2011年3月22日 (火)

大宣教命令と再臨

「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24章・14節)

「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」(ペテロの手紙二第3章12節)

上記の二つの聖句を読むと、福音の宣教が再臨を早めるという見解に達する。それが求められているとも読める。実際、そう読んでいる伝道者もいると思う。そんな見解を、かつて本田弘慈氏から聞いたことがある。今も、そのような見解を語る人がいる。

これは、伝道が主、再臨が従という関係であろう。しかし、逆もありうるのではないだろうか。再臨が主、伝道が従という立場である。

宣教と再臨は、もちろん違うが、同時に深く関係している。再臨が主、伝道は従、そんな立場もあると思う。その説明、展開も必要であろう。

| | コメント (0)

2011年3月 6日 (日)

岩の上の家

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(マタイ7・24)

引用個所はイエスの山上の説教の結びの部分である。実は、その前も重要である。このように書かれている。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7・21~28)

この個所を、どう読むのであろうか。カトリック信徒なら、行為の強調として読むのであろうか。イエスの言葉を、そのまま読むのであれば、ただ信仰、信仰と言うだけではだめで、行為が必要だ、イエスが、そう語っているではないか、という具合に読むのであろうか。マザー・テレサのように行いの伴った信仰が大切なのだというかも知れない。

では、プロテスタントの信徒は、どう読むのであろうか。同じように読んでいるのかも知れない。しかし、どこかで、信仰義認への批判が込められていると感じないであろうか。

イエスが批判した人たちは、どうして批判されているのだろうか。もちろん、行いが伴わないという点が中心であろう。テキストを読めば、誰でもそう読むであろう。しかし、それにしても不思議である。「主よ、主よ」と言うのが悪いのだろうか。「主の名を呼べ」と、聖書の他の個所にはなかったであろうか。そして、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行うことは、なぜ批判されなくてはいけないのだろうか。現代のペンテコステ運動では、そのようなことへの取り組みが行われているのではないだろうか。ペンテコステ運動が批判されているのだろうか。いや、そうではないと思う。信仰義認の立場が批判されているのだろうか。いや、そうでもないと思う。

プロテスタントの信徒が、このテキストを読むと、あるいは自分たちの信仰が批判されていると思うかも知れない。しかし、解釈によって反論もありうるのではないだろうか。

イエスが批判している人たちは、イエスのことをよく知っている人たちである。であれば、教会の中にいる指導者なのではないだろうか。中世、キリスト教は国教であった。権力と結びついていた。行為が批判の基準に置かれているのは、あるいは、そういう人たちであったかも知れない。

おそらく、説教では、この個所は、一般信徒に、信仰と結びついた行為の重要性を指摘するものとして読まれるであろう。しかし、無力な一般信徒に、イエスは、そんなにも激しい批判の言葉を向けるであろうか。

この個所では教会の上層部が批判されているのかも知れない。そのように解釈するとすれば、中世のキリスト教会が批判されていて、宗教改革の必要性をイエスは指摘されているとも読むことが出来る。プロテスタントの信徒は、あるいは、そのように読むかも知れない。

この個所は、カトリックとプロテスタントとでは、読み方が違うのではないだろうか。解釈が問われている。

| | コメント (0)

2011年1月17日 (月)

祈り

「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ5・17)

呼吸しなければ、誰も命を保つことはできない。祈りは、魂の呼吸のようなものだ。だから、絶えず祈らなければならない。

祈りの基本は反復され続けなければならない。それが、マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)なのであろう。マラナ・タの祈りによって、キリスト者は不滅の希望の中に生きることができる。

| | コメント (0)

2011年1月 3日 (月)

命名

「そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」(創世記1・19)

創世記によれば、神の最初の仕事は名前をつけることであり、また、人間も、それを行っている。

「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である」(創世記1・5)

「それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった」(創世記1・20)

神はやがて人間に被造物の管理を委ねられた。その管理は名前を通して行われるのではないだろうか。

今、我々の周囲を見てみると、名前をつけることを忘れて、われわれの周囲のものたちは、適正に管理されなくなっている。すなわち、放置されている。それは人間にとって、無責任なことではないだろうか。

名前をつけることは、天地創造の時の神の仕事であり、園においての人間の仕事であった。それはまた、我々の仕事でもあるのではないだろうか。名前をつけられないで、放置されているものたちが、我々の周囲に多いのではないだろうか。

