
■「ヨナのしるしって何だろう?」
「ヨナが大魚の中にいたけど、そこから出たことが、イエスの死と復活のしるしと見ているんだろうね。しかし、ニネベの人たちの悔い改めも、あるいは異邦人の悔い改め、すなわちキリスト教会の誕生と発展を意味しているのかも知れない。最近、気づいたんだけど」
 

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2017年1月 7日 (土)

終活

「終活で、何が大事?」
「あなたの見ている人が困らないように、それが一般的な動機なんだろう。しかし、あなたは気づかないだろうけど、あなたを見ている人も大勢いるんだ。そういう人に何を残すかも大事なテーマなんだ。要するに、後世への最大遺物を考えることだ」
 
「終活の課題って何かな?」
「葬儀の仕方とか遺産の処理とかが一般的かも。しかし、後世への最大遺物を何にするか考えることかもね。それは、今、どう生きるかだけど、それが遺産になると気づかない人が多いだろう。自分の生き方が他人にどんな影響を与えるか、自分には分からないから」
 
「今日も救急車の出動があったけど、終活にお勧めの本はある?」
「『こわくない』(立花隆著、文藝春秋)がいい。分かりやすく、死の問題を扱っている。死を絶望から希望に転換することが、終活の課題だろう」
 
「『その日、その時は、だれも知らない』。その聖書の言葉の意味は何?」
「再臨の時なんだろう。しかし、それをテーマに説教するのは難しいよね。だから、すべての人が必ず経験する自分の死に置き換えて、話すのかも」
 
「クリスチャンにとっての終活のゴールはどこ?」
「パウロの、あの心境かな。『今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです』(第二テモテ4.8)。人は誰もが死に向かって進んでいるけど、どんな心でいるべきか、それが大切だよ」
 

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宗教改革500年

「今年は宗教改革500年だそうだけど、何かいい企画ある?」
「日本で再現したらどうかな。ルターの95カ条の提題を一つ一つ取り上げて、応答する。95カ条が何か、知らない人も多いんじゃないかな。宗教改革の、現代における意味あるいは無意味が分かるかもね」
 
「創文社の『神学大全』の翻訳が全部完了したらしいけど、感想ある?」
「現代の『神学大全』を誰か書いて欲しい。トマスのは中世のもので、時代は変わっているからね。宗教改革とかイスラエル建国とか、現代版では不可欠の項目だろう」
 
「ところで、宗教改革って何だったんだろうか?」
「普通は信仰義認という福音の再発見の時と教えられると思う。それはそれでいいかもだけど、その他、プロテスタント教会ができたこともある。それに、世界宣教が始まったんだ。ザビエルが日本にまで来たのも、その影響かも知れないしね」
「信仰義認の教えが福音の核心という主張で、教会が割れたんだよ。しかし、今では双方が、この点では合意しているから、宗教改革の意味を他に探す必要があるかもね。それは世界宣教の新しい開始だったんじゃないかな。それも間もなく終わるかもだけど」
「信仰義認の再発見、教会を初代教会に戻す試みなど、いろいろ言われるけど、世界宣教の新しいスタートだったんじゃないかな。教会の分裂は不幸だけれど、一方、宣教の前進は大きな価値じゃないかな。イエズス会が出来て、日本にも福音が来たんだから」
「福音を西洋から世界に広げるためだったんじゃないだろうか。その結果を我々は今、見ているんだ。そして、その時代が終わろうとしている、そのしるしがイスラエルの建国じゃないだろうか」
 
「教会の分裂には意味があったんだろうか?」
「東西教会の分裂、それに宗教改革があったけど、それによって福音が世界に伝わった一面を無視できないだろうね。ザビエルの来日だって、その影響を無視できない。今は、教会一致が課題だけど、ユダヤ人問題とからめたら前進するかも知れないね」
 
「宗教改革は信仰義認の再発見と印刷によって進展していったんだよね。伝道は大宣教命令で全時代の使命だろうけど、手段は各時代で変わってくるね。今は何だろう?」
「インターネット、それに動画かな。内容は預言解釈をからませると、注目度は変わってくるよ。預言解釈を専門にしている教会もある」
 
