2007年4月 8日 (日)

質問

管理人様、 
  私の先のコメントをブログに載せていただいて恐縮です。最近「帝国文学」1-10及び2-2に連載されたケーベル著「希臘古代の詩歌及音楽」を読みましたので報告します。内容は古代の楽器について少々触れられていますがほとんどが古典ギリシアの詩の内容、韻律、神話的歴史的背景についての概論です。正続でホメロスの英雄叙事詩からサッポー等アルカイック期の抒情詩までをドイツ詩人の訳も交えて解説しています。最終編で古典~ヘレニズム期まで至ったものと思われますが確認はしていません。感じとしては大学の講義録のようなものです。当時は古典ギリシア文学の解説はおろか、翻訳も日本では非常に限られていたので読者にとっては貴重な情報源となったでしょう。
  また国会図書館の近代デジタルライブラリーで「神学及中古哲学研究の必要」が公開されているのも発見しました。http://kindai.ndl.go.jp/で「ケーベル」と入れて検索すると出てきます。サイトを通してPDFに変換し、保存することも出来ます。
  最後に質問ですがドイツ文学者の水野繁太郎はケーベル博士と接点があったのでしょうか?彼の明治36年刊、「羅甸文法階梯」を見ていたのですが、序言に論じられている古典を通して西洋文化を学ぶ必要性というのがケーベル博士の唱えていたものと同じものなので知りたくなりました。ちなみに羅甸文法階梯も近代デジタルライブラリーで公開されています。

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2007年4月 6日 (金)

秋さんから

管理人様こんにちは。この間ケーベル会誌を送っていただきました某でございます。その後生まれたばかりの子の世話や再度の出国などに追われ、きちんとメール等の返事が出来なかったかもしれませんことをお詫び申し上げます。
  ところでケーベル博士については 角田文衛 「濱田耕作博士とギリシア銘辞学」 古代学研究所「研究紀要」7 1998年5月 19-33ページ にもたびたび言及されているのを発見致しました。この論文の指摘によると日本考古学の父とも言える濱田耕作氏も東大学生時代にケーベル博士より強い影響を受けているようですね。

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2006年11月28日 (火)

ケーベルしのび

朝まだき 紅茶さしつつ 想い走(は)す
 ケーベルにみる 永遠(とわ)のいのちに

何であれ 本もの求めて 歩むよう
 ケーベルしのびつ 子らをみちびく

千葉の鈴木玲子さんから送られてきた短歌二首です。「数年前までの我が家の風景と、町の児童館の子供さんに対する鈴木の様子です」、そんなコメントと共に。

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2006年11月10日 (金)

中世研究の原点

■最初に
 ケーベル著『神學及中古哲學研究の必要』が日本における中世哲学研究の原点と言われている。この本がどんなものであるか、今ではなかなか手に入らない。しかし、私は、以前、読んだことがある。内容がどんなものであるか、記しておきたい。この書の存在と、内容の概略を、ここに残しておきたいと思う。