名前をつけること、それが人間の本来の仕事であるなら、その仕事をしていく中で喜びがあるはずである。

| | コメント (0)

2010年12月13日 (月)

老年の備え

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに」(コヘレトの言葉12・1)

高齢化社会になり、老人たちがますます多くなる。労働の日々からは解放されるが、それはまた生きる目的を新たに見いださなければならない時でもある。自分は何のために生きているのか、その解決がなければ、あるいは気が滅入って、うつ状態になるかも知れない。

そんな日々の備えのために、聖書は勧めている。文語訳では、「若き日に、汝の創り主を覚えよ」とあった。口語訳では、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、」(伝道の書12章1節)である。

この個所では、文語訳が一番よいように、私には思われる。内容は、今こそ、高齢化社会がますます進もうとしている日本にとって、まず第一に振り返るべき聖書の言葉ではないだろうか。

神を楽しむ、これが一番である。これ以上の楽しみはない。そして、どんな状況においても、この楽しみはなくならない。どんなに高齢になっても、孤独になっても、この楽しみはなくならない。この楽しみがあれば、監獄も天国である。逆に、どんなに人々との楽しい交わりがあっても、この楽しみに代えることはできない。その楽しみがやがてなくなることを知っていれば、心ゆくまで楽しむことができようか。

従って、神を楽しむという楽しみこそ、高齢化に向かう人々にとっての唯一の備えである。その備えをしていない人々が多いのではないだろうか。

| | コメント (0)

2010年12月12日 (日)

自灯明・法灯明のキリスト教的解釈

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネ福音書14・26)。

「自灯明・法灯明」とは仏教の中で使われている言葉である。釈迦が、自らの死の直前に弟子のアーナンダに残したといわれている。この言葉で、釈迦は、自分の死後、弟子たちに、何を頼りにしたらいいかという点で、基本的な「生き方」を教えている。

「自灯明」とは、自分自身を拠り所にして、「法灯明」とは釈迦の教えた真理を拠り所にして、それらを灯明にせよという意味である。自灯明と法灯明の前後関係にも意味があるらしい。

これは仏教者の生き方の原理とでもいえるであろう。

さて、では、キリスト者としては、どうだろうか。

聖霊が導き手である。「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え」と聖書にはある。この聖霊は、内住の聖霊とも言われている。「そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい」(テモテへの手紙Ⅱ、1・14)。「内に宿っている聖霊」と言われている。この聖霊がキリスト者の歩みを導いてくれる。

さて、聖霊は、もちろん、「私」ではない、私の内に住む他者である。そして、三位一体の神の第三の位格でもある。だから、徹底的に頼ってよい存在である。「自灯明・法灯明」の「自」と「法」とは、対立しているかも知れないが、聖霊を灯明とするのであれば、そこには対立はない。ただ観点の違いがあるのみである。

キリスト者の生き方の根本的原理を反省するのも大切なことではないだろうか。

| | コメント (0)

2010年11月14日 (日)

主の日の到来

「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです」(テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 4・4)

主の日は突然来るのではない、と言われている。しかし、その条件は、暗闇の中にいないということである。それは新生し、聖化の道を歩んでいる人々という意味であろうか。

主の日とはキリストの再臨の日であろうか。

千年王国前再臨説の中には、どこか「突然」の要素が含まれているような気がする。それと同時に、再臨を際立たせる意味もあるのだろうか。名前のみの信徒や、この世の力に対しては、この説を語った方が効き目があるかも知れない。それは「暗闇の中にいる」人々への警告の意味も含まれているかも知れない。

一方、千年王国後再臨説には、突然の意味は薄らいでいると思う。そこでは、千年王国は始まっているのだろうか。今、千年王国の時代なのであろうか。そこでは、日々の精進に重きが置かれているような気がする。

しかし、いずれにしても、クリスチャンにとって、「主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです」は、どこかに記憶していてもいいように思う。

| | コメント (0)

2010年8月15日 (日)

希望

「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」(ローマ8・24)

希望とは、将来に対する期待を含むものである。それにより、今の生が張りのあるものとなる。しかし、それが実現した時、その希望は消失する。それは、その人にとっての危機の時になるかも知れない。東大入学で張り切っていた受験生が、入学と同時に希望を失い、五月病にかかるケースがあるという話は昔のことであろうか。