「動画で強力な伝道を展開している人が何人もいるけど、どういう教会の人なんだろうね?」
「福音派なんだろう。福音派はカルトとみなす人もいるけど、全部をそう言い切ることはできないだろう。宗教改革の時は印刷術の登場で進展したけど、現代は動画で福音宣教が進展しているようだ」
 
「プロテスタント教会にも宗教改革があるんだって?」
「こちらは比喩だけど、日本基督教団から、戦後、離脱する教会が続いて、新しい教団を作っていった、その時なんだ。日本基督教団は公会主義で、教派主義の弊害の反省を内包しているんだ。戦争という外圧に屈したともいうけどね」
 
「民主主義はキリスト教の伝統なんだろうか?」
「そう思っている人が多いかもね。それに反対するつもりはないけど、民主主義の源流をルネサンスとすれば、宗教改革は、その後、始まったんだから、キリスト教は民主主義とは別の原理を持っているかもね。しかし、否定する原理ではないよ」
 
「近代日本での、多くのキリスト者のうち最大の人物は誰だろうか?」
「私は内村鑑三だと思う。彼が『第二の宗教改革』と言った時、ルターに匹敵する重要な地点に立ったんじゃないかな。無教会はプロテスタントの中に位置づけられていても、それを超える洞察が与えられたんだ」
 
「内村鑑三の『紙上の教会』の現代的展開って何?」
「『ネット上の教会』かな。それが何であって、どういう効果があるか、何が可能になるのか、考えてもいいかもね。彼は第二の宗教改革、近代批判を言っていたから、新しい時代の到来を待望していたんだ」
 
「歎異抄をキリスト教の中で位置付けたら、どうなるだろうか?」
「法然がルター、親鸞をカルヴァンとすれば、宗教改革後の様々な教派に対する正統信仰による弁証の書かもね。カルビニズムには、そういう意識は強いと思うけど。日本では岡田稔著『改革派教理学教本』などあるよ」
 
「現代において宗教改革をやるとしたら、そのテーマは何になるんだろうか?」
「最初のテーマは信仰の最初に関するもので、あの時に分離した相手の教会とも大体合意が出来ているから、別のテーマでないとね。それは信仰の最後のテーマかもね」
 

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2017年1月 6日 (金)

人生雑感

「人生とは何か考えてみようか?」
「誰にとっても大切なことだからね」
 
「人生の目的って何だろう?」
「成功の法則を見出し、それを実験してみることかな。その法則を見出したら、誰でも実験してみたくなるだろう。けど、人に知らせるのは成果が出てからの方がいいかも。安売りする必要はないよ」
 
「人生の目標に自己実現を挙げる人がいるだろうけど、どうしたらいいかな?」
「自己認識を深めることが大切かもね。そのためには自分を対象化しなければならない。しかし、現在の自分を対象化することは出来ない、出来るのは過去の自分だけ。その時に思い出されてくる記憶の意味を探すこと」
 
「人生は実験という時、実験ってどういう意味かな?」
「信仰のもたらす新しい要素への勧めの意味なんだろうけど、同時に、その要素の人生への適用の意味もあるかもね。真理を見出したら、誰でも証明したくなるよね。自分の人生で証明したらどうという意味もあるかもだよ」
 
「よく『信じて救われた』って言うけど、救われたなら、もう人生の課題は残っていないんじゃないの?」
「いや救いの説明という課題が残っている。そのためには、そういう話を聞いてみるといいよ。この点が割合、おろそかになっている場合が多いんだ。ある意味では救われているけど、まだもあるんだ」
 
「人生は数独に似ているって、どういうこと?」
「鉛筆と消しゴムが大切ということ。消しゴムをよく使わないと、なかなか迷いの世界から抜け出られないよ。あと謎解き。夢中になれるし、解けた時、快感、満足感がある」
 
