2009年3月 4日 (水)

ニコライの来日

日本における「新しき中世」の原点は、帝大で教えたラファエル・ケーベルであったと、私は考えている。その教え子の岩下壮一、その弟子筋の吉満義彦たちが、中世再考への道を備えた。
さて、ケーベルはカトリックに改宗前、東京・お茶の水にあるニコライ堂で知られる正教会のニコライとの交際があった。ニコライの日記にも、ケーベルへの言及がある。
そのニコライの来日の動機に、一人の日本人がいたのだという。彼の名は高田屋嘉兵衛。司馬遼太郎著『菜の花の沖(5)』(文春文庫)の38-39頁に書かれている。私は、このような人間関係をはじめて知った。

| | コメント (0)

2008年5月 8日 (木)

洋魂

洋魂の 師の時代去り されどなお
 そのまなざしに 解釈加え

「洋魂の師」とはケーベルである。そのまなざしは、西洋の中世を向いていた。もちろん、古典のギリシャの重視という見方もあろう。

そして、その時代は去った。平成の世は明治の世ではない。

しかし、西洋の中世は、一つの要素でできあがったのではない。この点が重要な洞察である。それは複合の産物であった。その複合を要素に分解して、新しい複合を造ってもいいのではないだろうか。それが「解釈加え」の意味である。

歴史的中世の再来を誰も期待はしないのである。しかし、その原理を考えた時、それは現代でも生かすことができるであろうと、思う。実際、この点は、今でもホットな関心事なのであると思う。だから、「新しい中世」は、その意味では現代的な、意味のある言葉なのである。

| | コメント (0)

2007年9月16日 (日)

戸川という人

ケーベルは、1901年(明治34)、小石川区高田豊川町の新築校舎で行われた女子大学校(現在の日本女子大学)の開校式で、自作の祝歌を演奏しています。以前、日本女子大学とケーベルは、どういう関係があるのだろうか、という疑問を与えられ、答えが見つからないでいました。しかし、一つの推測を提供しようと思います。

この祝歌の作詞者は、戸川残花です。戸川は、この時、成瀬仁蔵とはかって、日本女子大学の創立に参画しているのです。そして、のち、同大学の国文学教授にもなっています。

しかし、戸川の名前は、和辻哲郎著『ケーベル先生』(アテネ文庫)にも出てくるのです。

「先生の交友は広くなかった。しかし客は歓待した。殊に学生は喜んで迎えた。その頃に岩元、姉崎、高山、戸川、波多野などの諸氏及び橘糸重さんなどが学生として度々顔を見せた。食事の時、学生たちが食卓の作法を知らないため、いろいろと滑稽をやった話もある」(22頁)

この中に出てくる「戸川」が「戸川残花」ではないでしょうか。

戸川は牧師・詩人で、安政2年(1855)に生まれ、大正13年(1924)に死去しました。69歳でした。彼は、明治元年、彰義隊に参加した時は、14歳でしたから、日本女子大学の創立に参加した時は47歳くらいでした。ですから、ケーベルの学生ではなかったでしょう。

しかし、彼は、明治7年(1874)に、キリスト教の洗礼を受けて、16年からは伝道師になり、関西での伝道のあと、東京に戻り、麹町教会の牧師になっています。

ということで、ケーベルの学生ではなくても、キリスト教の関係で、ケーベル邸宅に出入りしていた、そこから、ケーベルは戸川から作曲の依頼を受けたのではないでしょうか。

これは推測です。しかし、ケーベルの交友の中に、戸川残花がいたなら、ありそうなことと思います。

| | コメント (2)

2007年8月 3日 (金)

目覚めの時

ケーベル会は、島尻政長氏の提唱と指導の中で発足したものであった。島尻氏はその後、会長となられた。二代目の会長は鈴木さんがなられたが、現在は会長は不在である。

ある時、島尻氏は「いろいろ調べていくと、ケーベル先生が、その原点として浮かび上がってくるんだよ」と言われた。それで、原点であるケーベル研究をしようとされたのだろう。