希望は、常に未来に向けられていなければならない。実現した希望は、その意味では希望ではない。

では、どんな希望を持つべきなのだろうか。常に、生を支える希望は何であるのか。死の瞬間まで、生を支えることのできる希望は、どんなものなのであろうか。

私は、それはキリストの再臨であると思う。これが、真の希望なのだと思う。そして、パウロと共に、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」と言いたい。自分の死が先か、それともキリストの再臨が先か、二つに一つである。自分の死が先であれば、その時まで、この希望はなくならない。自分の生は、不滅の希望で支えられていることになる。あるいは、自分の生きている時に、キリストの再臨があるかも知れない。こういう信仰が新約聖書の、初代教会の信仰ではなかったであろうか。それは自分の救いの完成の時であり、全世界が改まる時である。そのケースが実現してもいい。こういう希望が、今、必要とされているのではないだろうか。

| | コメント (0)

2010年8月 9日 (月)

主の日

「しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう」。 (テサロニケ人への第一の手紙5・4)

主の日とは、究極的にはキリストの再臨の日のことを指しているのだろう。そのために用意せよ、という勧めが聖書の各所に出ている。

再臨信仰の逸脱の中で、その日を何年何月何日と確定しようという試みが、キリスト教史の中では何度もあった。しかし、実現しなかった。そのような試み、そのものが間違いなのだという反省もある。内村鑑三も、そう指摘していた。

しかし、主の日は来るという命題を取り下げたことは、教会は一度もない。どのような形で来るのか。盗人のように、と何度も語られている。

例えば、

「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る」(テサロニケ人への第一の手紙5・2)。

「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」(ペテロの第二の手紙3・10)。

「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない」(ヨハネの黙示録3・3)。

「見よ、わたしは盗人のように来る」(ヨハネの黙示録15・15)

このように、盗人のように襲うと指摘されているが、「盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう」という個所だけは、別の響きを持っているように思われる。襲うという言葉の恐怖が、そこにはない。なぜなら、「あなたがたは暗やみの中にいないのだから」という理由を挙げている。

ということは、聖化の道の彼方に再臨があるとしても、それは、聖化の道にいる信徒らにとって、再臨は「不意に襲う」といった、恐るべき日ではないという意味が込められているのではないだろうか。それはまた、何年何月何日というように、再臨の日を確定するのではなく、生の目標、ゴールとして、その日を常に意識し、生活を整えるべきだという意味があるのかも知れない。

再臨信仰の再興によって、教会は間違いなく復興するのである。

| | コメント (0)

2010年7月26日 (月)

敵のための祈り

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)

「敵を愛する」と勧められているが、そんなことができるのだろうか。「敵のために祈りなさい」と勧められているが、そんなことができるのだろうか。

難しいと思う。そして、その難しいことを、言葉の通りに受け止めて、勧めているのが、教会の教えなのかも知れない。

しかし、ここでも解釈の可能性があるのではないだろうか。

聖書には、こんな個所もある。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」(ローマ12・19)

だいたい、敵に対しては、復讐したいのが人間の本音なのではないだろうか。日本でも仇討ちを、かつては勧めていた。それをするなというのがイエスの教えなのだろうか。だいたい、そう受け止めているのではないだろうか。しかし、一方で、「神の怒りに任せなさい」という勧めもある。神が復讐するから、それに委ねよという意味であろう。なぜ、そんなことが言えるのだろうか。

そこでは、やはり再臨を考えなくては理解できない。再臨は救いと裁きの両方が徹底的に実現する。それは正しい裁きであり、正しい救いである。だから、敵を愛し、迫害する者のために祈るというのは、単純に敵のために祝福を祈るという意味ではないのではないかと思う。そんなことは、できないのではないだろうか。しかし、敵の上に再臨を祈ることはできる。なぜなら、そこでは、正しい裁きが行われるからである。

正しい裁きの執行への期待が再臨待望の中に生きているのである。だから、「自分を迫害する者のために祈りなさい」という個所は、敵の祝福を祈るという意味ではなく、敵の上に主の再臨を祈るという意味でならば、納得されるのではないだろうか。そこには、正しい裁きと、正しい救いを祈るという意味が込められているのだから。

| | コメント (0)

2010年6月27日 (日)

預言

「わたしは実際、あなたがたひとり残らず異言を語ることを望むが、とくに預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている」(コリント人への第一の手紙14・5)。

内村鑑三が亡くなった時、彼は「日本の預言者」と言われた。しかし、今の日本に預言者はいるだろうか。新約時代では預言職は終わったという人もいるかも知れない。イエスの出現と復活、そして聖書の存在、それらがあれば、預言は必要ないという人もいるかも知れない。預言者は祭司と共に旧約時代のことで、その時代は終わったのだから、預言者はいない、という人がいるかも知れない。