■中世の発見
 一冊の古ぼけた小冊子を、上智大学中央図書館の片隅で見つけた。表題は「神學及中古哲學研究の必要」とあり、1910年(明治43年)2月に教学研鑽和仏協会(ドルワール・ド・レゼー神父の主宰)から発行されたものである。内容は、教学研鑽和仏協会の依頼を受けて、1909年(明治42年)、ラファエル・フォン・ケーベルが、その年の冬季に、東京帝国大学の学生たちに講義する中古(中世)哲学史についての自身の見解を述べたものである。この年は、ケーベル61歳であり、彼がカトリックになってから10年の歳月が経っていた。小冊子(宗教的な教えを述べたもので、トラクトと言われる)の翻訳は山口鹿三、野口英世にフランス語を初めて教えた人であった。
 この小冊子が日本における中世哲学研究の原点というのである。その伝統はカトリック側では岩下壮一神父によって受け継がれ、その後、吉満義彦らが続いた。また、プロテスタント側では石原謙が中世哲学への関心を抱いていたが、ケーベルに最も期待されていた波多野精一は、その領域に深入りすることを弟子には避けさせた。しかし、「近代の超克」が、今もなお課題とすれば、中世再考も、その可能性の一つであろうし、この学問の伝統は大切と思う。
 世界に目を向ければ、この学統の中には、吉満の師匠であるジャック・マリタンや、中世哲学史の碩学、エチエンヌ・ジルソン、そして英国の歴史家、クリストファー・ドーソンらがいる。この人たちは日本でもよく知られたカトリックの著名な知識人なのだが、今でもなお魅力を失っていない。
 ジルソンの『中世哲学の精神』(上・下、筑摩書房)などは、何度読み返しても、新たな発見の喜びを与えてくれる。彼らの紹介する西洋というものは、教科書的な、一般の歴史とは違った響きを持っている。学校ではルネッサンスと宗教改革によって開かれた近世というものに光が当てられて、中世は「暗黒」の時代で、批判・克服の対象のように教えられてきたが、先人たちの努力により、このような歴史観も克服されてきたと言えよう。哲学を専攻したマリタンやジルソンは中世の神髄に迫ろうとした。その成果は、理性と信仰の関係を考察するように導かれた魂には、どんな時にでも古くなることはない。
 昭和40年代の初めに、第二バチカン公会議があり、カトリック教会の姿勢ががらりと変わった。中世至上主義は捨てられ、かわりに初代教会への関心が高まり、カトリック教会の中で聖書が注目され、聖書研究がプロテスタントをも超えるかの勢いを見せるようになった。エキュメニズムの名のもとに聖書の共同訳も試みられた。かつてのような中世至上主義は姿を消した。
 しかし、問題はないのか。第二バチカン公会議のあとの教会一致運動(エキュメニズム)は、中世を避けて、カトリックとプロテスタントが共有している聖書と初代教会に帰ろうとしているようだが、それは対話の手段としての選択なのではないのか。もちろん、対話できない所から対話できる所への前進は認められるべきだろう。
 日本ではエキュメニズムに関する深刻な神学的対話は始まりそうにないが、世界では対話が進んでいる。対話の場として、初代教会への回帰が言われても、古カトリック教会であれば、そこには中世の教会の論理が見えている。あるいは、この古カトリック教会以前に帰るというのであれば、そこでは、もう一度、ヘレニズム文化との出会いと葛藤を経験しなければならなくなるであろう。日本にはヘレニズムはないと言っても、その言葉で、何か人類に普遍的なことが含意されていたのであり、その普遍性において日本も関係せざるを得ない。そして、古カトリック教会形成の是非が論じられ、それを前提とする道がカトリックでは当然の如くにして選択され、プロテスタントでは、その時に新たな決断を迫られるのではないであろうか。
 ヨーロッパ中世の意義はなくならないのではないかと思う。平成8年には、印具徹氏が『カトリックとプロテスタントとの思想的母体』(日本キリスト教団出版局)を書いて、カトリックとプロテスタントが西洋中世のスコラ思想を共有できることを指摘した。カトリックの信仰・思想について、昔は神父から教えられたが、今ではプロテスタントの学者から教えられるのだ。しかし、この書物はプロテスタントに向けたメッセージで、その関心をルター、カルヴァンを遡って中世スコラ思想に向けた。新たな視点の提示という意味では画期的であると同時に、議論を呼ぶのではないかと思われた。
 いずれにしても、キリスト教は、それ以外の宗教思想と無関係には長くおれないし、折衝が始まるのは時の問題なのである。この両者の折衝の中に、中世思想の意義というものは不変なるものとしてあり続けるのである。それは言葉を変えて言うならば、信仰と理性の関係であり、それは人類史の中では常にある課題、従って、今の日本の課題でもあるのだ。
 こうして中世思想の重要性が分かれば、日本における中世思想研究の歴史に関心が向くのも当然である。その時に、ケーベルの「神學及中古哲學研究の必要」が注目される。今では誰も見向きもしないであろう、この小冊子に注目することは、中世思想のもつ世界的意義を思う時、一つの見識ではないであろうか。