「巡礼にとって大切なのは何かな?」
「人は誰でも生まれたら人生の巡礼になるんだ。その巡礼の目的地は一応は死だから、やはり死とは何か考えておく必要があるだろうね。最近はいろんな本が出ている。一般の関心が高いんだろう」
 
「人生は楽もあるけど苦もあるよ。苦の対処方法を考えるべきじゃないだろうか?」
「仏教は開祖の悟りで始まったけど、悟りに向かう動機は苦の対処方法を知りたいということだった。苦には霊的なものと肉体的なものがあるよ。大事なのは霊的な苦への対処方法で、十字架と再臨がその方法だ」
 
「画家というと、特定の人を指すけど、ある意味で、人は皆、画家と思わない?」
「そうだね。人は、誰もが人生というキャンバスに自分なりの絵を描いているんだろう。そう自覚していないだろうけど、その絵を周囲の人が見ているんだ。何を描くか、よく考えた方がいいよ」
 
「人生の失敗は消し去ることができるんだろうか?」
「過去を変えることはできないだろうね。ただ、失敗に意味が与えられるなら、その悔しい気持ちはなくなるかも知れない。失敗に向き合うには、それしかないんじゃないかな。失敗には罪があると思うけど、神の栄光が現れるためなら、くよくよしない」
 
「罪って何だろう?」
「神の意志が示されて、それに従わないこと。だから神の意志の明示が前提なんだろう。その罪の結果を見る時、その後の人生の特徴はボタンのかけ違いかも知れない。ボタンをかけても、どこかが違う気がしてやり直すことの繰り返しになるんだ」
 
「雑誌なんかで終活の特集をよく見るけど、どう?」
「終活のゴールは、自分の人生はこれでよかったという思いじゃないかな。もちろん、具体的な課題の処理は大切だけど、この世に未練が残るなら、終活は終わらないんじゃないかな」

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2016年10月 5日 (水)

中世を考える

「ルネサンスは光の到来なの?」
「楽園にいた人々がサタンのささやきに乗ったのかも知れない。人間中心主義なんだから。けど、そこから宗教改革が起きて中世が瓦解すると共に、福音が西洋だけでなく世界に伝播していったことを思えば、意味があるのかも知れない」
 
「西洋中世を『暗黒の中世』と見る人がいたけど、まだいるらしい。本当にそうなの?」
「ルネサンスを光の到来と見るからだろう。近世が始まり、近代になり、それが終わってポストモダンになったけど、中世に戻るとか中世再考とは言わない。暗黒時代の印象があるからだろう」
 
「西洋の中世は何だったんだろうか?」
「『信仰の時代』って表現していた本があったけど、プロテスタントには違和感があるかもね。本当の信仰を求めて宗教改革が始まったけど、その時代、中世の後の近世はむしろルネサンスの影響が強く、人間の復権の時代とみられているかもね」
 
「『暗黒の中世』って言葉があるけど、どう思う?」
「中世には暗黒だけでなく、光もあったと思う。しかし、歴史は暗黒への反発から近世に移行していく。何故か。福音が西洋だけでなく、全世界に伝わるためじゃないかな。福音は西洋のためだけでなく、世界のためだからね」
 
「西田哲学って何だろう?」
「彼の言葉から推察すると、一番近いと思うのは西洋中世哲学かな。言葉を変えれば、信仰と理性との関係の仕方が、中世哲学の根本と同じということ。西田にとって、宗教はキリスト教ではなく、禅だったけどね」
 
「なぜ、暗黒の中世って言うんだろうか?」
「それは近世に価値を置こうとする歴史観によるんだ。そこにはルネサンスと宗教改革の二つの原理があるんだ。両方とも光かも知れないけど、この二つは互いに対立するよ。近世は近代になり、現代になるけど、近代への反省もあるんだ」
 
「暗黒の中世っていうけど、本当?」
「ギリシャとユダヤの伝統が混じって出来たものだから、どちらかの伝統に純粋に立とうとする人たちには批判の対象になったんだろう。しかし、反省すれば、人生には両方の要素があるんだ。円環と直線、両方ともあるんだ」

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2016年7月16日 (土)

