2009年3月 8日 (日)

井上哲次郎のこと

ケーベルの来日のきっかけを作った人、またキリスト教批判で、井上哲次郎という人物は、よく知られていますが、名前だけで、どんな人物であったかは余り知られていないかも知れません。

『キリスト教をめぐる近代日本の諸相』(加藤信朗・監修、オリエンス宗教研究所、2008年)の第6章で、渡部清・上智大学教授が、「井上哲次郎の「日本主義的哲学」とキリスト教批判」という題で書かれています。

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●井上哲次郎(1855-1944)の旧宅あと(東京都小石川3-20-11)は、いま、東京都の指定史跡になっていて、その由来を紹介するプレートがあります。

それによると、この場所は、明治25年(1892)から亡くなる昭和19年(1944)まで、住居のあった所です。だいたい、37歳から89歳まで、ここに住んでいたことになります。旧宅は戦災で焼失してしまいましたが、書庫であった土蔵二棟(写真)が残っています。

今、この場所は、文京区立井上児童遊園(写真)になっています。

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2008年1月18日 (金)

井上哲次郎

井上哲次郎という人物は、私の視界の中では近代日本の歴史に二点でその名を残している。

一点は、ケーベル来日に際し、E・ハルトマンへ要請したことにおいて、またもう一点は、内村鑑三不敬事件後のキリスト教批判においてである。キリスト者にとっては、主に後者の中で、その名が鮮明に覚えられているのではないだろうか。

過日、本郷の古本屋で、井上哲次郎の本が高値で売られているのを知って驚いた。彼もまた、今では、忘れられた思想家の一人かも知れないが、当時は、影響力のあった人物だったのだろう。

近代日本で東大に関係しながら、キリスト教批判の論陣を張った人物なのだから、その論拠をていねいに検証していってもいいのではないかと思うが、誰も関心を持っていないようである。時代が違うのが、その理由かも知れない。教育勅語の基礎付けや、「先陣訓本義」を記すなど、現代日本人の視野には入らない関心が、そこにある。

井上は、東京帝国大学哲学科で日本人で最初の教授になった人物で、大正12年(1923年)に引退している。この年は関東大震災の年であり、ケーベル死去の年であった。だから、ケーベルが東大を去ったあとも、東大で教えていた人物である。

やがて、井上自身も直接、来日を要請したケーベルが来日後、キリスト教信仰の重要性を語りだす。井上は、それをどんな思いで眺めていたのだろうか、気になるところである。内心は批判的で、にがにがしく思っていたかも知れないが、ケーベルに対する学生たちの人望が厚いために、口に出せなかったのかも知れない。そんな文章があったような気がする。

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2006年12月10日 (日)

近代日本

東海の 小島に寄せる 波に乗り
 泰西文化 ひたひた寄せる

侵略の 本質がある 八雲言う
 誰も気づかぬ 鹿鳴館も

泰西の 教師に光 見た我ら
 その光失せ 八雲は今も

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2006年11月20日 (月)