■『神學及中古哲學研究の必要』を読む
『神學及中古哲學研究の必要』の内容を紹介したい(以下、引用個所は現代かなづかいに変更し、用語も分かりやすくした)。
 まず、ケーベルは冒頭、「神学」の定義を行う。それは「最も広い意味に用いたもので、実は理論的実際的基督教全体及び旧新両約全書の聖史を指す。これ一語で言い表すべき適当の語がないからである」と言っている。今で言えば、組織神学、実践神学そして教会史を指しているのであろう。
 本文は第一篇で「神学研究」、第二篇で「中世哲学研究」の必要が説かれている。
 まず「中古哲学は日本帝国大学に於ては従来全く閑却せられたりしが今日もなお閑却せられつつあるなり」という。これまでの講義の時間が少なかったことを省みて、それは、自分がこの時代の哲学を重要視せず、また興味がないためではなく、自分にとっては、最も大切で、興味のある問題であった、という。では、なぜ講義時間が少なかったのか。その理由を次のように述べている。
 一つは学生が、この問題を嫌っているので、いやなものを研究はしないであろうし、また教師としても、そんな学生の影響を受けるというもの。
 二つ目は、大部分の学生が基督教の初歩も全く知らないので、徹頭徹尾、基督教に関係している中世哲学は、その全体がなければ不可解であろうというものである。
 しかし、学生の間に、次第に、そのような傾向も少なくなって、講義を聞くのも嫌ではなくなりつつあると思う、というのである。
 そして、ケーベルは、講義の目的を、学生たちが、次第に神学と中世哲学とに対する、これまでの先入観による偏見を全く脱却することをに貢献したいという。その方法として、ケーベルは、「間接の方法」を最良と考えている。その方法とは、基督教神学の知識は、すべての教育ある人々、基督教信者であろうとなかろうと、歴史、哲学、文学あるいは芸術の研究をしようとする人々にとっては必要不可欠であることを示すことにある、という。それは神学の知識のない者は、基督教国(基督教時代)の広大な文物を理解することができないから、である。「諸君の熟知せらるる如く過去二千年間の欧州文明の全体はその微細なる点に至るまで悉く基督教にその基礎を有することは歴史上明確なる真理なり」。
 このような観点は、講義のあり方にも現れることとなる。それは、講義が、しばしば本題から離れて、他の学問の領域に入ることを説明する。それは学問の有機的に一体性の指摘であり、特に「心意の学問」と呼ぶところのものにおいて、あてはまるとしている。「各個の学問は他のすべての学問によって支持せられて従って直接間接にこれに関係し相総合して一体、一機関を構成するために、その一部分、一支体を切断すれば全体に傷害を及ぼすことを免れないからである」。そして、神学こそ、この真理を明白に表明しているという。「神学は一方に於いては哲学と詩文学(例えば聖会が用いる古代の外教から採用した標号=象徴、シンボル=のようなもの)、及び数千年来の宗教、文物、教化及び歴史の全発展の総計であり、結果である。また神学は他の一方に置いては新文化、人類歴史の新時紀の揺籃であり、新学問、新哲学、新芸術、新文学の源泉である」。
 従って、この事実こそが、神学研究の興味を喚起して、それが、ただ基督教徒と宗教家にのみ必要という謬見の打破に十分だと言っている。
 ケーベルは、カンタベリーのアンラルムスにならって、信仰するところのものを理解する義務に同意しつつも、神学なくしても立派な信仰者のいることを指摘して、「神学は信仰の母ではなくて、むしろその反対に信仰が神学の母である」と言う。
 しかし、ケーベルは、宗教家として神学を説くのではなくて、哲学、文学、歴史、芸術の研究者として講義する、それは神学研究は、世俗の学問と芸術を一層よく理解し、一層よく、これを玩味するためという。そして神学は、ローマ公教会(カトリック教会)が教えるままに神学を研究するとしている。
 この神学研究にあたって、なぜローマ公教会を推薦するのかについて、ケーベルは次のような指摘をしている。
 それは自分が、その教会の信者だからではなくて、天主公教は基督教の純正な形式であるから、基督教の模範であり、根幹であるから、という。これに反して、新教及びギリシャ教(正教会)のような異端及び離教はすべて、その枝葉だから、という。しかも、そのあるものは不具不完全で、そのすべてはことごとく変質している、この変質したものについて、変質させられたもの、純正なものを研究するのは正当ではない、仮にこれを研究しても、これを理解することはできない、それは、河川の本流を離れて成形した濁った池沼を見ても、その河流の観念、その河水の色、性質及び純粋なものの観念を得ることができないようなものだ、という。これに加えて、変質させられたもの、すなわち純正なものの知識がなければ、それらの変質したものも明らかに正しく了解できないからである。仮に、それらの変質したものが原始の教えよりも一層純潔に基督教を代表したとしても、そうなのだ、と指摘する。