「再臨再唱の必要」

 内村鑑三は、『聖書之研究』の最終号(1930年4月)に「再臨再唱の必要」という文を載せています。再臨運動が終わって、もう10年も経っています。内村の永眠の10か月前に執筆され、死後に発表されたものです。その中で、再臨運動を終えた理由と、なお、その信仰の必要を語っています。これは、『内村鑑三信仰著作全集 13』(教文館)に収録されています。重要な資料と思いますので、その一部を紹介します。
 
「再臨再唱の必要
 私は長らくキリストの再臨を説かなかった。それは再臨を忘れたからではない。もちろん、その信仰を捨てたからではない。わが国の信仰状態において、私が先年なした以上にこれを説くの必要を感じなかったからである。さらにまたその危険を感じたからである。再臨は聖書の中心真理と言わんよりはむしろその最終真理と称すべきである。再臨は聖書の結末である。ゆえに聖書のすべてがわかって後に、少なくともその大体がわかって後に、わかるのが再臨の教義である。しかるに、そのあまりに壮大壮美なる教義であるがゆえに、人は初めてこれに接してその肝をひしがれ判断を乱されやすくある。世にいわゆる「再臨狂」の多きはこれがためである。私はキリストの再臨を説いて、多くの悲しむべき再臨狂の実例に接した。ことにこれを敏感な婦人において見た。法は人を見て説くべしであって、再臨の教義を受くる準備なき者にこれを説くは大いに慎むべきであるを知った。
 その点において十字架は再臨よりもはるかに安全である。十字架は神の義の現れである。ゆえに直ちに人の良心に訴う。キリストの十字架は倫理学最後の結論としてこれを唱道することができる。ゆえにその迷信化さるる危険がはなはだ少なくある。さらにまた十字架がわからなければ再臨はわからない。十字架は再臨の前提であって、十字架に出発して初めて安全に再臨に達し得るのである。キリスト教は烈しい倫理教である。それであるがゆえに、キリストの再臨、万物の復興というがごとき絶大壮美の終極に達するのである。十字架なき所に冠なし。十字架を経験せずして、再臨の希望の起こらないのが当然である。されども何びとも十字架はこれを避けんと欲し、冠はこれを戴かんと欲するがゆえに、十字架の苦杯を飲まずして再臨の饗宴にあずからんと欲す。ここにおいてか迷信百出し、再臨狂が続出するのである。キリストの再臨の教義が世に忌まれ識者に卑しめらるる理由はここにある。これを信ずる準備なき者がこれを信じ、唱うるの資格なき者がこれを唱うるからである。そして再臨が侮辱せらるる時に十字架に退却するの必要が起こる。そうして十字架の要塞に拠りて再臨の楽土を開拓せんとする。
 言うまでもなく再臨は聖書の基礎的教義である。再臨を否んで、聖書はわからない。もし十字架が聖書の心臓であるならば再臨はその脳髄であろう。再臨なくして、十字架は意味をなさない。それゆえに、われらクリスチャンは再臨の立場に立ちて聖書を通覧するの必要がある。目を十字架のみに注集して、われらの眼界が狭くなり、したがって信仰が冷却しやすくなる。信望愛は相互をささえ扶くる。そして十字架は愛と信の接する所であって、再臨は望の実現である。再臨の望に励まされずして、愛と信とは失せやすくある。望は信をあたため愛をひろくする。信仰維持のために再臨の希望は必要欠くべからざるものである。キリスト教道徳といいて、単なる純道徳すなわち道徳のための道徳ではない。明白なる目的あっての道徳である。
 
(中略)
 
 人は初代教会の元気旺盛を語る。それには明白なる理由があった。それは再臨の希望に充ちあふれる教会であった。初代のキリスト信者はただ無意味に信仰に燃えたのではない。彼らが世に勝ったのは、再臨の希望に養われたる信仰によって勝ったのである。今日といえども同じである。この希望に養われずして、文化と共に日々に滅び行くこの俗世界に勝つことはできない。再臨再唱の必要はここにある。」

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2016年7月 5日 (火)