しかし、新約聖書が、預言を認めている。聖霊の賜物の中に預言が含まれているのを、どう解釈するのだろうか。

異言と預言を比較して、パウロは、預言の方を重視している。ペンテコステ教会の主張の中では、聖霊のバプテスマが異言と結び付けられる。そして、異言が強調される。

新約時代でも、預言はある。内村は、それを日本人の中に印象づけた。彼の言葉は、今も読まれている。であれば、新約時代の預言とは何か、それを尋ねていくべきではないだろうか。そして、聖霊の賜物としての預言を生活の中で生かす道を探るべきではないのだろうか。

| | コメント (0)

2010年6月22日 (火)

空中再臨

「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(テサロニケの信徒ーの手紙一、4・16~17)

空中再臨といっても、教会ではめったに語られることはないだろう。しかし、「空中で主と出会う」という言葉が聖書にあることは、間違いない。引用は新共同訳聖書であるから、カトリック教会も、解釈はどうあれ、この言葉を真実なものとして受け止めているはずである。

まず、空中の言葉であるが、どういう意味であろうか。飛行機の飛んでいる、あの空の意味であろうか。米国の原理主義の人たちは、そう考えているのだろうか。しかし、そう解釈しないでもいいと思う。価値観の領域が空ではないだろうか。その空の中の、一番の彼方から、万物の最終目的としての実体が降ってくる、という意味なのではないだろうか。

そして、死んだ人たちが「まず」と言われている。それは、死によって、ある確定が与えられるためではないのだうか。

こうして空中再臨があり、千年王国が始まると、されている。千年王国とは何か、それも、大きな問題である。諸説が渦巻いているのが現状である。

| | コメント (0)

2010年6月21日 (月)

希望

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(第一コリント13・13)

信仰、希望、愛という。愛は今に、永遠の今に、希望は未来に、であれば、信仰は過去に対応しているのであろうか。

信仰と愛の重要性は、今まで語られてきた。しかし、高齢者の仲間入りして、希望の重要性に気づき始めた。

人は、堅固な希望を抱くべきである。どんなことがあって、なくならない希望、その希望があれば、自殺することはない、どんなことがあっても生きられるのである。

そして、その希望とは、再臨である。

教会で、再臨について語られることが少なかろうと、それでも、信仰個条の中にあり、隠れることはできない。解釈はいろいろあろうが、確かであることは明白である。

再臨は、恐らく死ぬまで実現しないかも知れない。しかし、その前に実現すれば、それは感謝ではないか。こうして、信仰は完成するのだと思う。

| | コメント (0)

2010年6月11日 (金)

神の業

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネによる福音書9・3)

生まれつきの盲人がいた。その苦悩の原因は何か。弟子たちは、苦悩の原因に、罪を考えていた。それは、(旧約)聖書の中では、ごく自然なことではなかったか。本人の罪か、それとも両親の罪か。弟子の問いに対するイエスの答えが、引用個所である。

弟子たちの問いは、どこかおかしいのだろうか。いや、当然の問いではないだろうか。イエスの答えは、この問いの間違いの指摘なのだろうか。そのようにも受け取れるが、そうではないと思う。

罪を原因として苦悩が、苦痛が人を襲う。旧約聖書は、そのような因果を認めている。それは、それでいいのではないだろうか。その原因・結果の関係をイエスは否定されたのではなく、視点の転換を求めたのではないだろうか。

| | コメント (0)

最後の審判

「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハネによる福音書16・8)

その方とは聖霊のことである。

世界史の「各時代は神に直接す」といったのは、歴史家ランケだったが、それは世界審判でもあるのではないだろうか。その言葉に審判の意味があるのであれば、最後の審判も新しく解釈できるのではないだろうか。

キリストの再臨があって、最後の審判が始まるのであれば、それは未来のことと思うかも知れない。しかし、聖霊降臨と「各時代は神に直接す」という言葉を思う時、それは最後の審判と無関係ではない。「まだ」ではあっても、「既に」の一面もあるように思う。

聖霊は過去において降り、今も降っている。

| | コメント (0)

2010年6月10日 (木)