ハーンとケーベルそして日本

 平川祐弘氏の著書に「小泉八雲とカミガミの世界」(文芸春秋)がある。その第5章は「ハーンとケーベルの奇妙な関係」という項目になっている。そこで、ハーンとケーベルが対照的な関係であることが言われている。だいたい、次のようなことである。
 日本理解に対しては、ハーンの方が進んでいた。ケーベルは日本を理解しようとしなかったのではないか。いや、彼には、日本に関心を持ち、それを理解しようという動機がなかったのである。45歳で来日し、日本に30年間いたが、日本語は片言も覚えず、知っていた日本語は「テツガク」と「オンガク」だけであったという教え子もいるくらいだ。ケーベルの徹底した西洋至上主義は、時代の空気に沿ったものであるため、それだけ日本の秀才から畏敬されたのだろう。
 平川氏は伝統的な日本のあり方に関心を持たれる方なので、ケーベルには批判的で、ハーンに同情的である。
  このハーンとケーベルは、お互いを知り、また意識していた。その意識はキリスト教に対する両者の対応によっている。ハーンは幼くしてギリシャ人の母親に生き別れ、カトリック信者の大伯母に育てられたが、キリスト教に反発して、ギリシャの多神教の世界に憧れていた。それを満たしたのが日本であった。ハーンはキリスト教の世界を知り、その後、そこから離れたのに、ケーベルはキリスト教の世界の真ん中にいるのであるから、両者が反発を感じるのは当然であった。
 夏目漱石は明治44年7月10日、駿河台にあったケーベル邸を訪問した。その時の印象が「ケーベル先生」という小品になっているが、その時、作品にはないが、ハーンも話題に出て、ケーベルはハーンのことを「アブノーマル」と言ったという。これは漱石の日記に出ているという。その意味は、ハーンが西洋を尊重しないで、日本にのめり込んでいったからである。
 このケーベルのハーン批判は、「思想」の大正12年8月号の「ケーベル先追悼号」で、姉崎正治だけが、そのことを言っている。(姉崎は留学して、ケーベルの紹介でドイッセンについたが、彼は非西洋の文化にも関心があり、好意的でもあったインド学者で、その影響を受けたために、姉崎は帰国後、ケーベルとうまくいかなくなったという)。
 平川氏は「ケーベルは晩年はカトリックを信奉して、半ば冗談にせよ(田部隆次に従えば)『異教徒は皆霊魂を救うために焼き殺すべきである。また全世界はローマ旧教の支配を受けるようになるがよい』などと言う人でした」と指摘している。しかし、ケーベルがカトリックになったのは晩年ではなく、逆に晩年はカトリックとうまくいかなくなったのではないか。また、「全世界はローマ旧教の支配を受けるようになるがよい」などという言葉は、およそケーベル的でないと思えるが、文脈が分からなければと思う。
 平川氏の指摘によると、ケーベルは日本に余り関心も持たなかったように思え、そうでもあろうが、ケーベル自身は、日本について何と言っているだろうか。
 ケーベルが横浜に移ってから書いた「小品集」の中に「私の見た日本」がある。そこには「しかしそれにもかかわらず--これほどまでに私は再びヨーロッパに帰りたいとの憧憬に燃えているとはいえ--私は重い心をもって日本の地を去ることであろう。私はこの地の人間が好きである。私は彼らから受けたすべてのものと、また彼らの間で送った20有5年--これけだし決して軽々にみるべからざるものである--に亘る殆ど曇なき幸福なる生活とに対して彼らに感謝している」という言葉がある。
 また、同じもので、晩年、ヨーロッパへの憧憬を感じていた理由については、こう書いている。
「私は、ヨーロッパにおいて私がかつて有したところのもの、そうして私の死ぬ前になお見て楽しみたいと思うところの、私の親愛なるものを再び見出そうと希望している」
「私にしてもし20もしくはただ10だけでも若かったならば、またなお日本において果すべき義務をもっていたならば、私は多分単に訪問のためにヨーロッパへ行きそうして再び帰って来るであろう、けれども無職にしてこの地に生活を続けることは、私にとっては二つの椅子の間に坐るということになるであろう。私は日本人となることはできない、また日本在留の欧米人とは私は合わない。かくて私は永久に日本に別れを告げる」
 これらを読むと、ケーベルは日本を知らなかったのでなく、また日本に愛着を感じなかったのでもないことが分かる。そして、ハーンとの対照の中で、ケーベルのこの点が忘れられるとしたら、それは正確なケーベル像ではないのではないか。

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2006年11月19日 (日)