統一教会と再臨論

「統一教会を始めた文鮮明氏のことを再臨主って言うらしいけど、どういう意味?」
「詳しく説明した動画が公開されているよ。イスラエルの歴史と教会の歴史を比較して論じているあたりは興味深いけど、イスラエルの預言でまだのものへの無視があるので、置換神学かなとも思うよ。独自の解釈だけど」
 
「統一教会は名前を世界平和統一家庭連合に変えて存続しているけど、どういう意味があるんだろう?」
「統一教会は独自の再臨観を持っているよ。空中再臨や携挙を認めず、地上再臨だけなんだ。空中再臨の時、信者に、その現れた存在を選択する余地はないんだ。しかし統一教会は、既存の教会に、それを求めてきたのだから、食い違いがあるんだ。しかも、統一教会は置換神学だから、今は自分たちの団体がキリスト教会の後継と見ているかもね。再臨主という言葉は既存教会に向けられた言葉だったんだ。既存教会が、この言葉を受け入れたら、そこに地上天国が出来ると言っていたけど、そうはならなかった。だから統一教会の今の歴史は地上天国ではなく、再再臨主を待望することになるんじゃないかな」
 
「統一教会は置換神学だろうって、どういうこと?」
「既存教会は文鮮明を再臨主と認めなかったということを、統一教会側も認めて、そこから自分たちの歴史を作っているからさ。一時は、統一教会は、既存既存に自らを認めさせようと強烈に働きかけたことがあったんだ」
 
「イスラエル建国は預言の成就という解釈を聞くけど、どうなんだろうか?」
「恐らくそうなんだろう。それを認めるとディスペンセーション主義になるけどね。独自の解釈をしている統一教会は置換神学なんだから、イスラエル建国には関心がないんだ」
 
「統一教会の創立者、文鮮明が再臨主ではないと思っているらしいけど、どうして?」
「統一教会では、再臨を初臨と同じように考えているからさ。ユダヤ人が教会に変わっているけどね。しかし、再臨の時には教会には選択の余地はないよ。教会の中におられる聖霊は再臨主を否定できない。三位一体だから。それに、文鮮明の伝記の中に、16歳の時、祈祷中、イエス・キリストと霊通し、再臨主の使命を継承するようにと召命を受けたとあるんだ。それは文鮮明はキリストではないと、自ら言っているようなものじゃないか。統一教会では、創始者を再臨主って言っているけど、どんな意味なんだろうか。これが教会の再臨のキリストなら、礼拝の対象になるよ。統一教会の人たちは創始者を礼拝しているんだろうか。していないと思うけどね。しかし、再臨に関して、問題提起し、再考を促しているのは、教会としては受け止めた方がいいと思うけど」

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2016年7月 3日 (日)

続・中世雑感

「中世再考と言ったって、暗黒の中世って習ったし、その印象が強いから、振り返る動機がなかなか出てこないんじゃないの?」
「近世、近代の方が身近なんだ。それはそれでいいんだ。近代の反省があれば、それが中世再考の動機になるんだ」
 
「『新しい中世』って、今でも有効な概念なの?」
「世紀の変わり目の時、そんな本が何冊か出ていたね。最近、内村鑑三の研究者の一人が新聞への寄稿で、その言葉を使っていて、ちょっと懐かしかったよ。内村には近代人への批判はあるけど、中世回帰への志向はなかっただろうけどね」
 
「内村鑑三の近代批判は分かるけど、じゃあ次の時代はどうなの?」
「ヘーゲルの弁証法的歴史観から考えれば、中世と近世の総合されたもの、その意味では新しい中世かもね。その時代を招来するのは、中世の神学者トマス・アクィナスかもよ。方法は彼の『神学大全』のやり方だよ」
 
「カトリック教会では、かつて中世の神学者トマス・アクィナスが重視された時代があったけど、第二バチカン後はどうなんだろうか?」
「異端に対する正統信仰の立場が、かつての見方だったけど、今では異説、異論との対し方で、なお見習う点があるだろうね」
 
「ところで宗教改革をどう思うの?」
「大雑把に言えば、中世のキリスト教への不満。特にギリシャ思想と混ざり合って純粋性が失われたと見た。その前のルネサンスはギリシャに帰れと言い、宗教改革はギリシャを排除せよという。ではギリシャとは何か、それが問題。異教なのか理性なのか」

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2016年5月28日 (土)

千年王国はいつから?