 また中世の哲学は神学の肩によって立っていることは我々の既に知っていることであり、中世哲学の最大の代表者は、神学上の信条を科学的に、論理的に証明したものである。それだけでなく、この歴史的基督教の教義に通じないのであれば、近代哲学の研究においても挫折するであろう。
 文学と芸術においても、基督教の神学に通じないのであれば、十分にこれを解し、これを味わうことができない。そこで、例としてダンテ、シラー、ゲーテの場合を挙げている。また音楽における基督教の影響も説明している。
 これら第一篇全体で言われていることは、西洋文明を理解するにはキリスト教理解が不可欠であるということである。
 次に第二篇においては、特に思想問題が取り上げられ、中世哲学研究の必要が説かれている。またキリスト教の受容問題も触れているが、教学研鑽和仏協会の注などを読むと、第二バチカン公会議の精神に符号する点も少なくない。
 中世については、暗黒時代、知的停滞の時代、僧侶の束縛に人類が屈服した時代と言われていて、これらが絶無とは言いがたいが、これらのことの他に、中世の歴史はまた多大の光明赫 たる点を有している。哲学及び宗教上の大人物を出したことを忘却しているか、または知らない。中世にも人類はほとんど間断なく、知的自由と光明とに向かって一般に進歩しつつあった。
 ケーベルは中世に近世の萌芽があり、二つは断絶したものでないことを言う。「私は、人がもし、中世の文明、歴史及び哲学をよく知得するなら、近代のものを尊重する、しかも往々にして過度にこれを尊重する弊害を根本的に矯正できることを確信する」。 そして、ギリシャ哲学とキリスト教との関係については、「我々はギリシャ哲学なくしては全くキリスト教を理解することができない。もちろん、そうは言っても、イエス彼自身の人物と教訓を理解できないというのではなく、イエスの後に研究されてヤソ教と関係するに至って、また次第に発展して第13世紀に至って完全な形体を具えた教義、宗教上の組織を理解できないというのである」。
 この部分には注があり、こう言っている。「イエスの後に研究されたということで、信者自らがキリスト教を組織したというように理解すれば大きな誤謬である。キリストの教訓がキリスト信者を作ったのであり、彼らはその教訓を真正の基準として継承したのだ。彼らはキリストの聖言を基礎として哲学者らの説の真偽を判定した。かの哲学者などの説の中で、東洋諸国やギリシャ、ローマに広まった説の中に含まれた真理は捨てる理由がない。これを自然に知得した真理として採用したのである。キリスト教の学者たちは、これらの哲学者たちの説いた真理とキリスト教の真理とを一致させて、キリスト教的哲学、神学という広大な事業を論理的に建設したのだ。それを知りたければ、トマス・アクィナスの神学大全を見よ」
 またケーベルは改宗による異文化の宗教内混入に触れるが、そこにも注がある。「この世には、謬説のみで満たされている宗教はない。いかに不完全の宗教であっても、多少の真と善を含んでいる。だから、人がキリスト教を信じるときも、先に信じた宗教の捨てるところは、その宗教の偽と悪の点のみである。その宗教の善良な道徳部分は採用すべきだ。またその国の不良でない習慣を採用してもよい、これまで行ってきた善徳はこれを行ってもよい。要は、その動機が違うだけ。これまでの信仰心はよいといっても、その信仰の標的が違う。信仰の形状は同一でも、信仰の内容が違う。換言すれば、信ずるところの神が同じではない」
 この第二篇ではケーベルは、ギリシャ思想の宗教的性質を指摘して、キリスト教につなぐ。そこでは当然、ケーベルのキリスト教理解が語られているが、注が多く付されている。特に、「イエス自らは我がキリスト教の信条を、そのようなものとは定めなかった。信条というものは、その後、キリスト教会の内で信徒の間に次第に発展したものである」というところでは、「その教えのすべての信条はキリスト及びその使徒たちの教訓の中にことごとくが含まれている」と言い、キリストと教会の一致と発展に区別をつけることを避けようとしている。                                                                                                  (M.E.)

