2007年3月13日 (火)

講演会

 東京・神田駿河台のケーベル邸跡(当時は、日仏会館、現在は華道・池之坊の建物)の日仏会館会議室で、ケーベル会初の講演会が開催されたのは、1994年(平成6)6月12日(日)午後でした。これは数日前の朝日新聞「催し欄」に紹介されたために、それを見てこられた方もありました。また、この機会に「ケーベル会会報」の第1号(試作品)を作り、各方面に配付し、また会場でも参加者に渡しました。

 当日は雨模様のために、参加者の足に響くのではと思われたのですが、大学関係者など、自分のテーマとのかかわりで、ケーベルの意義を追究しようという人々も集まり、講師の話に熱心に耳を傾けていました。

 講演会は午後3時から始まり、兵頭高夫教授(武蔵大学、比較文化)が「明治期におけるドイツ哲学の受容とケーベル」、島尻政長・ケーベル会会長が「ケーベルの生涯-その哲学と音楽」、中西隆紀氏(元「本の街」編集長)が「ケーベル駿河台邸とその周辺」という題で講演しました。

 兵頭教授は、ケーベル来日前の日本の哲学界の状況など、詳しく紹介し、島尻会長は、ケーベルの来日前の特に音楽的素養の背景などに関心を示しつつ、年代の記憶などでは博覧強記ぶりを示して、聴衆を驚かせました。また、中西氏は、ケーベル邸の内部を図解しつつ、夏目漱石などとの会食の模様を話しました。

 続いて、ケーベル会の総会があり、島尻会長の挨拶、また会員のケーベル関連情報の提供もあり、和やかな雰囲気の中で親睦を深めました。

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2007年3月 7日 (水)

奏楽堂

東京新聞(07年3月7日)朝刊「名建築を訪ねる 首都圏」欄に、旧東京音楽学校・奏楽堂の記事があります。

奏楽堂は1890(明治23)年に日本で初めて出来た木造のコンサートホール。その後、老朽化による建て替えが決まり、1972(昭和47)年に、愛知県の明治村に移築が決まったのを、音楽家たちの運動で、現在の上野公園に移築保存となった。復元工事が完成し、記念講演会が行われたのが1987年3月27日、ちょうど20年前のことであった。

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2006年12月11日 (月)

ケーベルと大正教養主義

大正デモクラシーあるいは大正教養主義の再考が私の意識に上ったのは、元米国駐日大使E・O・ライシャワー氏が、「日本の戦後民主主義というものは、既に大正デモクラシーという手本を持っていて、その時代に近い」というような印象を述べられたことがあるからである。同じようなことを武田清子氏も指摘している。

戦後民主主義は、大正デモクラシー、自由民権運動、明治維新の「五箇条の御誓文」にまで遡り、つなげることができるのではないだろうか。

少し注意すべきことは、大正デモクラシーの推進者たちは、その時代では理想主義者でありえたことだ。それは明治憲法体制の中では、デモクラシーは理想であったからだ。しかし、今、デモクラシーは理想ではなく、現実である。そんな体制の中に、われわれは生きている。その違いに留意すべきかも知れない。

ケーベルとその弟子たちは一般的には、大正教養主義をもたらしたと考えられている。この大正教養主義は、ケーベルのキリスト教信仰に原点があったとしても、その信仰的原点から離れていくに従い、マルクス主義という、変種ヘブライ思想に基づく実践的思想に圧倒されていく。

ケーベルにおける「教養」というものは、超越的契機を含んでいたが、その後の教養主義者の「教養」には、その超越的契機がなくなり、重みが失われていったのではないだろうか。

さて、『近代日本思想史の基礎知識』(有斐閣)によれば、「『大正』の『教養』は、『明治』の『修養』に対立する概念である。ケーベル博士を源流として、漱石門下生と『白樺』の一部が大正期教養派の主軸で、日本知識人のひとつの有力な型を提出する」(238頁)と言われる。

「『明治』を象徴する言葉として、『修養』という言葉があるが、『大正』の場合、これが『教養』という言葉に置きかえられる。このことは、唐木順三によって指摘されてもいるが、『修養』の底辺には、つねに一筋なもの、いっこくなもの、ストイックなものがある。『教養』の底辺には、つねに紳士的な要素、物わかりのよさが漂い、あれかこれかではなくて、あれもこれも摂取しようとする姿勢がある」(238頁)

「大正教養主義という『主義』がこの時期に運動として起こったのではない。これは後年、唐木順三によって名づけられたものである」(238頁)という。大正教養主義の名付け親は唐木順三である、という。これは覚えられてよいことではないだろうか。