聖書の続編

「聖書は過去における活けるキリストの行動の記録である。そして私たちは今日彼の霊を接けて新たに聖書を造らなければならない。古い聖書を読んで新しい聖書を造らない者は、聖書を正当に解釈したものではない。聖書はなお未完の書である。そして私たちはその末章を作る材料を供さなければならない」(内村鑑三『一日一生 新版』6月9日から)

聖書は、既に完結したものと見れば、それに付加することはできない。しかし、内村鑑三は、聖書の続編を「書く」ことを勧めている。使徒言行録を聖霊の働きの記録(昔の言葉では、聖霊行伝)と見れば、その働きは、まだ終わってはいない。そういう意味なのだろう。

| | コメント (0)

2010年5月30日 (日)

表現活動

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6・10)

御心が地の上にも行われるというのは、どういうことなのだろうか。祈りは、この点に向けられている。天においては、御心は行われていると言っているように思える。地のあり方に、祈りは向けられている。

地とは、我々の住んでいる所である。この所に御心が行われるようにという祈りは、何を意味しているのだろうか。それは神に向けられていても、地のことなので、われわれに返って来るのではないだろうか。とすれば、それは何を意味するのだろうか。

それは表現活動の吟味かも知れない。表現活動というのは、何も役者ばかりがしているのではない。われわれもまた、何らかの表現活動にたずさわっている。そこに、あの「心で信じて義とされ、口で言い表して救われる」という言葉の後半が対応しているように思える。

表現活動は、言葉を換えて言えば、生き方のことであろう。だから、生き方が御心にかなうように、という祈りなのかも知れない。その中で、天におけるように地においても御心が実現していく、そして、地はいつしか天に近づいていくのであろう。

| | コメント (0)

2010年5月28日 (金)

希望

「愛する者たち。わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(ヨハネの手紙一、3・2)

長く生きていると、どうしても老病の問題が身近に迫ってくる。これは、どうしようもない。そして、死が来る。それまであったものがなくなるのである。これは不幸かも知れない。

しかし、見方を変えれば、不幸ではなくなる。それは、この世への未練の断ち切りができれば、不幸ではなくなる。そして、信仰者は、来世に目を向けるのである。そこに希望がある。だから、信仰者にとっては、老年になっても希望はなくならない。

「自分がどのようになるかは、まだ示されていません」とある。それは、絶望の響きではなく、希望の、期待の言葉である。「御子が現れるとき」とは、再臨の時という意味であろう。再臨は「まだ」である。だから、この「まだ」の期間は、希望の時である。その希望は、何ものによっても失われない希望である。そして、この希望がある限り、我々は老年を少年のように生きることが許されているのである。

| | コメント (0)

2010年5月27日 (木)

義認と聖化

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ人ーの手紙10・10)

「心で信じて義とされ」が義認に、「口で公に言い表して救われる」が聖化に対応しているのだろうか。

であれば、聖化には義認が先行する、そして、聖化は義認のあとになければならないものである。

「口で公に言い表す」とは何か。それは一つの表現活動なのだろう。信仰は表現活動を必要とする。何らかの形で、自分について語らなくては、自己認識は深まらないし、また、自己実現も難しい。

人は、自分を表現することによって、ますます自分を認識するのではないだろうか。

そんな時、自分史を利用するのもよいだろう。聖化の道は、どこにでもある。

| | コメント (0)

2010年5月17日 (月)

聴くこと

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10・41)

これは、マリアとマルタの姉妹に関する有名な話です。マルタは、イエスが来られたので、もてなしのため、せわしく立ち働いていたのですが、一方、妹のマリアは、イエスの話に聞き入っていたということです。マルタが妹に対する不満を言ったのに対するイエスの答えです。まず、聴くことの大切さを指摘したものでしょう。旧約でも、同じような個所があります。

「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」」(サムエル記上3・10)

文語では、「僕聞く、主よ語り給え」でしょうか。これも、よく知られた個所です。

しかし、今まで、両方をつなげて考えたことがありませんでした。しかし、共通することがあると思います。まず、主の言葉、み心が何かに、耳を傾けること、そこから始めよ、ということでしょうか。その時に、何かが起きるのでしょう。大きなことが起きるのです。最初は、静かな、ただ聴くことの中で、それが準備されているのです。

やがて、サムエルはダビデを見いだし、マリアは(このマリアはマルタの妹ではなく、二人は他人ですが、同じ名前なので、あえて、こう言うのですが)、やがて、イエスを産むことになるのです。

それにしても、新約聖書には、マリアの名前の女性が何人か登場してきますが、みな、何事かを語っているような気がします。

| | コメント (0)

«希望