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2006年11月 4日 (土)

三大資料

二十世紀半に発見・紹介・復刻された
  キリスト教関係の三大資料
               鈴木重昭

 二十世紀の後半に発見され紹介され、さらに復刻されて公開された、キリスト教関係の三大資料がある。これらのうちの二つまでがケーベル先生(以下K先生と略記)のものですから、K先生からはじめましょう。
 その一は、小松美沙子女史(ピアニスト)によるK先生の作曲譜の復元で、公演された『ラファエル・フォン・ケーベルの九つの歌』(音楽之友社、一九九二年)に刊行されたものです。これはK先生の遺志に基づくもので、その遺書も復刻・公開されています(『世界』一九九二年六月号、二九八頁、久保勉訳?)。
 ともあれ、その内容は、
 第一曲「ぼだい樹のかげ」一八八四年にハイデルベルクで開始、一九〇五年に東京で完成。
 第二曲「ミニヨン」年代不明(ハイデルベルク?)
 第三曲「はるかな道を来るきみの姿に」年代不明、ハイデルベルク
 第四曲「なぜバラはかくも白いのか」一九〇四年六月、東京
 第五曲「陽光まばゆい日々」一九〇四年八月、東京
 第六曲「私が死ぬ時」一九〇五年七月十二日、東京
 第七曲「岸辺から」一九〇五年七月十四日、東京
 第八曲「水の妖精」年代不明、東京?
 第九曲「悲しみの余り右手を伸ばし」年月日不明、東京
 以上です。
 この著書には、中村洪介氏の「ケーベル『九つの歌』について」の一文があり、K先生の略歴と九つの歌曲の短い紹介がある他、特記すべきは、このK先生の選ばれた冬詩歌の原文には、現在の日本のドイツ文化学者として第一流の小塩節氏の対訳がつけられていることです。これによって、原詩の真意とともに、これらの詩歌を選ばれた、K先生の趣旨が的確にわれわれに伝えられています。
 これらの原詩人の氏名は省略するが、一名のロシア詩人(ドイツ語訳は誰がしたか不明)の他は、ドイツ人ないしスイス人で、すべてドイツ語圏の人々です。
 そして、この順位はK先生ご自身によるのだそうです。
 さらに、この復元されたK先生の作曲は、日本ばかりでなく、特に先生のご郷里のニシニ・ノブゴロット市はじめモスクワでも公開され、CDへの録音はドイツでなされました。このようにしてK先生の遺書の中の、
 …草稿トシテ残レル余ノ作曲歌謡ハ
 注意深ク…複写シテ…公表スベシ
 との御逝去四カ月前の遺書は、その後、六十九年して実現されたのでした。
 このことにより、これまでK先生といえば、そのほとんどが「哲学」者として理解されていたのに加えて、「音楽」の領域でもピアニストであるばかりでなく、作曲の領域にも深く及んでいた、との単なるレパートリーの平面的広さであるよりも、K先生の御生涯の広さ、深さ、厚さ…その全人像が、より立体的にーー「先生においては生そのものが芸術であった」(波多野精一)との真意が、広くわれわれに示されたのです。