また、阿部次郎のケーベル回想を紹介したあと、「日本における教養派の源流はケーベル博士であったといってよい」(239頁)という。

大正の教養主義・人格主義のリーダーというのは、安部能成、阿部次郎、小宮豊隆、和辻哲郎といった人たちであり、東大出身の秀才たちで、夏目漱石と同様にケーベルの影響を受けた人たちであった。

三木清は言っている。「日本における教養思想に大きな影響を与えたのは、ケーベル博士であって、その有力な主張者たちは皆ケーベル博士の弟子たちであった」(『近代文学とキリスト教』米倉充著、創元社、200頁)

また、「明治末期から大正初期にかけて日本の哲学界のみならず、広く一般の知識人、教養人の間に大きな感化を及ぼし、いわゆる『ケーベル時代』を生んだのが、哲学者ケーベルである」(前同201頁)

「彼の哲学は西洋の伝統的な古典的教養を踏まえたドイツ観念論を、より神秘主義的に解釈し直したものである。それは彼自らがキリスト教汎神論、超越的実在論と呼んだように、敬虔なキリスト教信仰に裏づけられた伝統的な西欧哲学であった。したがって彼の哲学的立場は、どちらかといえば、かなり古風で非体系的であり、そのころ流行していた新カント派の哲学に対しても余り好意を寄せていない。すなわちケーベルの感化は、彼の学識ではなく、むしろ彼が哲学を学ぶ者の根本的な態度を教示した点に見いだされるのではなかろうか。まず彼は日本の哲学界の軽佻浮薄を嫌い、ギリシア・ラテンの古典にまでさかのぼって根本から着実に研究すべきことを教えた」(前同201頁)

このようにして、漱石、ケーベルらによって大正期の教養が形づくられていったが、それは非政治的、非社会的性格を持つものであった。逆に観念世界における教養の幅の広さは驚嘆に値するものであった。基本的態度は、このようなものであった。

「人類が築いて来た多くの精神的な宝--美術、哲学、宗教、歴史によって自ら教養する」。そして、この教養によって、「貴い心情が得られ」「全的に生きる力強さはそこから生れるのです」(『偶像再興』和辻哲郎著)

「優れた文明を建設し、豊かなる生活を開展せんがためには、その基礎を広く大らかに築かねばならない。そのためには、我等は祖国のことと共に世界のことに就ひて、自家のことと共に他人のことに就ひて博大にして深奥なる興味と理解を持っていなければならない。狭隘なる国粋主義は、徹底せる理解と批評とを欠ける外国模倣と共に、我等の文明と生活とを貧寒にするものである。この二つの誤謬に対抗して、一切の事物の対する豊かなる同情と徹底せる理解とを媒介するところに我等の第一の使命がある」。そのため「世界古今の思潮を現在の我国に導き来って、其処から新しい思潮を導き出す」(雑誌『思潮』の創刊号、主幹阿部次郎の言葉)

この雑誌『思潮』は大正5年の創刊で、ケーベルも毎号、随筆などを寄稿した。しかし、経営の理由などで、大正8年に廃刊した。それは次のような点であった。

①教養は、漱石のいう内発性のない「高等遊民」のアクセサリーとなった、②幅広い知識も、中心になる人格的機軸のない、いわば「万国知的博覧会」の相を示した、③唐木順三氏のいう「型」を喪失した無性格的の知的享楽人を多く生んだ。

「このことは、大正教養主義者が極めて宗教に接近し、同情者でありつつ、結局、宗教の持つ『信』の契機を把握できなかったことと無関係ではない。すなわち彼らの態度は、飽くまで芸術的な観想の立場に終始し、『あれかこれか』の主体的決断を迫る宗教の要求に対して、『あれもこれも』の第三者的な認識にとどまっている」
(『近代文学とキリスト教』米倉充著、創元社、207頁)

こんなことを考える。

大正教養主義の多面的な関心も、ケーベルの影響なのではないか。ケーベルの「キリスト教的汎神論」の「汎神論」の部分が、それを導いたのではないだろうか。しかし、この教養主義の中で、ケーベルは憧憬になっていく。そこでは、ケーベルのキリスト教的原理が明確に把握されなかったのではないか。

大正教養主義には、宗教から切り離された教養の持つ限界があった。教養は、宗教者にとっては、究極へと運んでくれる梯子でもあるが、単なる教養主義者にとっては、人間性の領域に留まるのである。

従って、それは、やがて、マルクス主義者から、「反動的な観念論者として痛烈な批判と論難の対象とされた理由」となった。(前同205頁)