「ヨハネの黙示録に『千年王国論』というのがあるけど、カトリック教会はどう解釈しているんだろうか?」
「里脇浅次郎著『カトリックの終末論』(聖母文庫)では、千年というのは不限定の継続を示す象徴的な数字で、キリストの来臨から世の終わりまでの地上における神の国の全期間、と言ってるよ」
 
「『千年王国論』には、プロテスタントではいくつかの解釈があるんじゃないの?」
「文字通りの解釈もあるみたいだ。しかし、カトリック教会は1941年と44年の二回、それらを斥けたらしい。教会文書集3839にあるらしい」
 
「カトリック教会の『千年王国論』解釈は分かったけど、フランシスコ会の『新約聖書』の注解だと、最初はローマの大迫害の終わりの時から、になってるよ。教会の公式見解とずれているんじゃないの?」
「確かに言われてみればそうだね。何故かは分からないけど」

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2016年5月22日 (日)

エキュメニズムの可能性

「日本基督教団の教会論は、エキュメニズムの観点から見られるべきなんじゃないかな?」
「会議制は、日本基督公会の設立の趣旨を受け継いだものなんだろうね。現実的には、これ以外、あり得ないようにも思うんだ。しかし、戦後、教会の離脱が続いた時、公会の趣旨は余り顧慮されなかったかもね」
 
「エキュメニズムは、その目的を達成できるんだろうか?」
「その目的が、教派をなくして、一つの可見的教会を実現することなら、それは実現しないだろう。しかし、教会がばらばらになるのではなく、一つになるべきという思いは大切で、そのためには狙いの修正が必要だ。それは旅の終わりのこと。長く携帯を使っていたけど、スマホに変えて、ネット情報を見やすくなったよ。教派主義の克服という課題は、強力な手段を得ている。見える一致というエキュメニズムの目標ははるか彼方にみえても、実際は前進しているように思える。」
 
「プロテスタント教会って言うけど、一つの信仰を持ってるの?」
「そうではないんだ。だから教会一致運動もプロテスタント教会から始まったんだ。その違いをどう考えたらいいのか、やっかいな問題をかかえる場合もあるんだ。双方とも熱心な信仰を主張していて、それでも対立する場合があるんだ。それは今でもあるんだ。あなたはどうなんだとの答が求められているんだ」
 
「教会の一致に関しては、パウロがガラテア書で批判している人たちは今でもいるんだろうか?」
「いると思う。もちろん、ユダヤ教ナザレ派ではないけどね。ルターの当時はカトリック教会を指すと考えられたかも知れないけど、今では、カトリック教会は信仰義認でルター派と合意したから、それでもない。問題は、教会の中で律法をどう解釈するかだよ」
 
「あの教会の立場が微妙だね。律法を強調するけど、律法主義ではないんじゃないの?」
「公式の立場表明では、そうなっているんだ。だから他の教会との関係も断絶していないんだ。ただ、矛盾に見えるかも知れないけどね。しかし、あの教会には特別の使命があるのかも知れないよ。独自の主張を持っているからね。別の主張を強調したいための揺さぶりかも知れないと思う時があるんだ」
 

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2016年4月24日 (日)

祈りについて

「祈りで大切なことは何?」
 
「①祈りには何かを求める要素も含まれているよ。しかし、おまけで与えられるものを、第一に熱心に求めていないかの反省も大切。神の国と神の義を第一に求めよ、と言われていて、これは生涯の、日々の祈りになるべきと思う。
②祈りで大切なことはサタンの嫌がることを願うこと。そうすると、心に元気が注入されるよ。
③それに、祈りは必ず叶えられる祈りでなくてはならない。しかし、それは恐らく死ぬまで叶えられない祈りかもしれない。ユダヤ教徒がメシアを待望しているように、ね」
 