 その二は、カナダの故レオン・ゾルブロッド文庫としてヴィクトリア大学に寄贈された「日本語文献」の中の、佐々木信綱『萬葉漫筆』の中の「ケーベル博士」の一文です。
 これは、K先生との橋渡し役をなさった橘糸重女史を通しての間接のK先生の談話ですが、K先生がいかに万葉の幾つかに久保勉訳で親しみを覚えられ、かつ理解を示されたかが記されています。このことは、従来のK先生は日本文化には無関心、従って無理解であった、という俗説に対する、単なるストッパーである以上に、これもまた、K先生の全人像に一層の厚み、深み(広くはないとしても)を加えるものでしょう。
 なお、この本の発見者は、「もともとケーベルは文学者であると同時に、作曲を専門としていたのであるから、古代日本の詩歌に興味がない方が不思議といえよう。佐々木自身も作詩家で、童謡・唱歌・軍歌などを幅広く手掛けていたのだから、この二人の学者には共通する点が多かったのである」といっている(「ケーベル会会報」一四号=前号)。この筆者は、満四歳から父親とK先生の墓参を共にし、久保勉先生から頭を撫でていただきました。

 その三は、K先生とは別のことで、内村鑑三先生の「水産動物学」です。これは筆者が、東京で、第十四回国際科学史会議があった時に、「数名の研究者による米糠からの抗脚気剤の抽出=一九一〇年代の日本のビタミン学の初期の歴史」(英文)の準備と平行して、その前年末から、水産学者の内村鑑三の原資料の調査をしてきた。まず、内村もいた水産伝習所の発展的後身の東京水産大学の図書館を調べることにしました。すると、旧『内村鑑三全集』(一九三一ー八年)には、未収載の、幾つかの「大日本水産会報」誌の論文のほかに、一枚のカードに、内村鑑三・動物学訓法との標題が目に触れた。はて、これは研究法の心得か? とにかく実物を見ることにした。待つことしばし、目前に置かれたものは、橙赤色の表紙の左上に「動物学訓法」との白紙が貼られ、開けると何と、そこには、「水産動物学 内村鑑三講述」と楷書で記されているではないか! 内容は丁寧な楷書で二つ折り(袋とじ)の水産伝習所の縦罫紙に書かれた、筆記稿だったのでした。
 これは、関東大震災で焼失または太平洋戦争中の空爆で焼失されたものとされ、標題だけが伝えられていなかったものでした。
 早速、とりあえず、国際会議の直後に、英文で「水産学者としての内村鑑三」と題して、日本科学史学会の欧文誌に、他の論文の内容も加えて公表し、合わせて鈴木俊郎(旧内村全集の編集長で、新約ギリシア語の恩師)にご報告しました。
 それにより、筆者の確認として新規の四十冊版の『内村鑑三全集』の第一巻の別篇(内村自身の筆跡でないため)として復刻(図版も)されました。このことは、この筆記稿(一八八九年)から九十八年後のことでした。 ともあれ、右の講義の筆記稿その他によって、内村鑑三がいかに、新生日本の小壮水産学者として抜きんでていたかが、これまで以上に一目瞭然でありましょう。
 その他の内村の魚学史・水産学史の位置づけについては、宇部短大学長の故松井魁『書誌学的水産学史並ニ魚学史』(一九八四年=改訂版)に詳しい。

■会報15号から。

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卓上語録

ケーベル先生卓上語録(Tischreden Dr.R.von Koeber)

鈴木重昭

 これらは、ケーベル先生が夕食などに招かれた愛弟子の方々に、よく語られた先生ご自身の言葉や西洋の古くからの箴言や諺の類を、筆者が気づいたものを拾い上げたものである。よって原語・原文を併記してあるものは、出来るかぎり、それらを併記するように努めた。
●哲学は、真理に対する二た心ない愛である。
●哲学は神を探し求め、宗教は神と共に住うことである。
●本物への感覚、要を把む力。
●ゆっくり急げ(Festina lente=Eile mit Weile)
●急がずに休まずに(Ohne hast aber ohne Rast)
●世人やその習慣に遠慮するな、汝自身たれ(Kummere dich nicht um Leute unt ihre Sitten, sei Du selbst)
●常に初心者(Semper tiro)
●時は余の富也、時は余の畑也(Tempus divitiae meae,tempus aget menus)
●老齢においては青年時代より一相勤勉なるべし
■ケーベル先生は、講義の時間を「相共に学び且つ研究した時間」といわれていた由で、それは「教えることによって学ぶ」(Docendo discimus)の格言の通りであった由
■ケーベル先生のご生活には縁のないこと(言葉)は、焦り、疎(おろそ)か、投げ遣り、粗忽など、つまり fluchlig の類である。
■だが、余りきちんとしたことは嫌いで、ordentlich aber wenig unordentlich (整理少しは未整理) というカントほどではないが、ゆうゆう大河の流れのような晩年にふさわしい約10年を過ごされ、特に小品集に集約されたあの珠玉の名編を残されたのであった。
■余は多くを学びつつ老いる、とのソローンの言葉通りに。
(以上は、故鈴木重昭・ケーベル会会長の遺稿とも言うべきものです。●はケーベル先生の言葉、■は筆者の言葉・感想が混じったもので、編集段階で区別しました)