それでは、大正教養主義の遺産というものは、どんな意味を持つのであろうか。

阿部次郎と吉野作造について、こんな記述がある。

「阿部次郎が吉野作造とはじめて会ったのは大正8年5月、このとき、阿部は吉野のすすめで満鉄への講演旅行を承諾した。そして翌6月末、黎明会に加入した。教養主義のチャンピオンが黎明会会員になったという事実、それはとりもなおさず、教養主義と民本主義が思想的基調において同一であったことをものがたっている」(『近代日本思想史の基礎知識』274頁)

吉野作造の後継者と言われる河合栄治郎については、こんな記述がある。

「河合栄治郎は、理想主義・人格主義ふうの学風をもつ自由主義者で、マルキシズムおよびその経済学には終始批判的であったが、同時に、軍部を中心とするファシズムの風潮にたいしても、仮借なき批判者として、最後まで節を屈することがなかった」(『近代日本思想史の基礎知識』383頁)

河合は東大経済学部教授であったが、昭和13年秋、「社会政策原理」「ファシズム批判」「時局と自由主義」「第二学生生活」の四つの書物が発売禁止となり、この問題で14年初頭、休職処分にされた。

その後、河合が編纂した「学生と教養」「学生と読書」以下10点の「学生叢書」がベストセラーになり、この教養主義の風潮は、戦時軍国主義の跳梁に抗して、一時代を作ったといわれる。

このように、阿部次郎や河合栄治郎によって教養主義が展開されてきた歴史を見る時、それを評価したい気持ちにもなるのである。

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目的

今、なぜ、ケーベルなのか。ケーベル会の目的は何なのか。そんなことを考えることがあります。

大正教養主義というものがケーベルの弟子たちによって形成された。しかし、軍靴の足音が聞こえ始めた時、この文化はそれを阻止する力を持たなかった。無力だった。その反省とともに、その意義を評価する目を持たなくなったのかも知れません。武田清子さんは、この時期の無教会の勢力には、評価するものがあると考えておられるようですが。

しかし、現在は民主主義の時代。この原点が大正時代にあり、それと接続する可能性がある。武田さんは、そんな指摘をしていたとも思います。であれば、民主主義の成熟という目的の中で、ケーベルを考える意味もあるのではないかと、思います。それは、明治からの近代日本の再考の時を持つという意味でもあると思います。その必要性は、今もあるのではないだしょうか。

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2006年11月24日 (金)

会発足のころ

沖縄に 電話入れたり 新聞に
 記事を見つけて 発足のころ

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2006年11月18日 (土)

初の講演会

Rimg0052 ケーベル会が最初の公開講演会を開いたのは、1994(平成6)年6月12日(日)でした。午後3時半から6時半まで、場所はケーベルの住居跡で、当時は日仏会館でした(現在は華道・池坊の建物、写真)。会報の第2号(94年8月1日)に、次のような記事を載せました。参考まで、紹介します。

 東京・神田駿河台のケーベル邸跡で、現在の日仏会館会議室で、ケーベル会初の講演会が開催された。これは数日前の朝日新聞「催し欄」に紹介されたために、それを見てこられた方もあった。また、この機会に「ケーベル会会報」の第1号(試作品)を作り、各方面に配付し、また会場でも参加者に渡した。
 当日は雨模様のために、参加者の足に響くのではと思われたが、大学関係者など、自分のテーマとのかかわりで、ケーベルの意義を追究しようという人々も集まり、講師の話に熱心に耳を傾けていた。
 講演会は午後3時から始まり、兵頭高夫教授(武蔵大学、比較文化)が「明治期におけるドイツ哲学の受容とケーベル」、島尻政長・ケーベル会会長が「ケーベルの生涯-その哲学と音楽」、中西隆紀氏(元「本の街」編集長)が「ケーベル駿河台邸とその周辺」という題で講演した。
 兵頭教授は、ケーベル来日前の日本の哲学界の状況など、詳しく紹介し、島尻会長は、ケーベルの来日前の特に音楽的素養の背景などに関心を示しつつ、年代の記憶などでは博覧強記ぶりを示して、聴衆を驚かせた。また、中西氏は、ケーベル邸の内部を図解しつつ、夏目漱石などとの会食の模様を話した。
 続いて、ケーベル会の総会があり、島尻会長の挨拶、また会員のケーベル関連情報の提供もあり、和やかな雰囲気の中で親睦を深めた。
 ケーベル会では、現在、年1回、会誌の発行を決めているが、それだけでは会の活動として不十分という認識もあり、ケーベル関係の情報交換のために、2、3カ月に1度くらいで、会報を発行し、会員間の交流を深めようということになった。

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2006年11月15日 (水)

一首

ケーベルに 一首捧げよ また一首
 積もり積もって 日本を変えよ

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2006年11月11日 (土)