「ネットの動画で回心の祈りを先導している人がいるけど、そこで救いを経験できるの?」
 
「できると思うよ。しかし、教会で洗礼を受けて、キリスト信者であることを表明する必要があると思う。そこまで、その人がどう導かれるかは大切なんだ。信仰を表明することは大切なことだよ。ぐずぐずしていると信仰がおかしくなってしまうんだ」

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2016年4月22日 (金)

伝道について

「伝道の目的って何?」
 
「ヨハネ第一の手紙1・3にあるよ。『わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです』。普通は、人々の悔い改めと考えている人が多いだろうね。しかし、皆が悔い改めるわけではない。そう思うと、努力が報われないと考えるかも知れない。しかし、その前に、神の国の接近を告知しなければいけないんだ。ここに絞れば、伝道はずっとしやすくなるんじゃないだろうか。最近思うのは説明責任という言葉。聖霊に導かれ、教えられて神の国に関する説明責任を果たすことだよ。信じるかどうかは聞いた人の選択で、そこまでの責任はないだろうが、聖霊降臨の後は、そこで起きたことを説明する責任がキリスト者にはあるだろうね。しかし、十字架にかかりながら救われた罪人がいたんだから、どんな人だって救われる可能性を持っている人なんだと思うことが許されているんじゃないだろうか。臨終の手前で救われる人だっているかも知れない。だから伝道の結果がすぐ出ないと言って、伝道をやめるべきではないだろう」
 
「伝道は教会のわざって、どういうこと?」
 
「クルセードとかトラクト配布とか、それが伝道と思っている人がいるかもね。しかし、信仰を持った人は、それだけでは不安定なんだ。命は誕生したら成長しないとおかしなことになるんだ。その成長の条件が教会なんだよ」
 
「伝道は大切だけれど、伝道された人たちに対する責任だってあるよね?」
 
「そこが超教派伝道団体の課題だろうね。回心者を教会が受け入れる必要があるけど、うまくいかない場合が出てくる。ウェスレーや、救世軍を創立したブースの場合に、そんな問題があるね」
 
「ISの登場で十字軍という言葉がニュースに出てくるけど、どう?」
 
「ビリー・グラハムの伝道集会をクルセードと言ったけど、それが十字軍という意味なんだ。イスラム教徒には嫌な言葉で、使わなくなったけど、その人たちから十字軍、クルせードという言葉が復活したというのは皮肉な話に思えるよ。歴史を中世に引き戻すつもりかな」
 
「クルセードって十字軍のこと?」
 
「キリスト教の大衆伝道に、その名前を使っていたんだ。しかし、歴史的には聖地奪還を掲げたイスラム教徒との戦いを連想するしね。十字軍側の行き過ぎもあったし、イスラム教徒には忌避感もある。最近は使わなくなったよ」
 
「おもてなし、という言葉が流行したけど、他にも日本語にはいい言葉があるね。例えば?」
 
「おすそわけ、ってのもあるよ。伝道というのは幸せのおすそわけなんだよ」
 
「ところで、伝道と再臨は関係あるんじゃないの?」
 
「再臨を早めるための伝道という見方があるんだよ。大衆伝道者の本田弘慈氏が、『聖書には福音が伝えられてから終わりが来るとあるので、福音宣教は終わりを早めることになる』と言っていた。再臨信仰が伝道と結びついているんだけれど、こんな指摘もあるんだ。内村鑑三が再臨信仰を持ったきっかけはD.C.ベルから送られた"Sunday School Times"に掲載された再臨関連の論文だった。しかし、再臨運動が終わり、内村はその雑誌の購読を中止したらしい。進化論観、伝道観の浅薄が理由だというんだ。富岡幸一郎著『内村鑑三』(中公文庫)にあるよ」

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福音宣教論

「ところで、福音宣教ってのは何なんだろうね?」
 
「あなたがたの住んでいるのは滅亡の町なんだよ。そこを離れて永遠の都を目指して巡礼の旅を始めませんか、というお誘いなんじゃないだろうか。滅亡の町を再建することでも、そこで楽しむ方法を見つけることでもないだろうね」
 