エック神父とハーン

 カトリック修道会・マリア会に関する資料に「マリア会日本渡来八十年」がある。そこには同会神父のエミール・エックに関する紹介がある。それによると、エック神父は、1868年2月16日に生まれ、1943年6月27日に死去しているので享年75歳なのだが、「78歳」(584頁)となっている。没年に間違いはないであろうから、生年か享年のどちらかが間違っているのであろう。
 ケーベルをカトリックに導いたのは、このエック神父である。エック神父はマリア会に所属し、暁星中学校の第3代校長(1921年-1929年)でもあった。その時に、岩下神父に洗礼をさずけてもいる。
 マリア会というのは、1817年、ボルドーでシャミナード司祭によって創始されたカトリック修道会で、主に教育事業に従事している。日本には、1887年(明治20)年に、修士が派遣されている。東京の暁星学園などを経営している。
 エック神父はマルセーユからの船旅で、1891年9月3日の夜、東京に着き、2か月後には東京大学の教壇に立っている。生年が正しいとすれば、23歳の時であった。彼は、その後、東大で仏文を教えたが、「いろいろな教授の中でエック師がとくにじっ懇にしていたのはケーベル博士だった。ロシア聖公会所属のこの教師を、師は数年後にこれをカトリックに復帰させている」(575頁)とある。もちろん「ロシア聖公会」という教派はないのであり、「ロシア正教会」の間違いであろうが、ケーベル本人は「ギリシァ正教会」所属と言っているのである。
 さて、ケーベルの改宗が1899年(明治32年)12月24日であるから、エックが東大の教壇に立ってから8年後のことである。エックが東大を辞したのは1921年、54歳の時なので、30年間、東大にいたことになる。その年、暁星中学校の第3代校長に就任したのである。
 エックは、東大でフランス文学を教えていただけではなく、暁星の卒業生で、東京にいる高校生らのために宗教の講義もしていた。
「暁星学校を卒業して高等学校・大学に進学した学生は新しい思想、新しい世界の前に立たされた。彼らはそこで純理派の教師や教授の手に落ちていったのである。こうした状態を苦慮しつつ、ある日エック師が大学の構内を歩いていたとき、岩下壮一氏を中心にした暁星卒業生の数名が師に近づいて、一高・東大を中心にカトリック研究会組織の申し出があり、ここにその機運が芽生えたのであった」(232頁)
 この活動の強力な援助者がケーベルであった。この二人が、当時の青年の思想に大きな影響を及ぼしていたのである。
 このエック神父については、「西洋脱出の夢 小泉八雲」(平川祐弘著)には、「エックはイエズス会の神父」と紹介されている。これはハーンの書簡の中の言葉である。「ハーンは終生カトリックの宣教師を忌み嫌っていた」(「西洋脱出の夢 小泉八雲」)。熊本時代には近所に宣教師が来たというだけで引っ越してしまったこともあったという。
 さて、エックはマリア会士なのだが、ハーンはイエズス会士と言っている。なぜ、こんな誤解をしたのだろうか。エックがマリア会士と分かったら、ハーンの対応は少しは違ったものになったであろうか。エックはイエズス会でないことくらいすぐ分かるはずではないか。それが不思議でもある。
 ハーンは東大時代に学長から同僚の外人教師を紹介されたが、それがフランス文学を担当していたエミール・エックであった。二人は握手したらしいが、その時の模様をハーンはヘンドリック宛の手紙(1897年1月)で、「このイエズス会士とは知り合いになりたくなかったね。ぼくはイエズス会士が怖しいんだ」と書いている。

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2006年11月14日 (火)

小泉八雲

Rimg0055 日本の 自己確認に ハーンあり
 著述通して 今も語れり

日本風 墓に漂う 風雅には
 この国愛す 心滲めり

ケーベルに 遅れをとりた 時あるも
 今逆転か 明治は遠く

雑司ヶ谷霊園に小泉八雲の墓(写真)があります。中央に「小泉八雲之墓」、左に「小泉セツ之墓」、右に「小泉家之墓」があります。

八雲の墓の左脇には明治37年9月26日とあり、その後の一字は分かりませんが、この日付は亡くなった日なのでしょう。右脇には「正覺院殿浄華八雲居士」の名があります。戒名なのでしょう。

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