それぞれの人が、それぞれの思いの中で、「ケーベルから始めよう」と、されるのであれば、それでいいのだと思う。それは、歴史をつくることを意味する。

ケーベルは、東大の哲学教師でありつつ、学生たちにキリスト教を伝えた。二つあわせれば、「キリスト教哲学」となる。

「キリスト教哲学」という言葉と、ケーベルは結びつかないという人がいるかも知れないが、結び付けてもいいのでないだろうか。その時、ケーベルの思想を、そのまま継承することはない。批判があってもいい。

「超絶的汎神論」という自分の立場を語っているケーベルであるが、それが何であるかを、どれくらいの人が理解しているのだろうか。ケーベル学派を作るのではなくて、もっと広い土俵を考えればいい。

「キリスト教哲学」に関心があるのは、私の狭い世界の中では、神戸改革派神学校に関係している教師たちであった。ジルソンの周辺にも、そんな関心はあったと思うが、ジルソンといっても知る人は余りいないだろう。しかし、そういう関心を、ケーベル会が吸収してもいいのではないかと思う。それは、「信仰と理性」との関係に関する問いであり、関心である。これは今でも問題であり、いつまでも問題であり続ける問いである。

ケーベル会は、現在は余り活動をしていない。しかし、やがて、もう少し活動できる日が来るかも知れない。そのためには、やはり有志が必要である。会をどういう形に作っていくのか、自分の思いを、その中にどう込めていくのか、そして、日本の新しい歴史を作るのだという思い、そういう中核的な観念が芽生え、成長していくのであれば、ケーベル会は、少しずつ、その眠りから目覚めるのではないかと思う。

| | コメント (1)

2007年7月29日 (日)

御茶ノ水

御茶ノ水 興味も新た 官学の
 発祥地なり 視界開けん

| | コメント (0)

2007年3月16日 (金)

ケーベル研究の意義

 不況から抜け出て、経済再建の道を歩みつつある日本だが、それでも、来るべき時代は「物」の時代ではなくして、「心」の時代なのではないだろうか。

 時代の変遷を観察していると、ケーベル研究は十分に、現代の時代的要請に応えることができるように思う。
 
 明治の西洋文化の輸入の中で、西洋の豊かな文化の香りをいっぱいにたたえ、その成果を文章を通し、また音楽を通して、日本に残してくれたことは、日本人として決して忘れることはできないであろう。ケーベルは、その精華を垣間見せてくれたのである。

 ケーベルに教えられて、多くの青年たちが日本の指導的知識人に育っていった。明治の最良の文化形成にケーベルは、まさしく「先生」として立っている。

 私は、ケーベルが、この日本に30年もいたということを重要なことと思う。なぜなら、そのことによって、ケーベルは日本の思想史の中に明確な位置を占めているからである。明治の日本思想史の中で、ケーベルは、多くの教え子たちによる、新しい思潮・思想運動の原点として、歴史の中に固定されている。新しい思想運動というものは、いずれも歴史的なものとしてのみ実現できるからである。

 もちろん、日本文化との対話に関しては不満があるかも知れない。それは今後の課題である。西洋を知って、初めて東洋、そして日本との対話が可能なのではないだろうか。西洋至上主義は、明治でない平成の世にあっては無理である。西洋を知るのは、日本文化を高めるためである。

 ケーベルに関心を持ち、その発見による交流の中で、日本の将来、すなわち心の時代への踏み台を作り続けていけるような気がする。

| | コメント (0)

2007年3月15日 (木)

目的

ケーベルも ケーベル会も 手段なり
 目的一つ 皆の幸なり

「皆の幸」であって、「我が幸のため」ではありません。

| | コメント (0)

2007年3月11日 (日)

生涯学習

ケーベルの 名で発見の 学習を
 提案したく 楽しき学び

| | コメント (1)

2007年2月25日 (日)

ケーベル発掘

ケーベルを 思う人なく 闇の中
 蝸牛の人が 発掘せんと

| | コメント (0)

2007年2月23日 (金)

ケーベルの 弟子の弟子の目 ではなくて
 師に先立つ目 井ノ哲さんは

| | コメント (0)

より以前の記事一覧