ケーベルとハーン

ケーベルとラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とは、東京大学で顔を合わせている。1896年が、ハーンが赴任した年で、大学にいた3人の外国人教授らは、ハーンに反感を表したという。この部分は、よく知られていると思う。こんな証言である。

「三人の外国人教授はカトリックの信者で、哲学教授のケーベルはとくに放言するくせがあった。『異教徒は救われない。救われない魂を救うには焼き殺すべきじゃないか』と平気でいった。そして、『全世界はカトリックの改宗すべきだ』と大声でつづけた。フランス文学教授のエックは『その通り』と応じた。同じようにしゃべるエックのフランス語が耳にとびこみ、ハーンは顔色をかえた」
(『小泉八雲』石一郎著、集英社、1982年、127頁)

三人の外国人教授というのはケーベルのほか、ドイツ人の文学史家のフローレンツ、それにエックである。ケーベルの改宗には、このエック(マリア会司祭)の影響があり、1899年のことであった。だから、ハーンが赴任した時は、ケーベルはまだカトリックではなかったということになる。

石氏が伝えるケーベル像は、ハーン赴任の数年後、ケーベルがカトリック信仰に燃えていた時のことなのかも知れない。

そして、ハーンの後任者が夏目漱石であった。

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2006年11月 9日 (木)

ミュンヘン時代

ケーベルのミュンヘン時代については、『ケーベル博士小品集(正)』の95-96頁に、詳しく書かれています。

その個所は、「ミュンヘンに暮らした十年間は、私の生涯の中最も幸福であつた時代であると私は思ふ」(93頁)から始まり、1892年の終わりに、ハルトマンから一通の手紙が来るまでです。主に信仰について、ケーベルは書いています。その手紙を受け取った時、「最初は私は其れを戲談(じやうだん)であると思つた」と言っています。

その10年間の思い出はの中に、「ミュンヘンに於て私の心の中に再び覚醒して来た私の昔からの旧教的嗜好は、次第に私を導いて、遂に教会に籍を移すに至らしめた」とも書いています。この教会がカトリック教会であったことは、明示してはいないものの、そのあとの文章との関連で理解できます。『ケーベル博士随筆集』の中に出てくる「ミュンヘンでの改宗」というのは、きっと、この個所を参照にして書かれたのだと思います。

しかし、ケーベルは、ここでも自由な信仰について語っています。

「私は実に生まれた時からして一の教会、即ち希臘正教会に籍を置いて居った。併し此事は、今迄曾て私の新教主義的に、福音主義的に、若しくは尚一歩進めて云へば、無宗派的に、哲学的に自由に思惟し、生活し、又働くことを妨げたことはなかつたのである。此時とても全く其れと同じなのであつた。私の思想は飽く迄も自由である。教会外的である。曾てさうであつたし、今もさうであり、尚何時迄もそうである」

この次の個所で、ケーベルは、自分を福音主義的基督教徒とまで言っています。

「…、自ら私をして厳しい旧教信者の眼には異端者たらしめ、異端者の眼には又十分に異端者たらぬ者として映ぜしめるのである。併し其れを私は甘んじて受けなければならぬ。そして私は、私自身の眼には一個の福音主義基督教徒であることを以て、悦びとして居るのである。此意味に於て基督教徒たることは、私の信ずる所に依れば、孰れの宗派(基督教以外のでさへも)に属する者でも、其儘なり得るのであり、又ならなければならぬものである」

そのあとで、このような立場に対するハルトマンの批判を短く書いています。今、このような信仰的立場を、どのように受け止めていくのか、分かりませんが、ケーベルの信仰の中には、旧教も新教もあったということかも知れません。あるいは、そう思うことを許したということかも知れません。

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福本書院

インターネットを覗くと、本郷の東大の前にあったドイツ洋書の専門古書店「福本書院」が廃業しているようです。2000年のことらしいです。

福本書院の創立者は福本初太郎さん。キリスト新聞の昔のもの(昭和42年11月11日号)には、福本さんに関するインタビュー記事が載っています。そこには、こんなふうにか書かれています。

「福本さんはケーベルとはずい分ながく親しくしている。福本書院の顧客の一人であったし、同時に福本さん自身にとって師でもあった。福本さんは今でも店の中央にケーベルの肖像をかかげ、表のショーウインドーにはケーベル自筆の手紙を額におさめて飾り、師と仰いでいるほどである」

福本さんは、その時、77歳でした。ケーベルに接した人だったのです。ちょうど、学園が騒がしくなりつつあるころのことです。

福本さんは、戦後、令嬢和子さんの勧めで、日本基督教団本郷中央教会で武藤健牧師から受洗したといいます。

この武藤健牧師は一時、キリスト新聞社の社長だった時もありました。

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