「現代的宣教論のテーマで、何かアイデアある?」
 
「宣教の最前線に立っている人が牧師、司祭だよね。ある牧師は、自分史による信仰の証し、また説教や自らの研究成果を全部、インターネットで公開しているんだ。誰でも読むことができる。これも一つの方法かもね」
 
「インターネットでの宣教は可能なんだろうか?」
 
「動画を使って、決心者を募り、回心の祈りを導いている人もいるよ。その祈りで人は救われるかも知れないよ。ただ、そのままではなく、教会に繋がらないといけないんだが、そこが課題かな」
 
「伝道したいという人に何か助言ある?」
 
「現代では、方法はいくらでもあるよ。しかし、いくらお膳立てが整っていても、伝えるべきものを自分が持っていないなら、所詮、伝道は無理。ポール・クローデルは『キリストについて語るのは、問われたときだけでよい。ただし、キリストについて尋ねられるような生き方をしなさい』と言ってるよ。生き方について、他の宗教者に負けていては、宣教の言葉も空転するだけだろう」
 
「語ることが中心であれば、沈黙の伝道ってあり得ないんじゃないの?」
 
「そうかもね。伝道は語ることが中心だよ。しかし、語ることが苦手な人は伝道できないかと言えば、そうではないと思う。語られたことを伝えることも含むんじゃないかな。それが沈黙の伝道かもね」
 
「ところで、伝道と宣教は、どう違うの?」
 
「伝道には排他主義的発想が、宣教には包括主義的発想が結びついていそうだね。だから、両者は違うけれど、相互補完的で、対立的ではないと思うよ。キリスト新聞社から出ている『現代の教会を考えるブックレット3 宣教ってなんだ?』に詳しい説明があるよ。『ミッシオ・デイ』についても議論されている。一読の価値ありだよ」
 
「伝道するには牧師になる必要があるかもと思うけど、牧師の仕事は何?」
 
「牧師だから牧会じゃないかな。信徒を育てること、教会を成長させること、じゃないかな。相手は未(非)信者と思うかも知れないが、基本は信者相手の仕事だろうね。牧師は伝道者でもあるが、伝道者は牧師に限定されないだろう。信徒でも伝道者になれるよ。近代日本での最大の伝道者は内村鑑三と思うけど、彼は一人の信徒だったんだ」

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2016年4月21日 (木)

人生とは?

「人生の目的って何だろう?」
「自分はどこから来て、どこに行くのか知ることじゃないかな。多くの人は、その中間のことに心を使っていて、それが人生だと思っているらしいけどね。先祖や予言に関心が集まるのも、自分の最初と最後を知りたいからだよ」
「昭和40年代の大学紛争の時、問題提起という言葉が流行ったね。何か中途半端で終わってしまったようだけど、問題提起者は自分の提起した問題を忘れたんだろうか?」
「いや、忘れられないだろう。自分の中で何らかの解答を見つけなければ次の人生が始まらないだろう」
「人生は、偶然出会った人で大部分が決まってしまうことがあるよ。恐ろしいとは思わない?」
「その人はサタンの使いか神の使いか分からないけど、見方によって、どっちにもなるような気がするよ。絶望の原因ならサタンの使いに思えるけど、真の希望は絶望の彼方にあるんだから、神の使いになるかもね」
「ところで、人間には煩悩があるよね。そこに人生があるという理解もあると思うんだ。煩悩に死んだら、人間として生きていけないんじゃないの?」
「いや、煩悩の人生というのが問題の多い人生であり、課題がつまっているんだ。だから、解決を求める人生であって、そこに安住してはいけないんだ。その課題を端的に言うと、死の問題だよ。そして復活という解決があるんだ。しかし、これは生きているうちに、そのきっかけをつかまなくてはならないんだ。煩悩をどうして離れるか、それは人生の目的になるんだけど、逆にそんなのは敗北だと考える人もいると思うけどね」

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