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佐々木信綱とケーベル

佐々木信綱とケーベル

鈴木忠信

 筆者は現在、カナダのビクトリア大学図書館に勤務している者だが、昨年当館に寄贈された日本語文献の整理中、偶然にも佐々木信綱の随筆集『万葉漫筆』の中に「ケーベル博士」なる一文があるのに気づいたので、ここに全文を掲載して報告したい。
 佐々木信綱博士については、歌人・国文学者、殊に万葉集の研究家としてあまりにも有名なので、今更紹介の必要もないかと思われるが、念のため略歴を記しておこう。
 博士は明治5年(1872年)に、やはり歌人で国学者の父・弘綱と母・光子の長男として三重に生まれた。幼い頃から詠歌に親しみ11歳で上京、さらに和歌、漢学、英語を学ぶ。明治17年(1884年)、東大古典科に入学、4年後に卒業。その後38年(1905年)に東大講師に就任するまで、民間で和歌の振興に尽くし、父・弘綱とともに日本歌学全書の編集などもしている。東大では和歌史、歌学史、上代・中世歌謡史、国文学書史などを講じ、特に万葉集の典籍研究に多大の業績がある。明治44年に文学博士、大正6年に帝国学士院より恩賜賞、昭和6年には朝日賞を受けている(1)。
さて、『万葉漫筆』は、こうした博士の長年の研究生活から折々の感想や思い出などを、短い随筆風の文章にして一冊にまとめたもので、昭和2年(1927年)に東京の改造社から出版された。内容は、前半に万葉集の周辺的な話題を扱った短文が収められ、後半が主に万葉集の内容をあちこち拾っては、感想をのべるといった文章になっている。ケーベルの項があらわれるのはこの前半部分で、我国を「世界に紹介された外人」として「チャンブレン」(すなわち、チェンバレン)や「小泉八雲」に関する文章があり、そのやや後に1頁程の小文「ケーベル博士」が置かれている(41頁)。全文は左記の通り。
   ケーベル博士
  世界大戦よりも以前のこと、池畔の老樹が玻瓈窓に映つてゐたあの東大の教官室で、毎週ケーベル博士におあひした。それは講義の日と時間とが同じであつたからである。博士は日本語を話されず、自分は独逸語に通じないので、言葉をかはす事は無かつた。しかし、威厳はあるがやさい面わで、親しみのこもった目礼をせられるに対して、いつも答礼するのが常であった。
  博士が横浜領事館に移られてから、橘糸重さんが度々博士を訪問されると聞いたので、短冊に筆蹟を請うたところ、快く書いて下さつた。(それは大正15年に刊行した五百重波の中に収めてある)自分は自分の著した万葉集選集をさし上げたことであった。後、橘さんの話によると、あの本は久保(ケーベル博士小品集の序に、「古き忠信なる家人、かつ助言者たる」とある久保勉君)に所々訳してもらつて聞いてゐる。まことに面白く感じてゐる。たとへばあの、「久方の天ゆく月を網にさし」の如きは、いつまでも忘れない、と語つて居られたとのことである。それから間もなく世を去られた。橘さんを通してでも、万葉に対する博士の御話をお聞きする事が永久に出来ないやうになったのは、遺憾の極みである。
 本書内の他の外国人は、筆者の散見した限りでは「ワーレー氏」と、紀記の歌を訳した「フィッツマイヤー」がいずれも短く315頁に言及されているだけである。「ワーレー氏」とは、源氏物語の流暢な(正確とはいうまい)英訳で有名な英国人・アーサー・ウェイリーのことであろう。
 こうしてみると、前出のチェンバレン、小泉八雲も含めて、本書内で言及されている外国人はいずれも日本文学・日本研究で内外に知られた有名人で、同じ有名人でもケーベルだけが例外的に畑ちがいとなっている。しかも個人的なレベルでも「言葉をかはす事は無かった」程度の接触だったにもかかわらず、佐々木があえてこの言葉を本書に収めた意図は何だったのだろうか。ケーベルの名声を当て込んで、「面識」があったことを披露したかったのか。それとも「日本語を話されず」、一見日本文化に無関心であるかに思われがちなケーベルの世間像、ここで一挙是正しようとの思惑があったのか。または、ただ単に一介の真摯な学者として、自らも尊敬し、他からも崇拝されている西洋人学者ケーベルの、しかも専門外からの直感的な感想を是非聞いておきたかった、という正直な気持ちを記しただけということなのだろうか。文面を見る限りでは、どうもそのようである。
 いずれにしても、日本語もままならないケーベルではあったが、実際に万葉集への興味を持ったということは意外な事実である。通常ならば人からもらった専門外の本など、しかも読めもしない外国語の本など、よほどの興味がないかぎり、弟子にわざわざ訳させてまで手を出したりはしないものである。そのうえ、中身を読みもせずにありきたりの返礼をしたというのではなく、実際に自分の気に入った歌を周囲の者とのあいだで話題にしていた、というのもケーベルの万葉に対する興味の深さをある程度は物語っているのではないだろうか。
 ケーベルに関しては、専ら日本語ができなかったことばかりが強調され、そのためか彼が日本文化に無関心であったかのようにみられているようである。しかしながら経歴を考えてみると、ケーベルの場合、同時代の他の親日家と違って、若いころから憧れの日本にやっとの思いでやって来たというのではなく、たまたま職を紹介された先が日本だったというのであって、しかも40を過ぎてから当初3年の契約で来たのだし、その後も日本語を特に必要としない日常だったのだから、外国語を習得する動機づけという面から考えれば悪条件がそろっていたといえよう。したがって、ケーベルを他と比較して日本語の不出来や日本通でないことで責めるのは酷というものである。専門外の分野に下手に首を突っ込んで、生半可な知識や先入観から間違いだらけの日本論や文化紹介をしなかった点において、ケーベルはむしろ積極的に評価されてもいいのではないかとさえ筆者は考えている。自分の知らないことは、特に他の文明・文化に関することは、発言しないというのが責任ある人間の態度であろう。(ところが現実は、これができない学者・ジャーナリストが未だに後をたたないのである。)
 少し横道にそれたので万葉とケーベルにもどるが、もともとケーベルは文学者であると同時に作曲を専門としていたのであるから、古代日本の詩歌に興味がない方が不思議といえよう。佐々木自身も作詞家で、童謡・唱歌・軍歌など幅広く手がけていたのであるから、この二人の学者には言葉は通じなくとも共通する点が多かったのである。
 筆者はまた、この文章中のケーベル筆の短冊が大正15年刊行の五百重波に収めてある、というところに興味があるのだが、何分にも海外に生活しているので自分で確認できないのが残念である。これは今後の課題として国内の研究者に発掘ていただければと思っている。
 末筆になるが、本書をはじめ千冊近い日本語文献をビクトリア大図書館にご寄贈いただいた故レオン・ゾルブロッド博士とご遺族に、この場を借りてお礼申し上げたい。ゾルブロッド教授は、ニューヨークのコロンビア大学でドナルド・キーン博士の指導のもと博士号を取られ、インディアナ大学等を経てカナダのブリティッシュ・コロンビア大学(バンクーバー)教授に就任、日本古典を教えられた。特に江戸文学と能楽の権威で業績も多く、1989年に来日して1991年に癌で亡くなるまでの短い期間ではあったが、北米九大学が共同運営する横浜の日本研究センターの所長として、最期のぎりぎりまで後輩の育成と研究に専念された(2)。ケーベルの姿が彷彿とするのは筆者の思い過ごしであろうか。
 余談になるが、当館に寄贈された『万葉漫筆』の表紙裏には「一九四七年秋 片山哲」との直筆署名が入っており、現在当館の特別資料室に大切に保管されている。
                                                                (カナダ在住/画家・図書館司書)
 註
1. 手元の資料が乏しいのだが、「佐々木信綱博士小伝」、佐佐木博士還暦記念会編『日本文学論集』明治書院、明治7年、879頁-82頁等を参照
2. 詳しくは、John F.Howes, "Obituary: Leon Zolbrod(1930-1991),"The Journal of Asian Studies 51(4). 1992.pp,1007-8.

■これは会報14号に掲載のものです。

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2006年11月 2日 (木)

従僕の自殺

従僕ストラッサーの自殺をめぐって
 ーケーベル先生の光と影ー
               鈴木重昭

 生活の面では万事に無精だったケーベル先生(以下は先生と略す)は、来日に際してミュンヘン市内の通いつけのレストランの息子さんで、互いに親しかったストラッサーという少年を、身の周りの世話を頼むボーイ(従僕)として万里の波頭を超えて四十余日の船旅を共にして、日本まで連れてこられたのであった。
 A そのころのス君は十代半ばのホンノ少年であり、年頃から見てもギムナジウムにすら入学していたかどうかであった。しかし希有の言語感覚に恵まれて、まもなく日本人とほとんど変わらぬまでに、日本語には上達した。
 B こうして二十代までは、意外にも長くなった先生の日本滞在にも、I君のようなスイス系の飲み友だちなどもできーース君は強い酒は好まず、専らビールにだけだったがーーまた始終、「オレは学問なんか大嫌いだ」などと言いながら、時には空気銃を空に向かって発砲したりしてーー先生の生活は単調なため、余り用事もなかったのでーー自由放任に過ごしていた。
 C しかし先生の来日は四十五歳の不惑の年。しかしス君の方は、少年期からやがては壮年期にも及ぶ浮動の年。しかもその差は年齢だけのことではなく、生涯を独身で過ごされたーー実子を育てた経験の全くないーー先生には、本質的とまではゆかなくても両者の生活内容の格差は、教養をも含めて、その意識下では、かなり開いていったのではなかろうか。
 D 一方、先生の方はス君にしてみれば、彼の日本語よりも下手なドイツ語での学生たちーー先生を敬慕してやまない学生たちに囲まれてーース君の大嫌いな学問の世界に至極ご満悦だったのである。それだけにス君には、これらの人々には光り輝ける世界の外のーーいわば影のような谷間の灯火に照らされているような立場に置かれているようだったことに、周囲の誰もがーース君の楽天的な性格による、いつも快活な言動に隠されてーー先生すらもス君の心中の変化には、気づかずに年月ばかりがどんどん人々を越えていったのであろう。
 E 実際、渡日に際してはス君の母親にしてみれば(父親=レストランの店主?=がいつごろ亡くなられたかも不明)、「なあに、三年かせいぜい六年ーーまあ二十歳も過ぎるころには帰ってくるサ、それにあの静かな常連のケーベルさんだ、遠い異国だが心配もあるまい」程度に考えていたのであろう。
 F 一方では来日した少年ス君にしてみれば三年…三年と延ばされてゆく先生と大学との契約は、やがて二十歳へ二十五歳へ、そしてついに三十歳も越えるころとなってしまった。母恋うる少年もいつまでもその年齢には止まってはいない。ス君にも快楽の陰に人生の孤独を思い、将来への身の振り方……などなどの深まってゆく思いを、ゾッコン御満足の先生とは確かに違うところの心境を伝えるのには、その距離はますます遠のき、事の次第を伝えて種々の事柄ーー言い過ぎであろうが、ス君だけの一時帰国などーーを言い出す機会をつかめぬままに過ぎていったのであろう。
 G こうして運命の、一九一三年九月九日を迎えてしまったのである。
 「その日の朝起きると先生は二階から、ただならぬ声で私(久保勉)を呼び『ストラッサーが自殺した!』と叫ばれた」「それは先生にも私にも夢想だもしない出来事であった」「そこには鉛筆で走り書きの先生宛の一通の遺書が見いだされたが、その中にはーー(中略)ーー一語も死因には触れていなかった」(註①)。
 H この事件について久保勉先生は「ただ後から一つ思いあたったのは、その数日前『誰か僕を殺そうとつけ狙っている者がある』と真面目な顔をして私にいったので、『そんな馬鹿な話があるものか』と強く打ち消したことだけである。ーー(中略)ーー、これはいわゆるfixe Idee(脅迫観念)というものである、と先生はいわれた。なお私のいつまでも心残りに思うことは、ストラッサーの自殺の前日の夕食がすむと、彼は私に話したいことがあるから後で来てくれたまえと言ったのに、あいにく、九鬼(周造)君が尋ねて来てつい話が長びき、後でストラッサーの部屋へ行ってノックした時には何の返事もなかったので、もう寝たものと思って帰ったことである。かくて私は永久に彼の胸中を聴く機会を逸してしまった。もしそれが出来たならば、あるいは彼の妄想を解くことも不可能でなかったのではないか、などと思われてならぬ。
 ス君の葬儀はニコライ堂の、先生がその聖職名からディアコンさんと呼ばれていた助祭のドミトリー師により、ねんごろに営まれ、その遺骨は当時は青山墓地に埋葬されていた(註②)。
 I ス君は、自分のプライドのためか、しばしば「先生の息子だ」と自称していた。そこで側の者が憤慨して、それを先生に告げると、先生は、ただ両手を広げ、肩をちょっとすくませて、「na!」というきりで、相手にされなかった(註③)。しかし筆者には、それがス君からの多少とも先生やドイツへ留学する門下生への自分の老いゆく母親への恋慕や故国への郷愁の、せめてもの信号であったのではなかろうかと思えてくるのである(註④)。
 J ともあれ、ス君と故国のミュンヘンとの身内や友達との文通などはどうだったのであろうか。筆者は一九五〇年代末期から毎年六月十四日にはケーベル先生の墓参をし、久保先生をはじめケーベル先生の直弟子の先生方にもお目にかかり、後には墓参の日時までご通知いただけるまでになっていた。しかもス君の墓碑は以前より今の雑司が谷の外人墓地のケーベル先生の向かい側に移されており、献花もしていながら、遂にこの一事についても久保先生に伺いそびれてしまったことは、今にしてみれば、さらに久保先生がミュンヘンにお出での時の、ス君のご家族やお店の消息などについても、何も伺わずじまいに終わったことは痛恨の一事につきる(註④)。
 註 記
①この「九月九日」の記載は、島尻政長「ラファエル・フォン・ケーベル年譜」(『ケーベル会誌』創刊号、二七頁、一九九三年)、および角倉一朗・関根和江「年譜」。「年譜」では月日は同じだが、拳銃自殺とあり、空気銃との話もある(故福本初太郎氏談)。筆者には後者の方が本当のように思われる。なぜなら、もしピストルなら、高音や特に火薬臭は、海軍で実弾射撃の経験のある久保先生には、いくら木造家屋の階下であっても、だれかに気づかれるはずだからである。ともあれ久保・和辻の両先生はじめ直弟子の方々は、この件については一字も書いておられないので、筆者も福本さんだけに小声で伺っただけだった。
②久保勉『ケーベル先生とともに』一一五ー一一七頁。ただし多少、略引した。
③和辻哲郎『ケーベル先生』、三二頁。このnaとはnanuと同系の間投詞で、「おやまァ」「へー」「そうか、そうか」などの俗な軽い受け言葉。
④久保先生は天籍へ移される前年に、ス君の墓石の右隣にご自分の墓石を建てられ、今ではス君と二人並んでケーベル先生を見守っておられる。K先生の御墓所は、最初から雑司ヶ谷であり、その後、ス君の墓所は先生の向かい側に移された。

■これは以前、会報に掲載されたものです。

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