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2005年5月31日 (火)

償いの意味

人は罪を犯す。その結果は罰と償いである。罰はただ、受動的な忍耐のみであるが、償いは具体的行動を生み出す。それは建設的動機を形成する。

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中世の合言葉

今の日本でも、なお目新しさを追い求める人たちがいる。しかし、それらの魅力も、客観的事実としての高齢化社会の進展につれて、薄れていくであろう。時代は、もっと別のもの、別の価値を求めている。浮わついた、一時的な価値がもてはやされた時代は終わり、記憶や思い出など、心の内の「ゆるやかな時間」が脚光を浴びていく。老いは静かにやってくる、確実にやってくる、忍び足でやってくる。老いは死の序曲であり、その果てに死がある。死の準備をしよう。それが中世の合言葉。

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2005年5月30日 (月)

心の健康

心の健康のためには、人間関係を複雑にしてはいけない。人間関係を単純に、多くの人に理解しやすい形で管理しなければいけない。心の病は複雑な人間関係から生まれるものだから。

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2005年5月29日 (日)

1960年代の回想

   子供が死んだ
   罪の無い子供が死んだ
   
   それを見た、将来を約束された男が
   胸を打って、こう言った
   
   「社会を変えよう
   自分は、こんな社会で出世したくない」
   
   彼は社会変革の理論を考えはじめた
   しかし、彼は、それを実践はしなかった
   
   その社会変革理論の原点には、
   あの「罪なき子の死」があった
   
   1960年代に、よく読まれた小説に
   『カラマーゾフの兄弟』があった
   
   ところで、子供は死んだのだから、何も言わないが
   果たして、子供は無罪なのか
   
   一見、そう見える
   そして、歴史は、普通、その「一見」で動いていく
   
   最初、将来が約束されていたのは子供であったが、
   それを「不公平」と感じた子供に、まず反逆の心が生まれた
   
   そこに、問題が潜んでいる。
   だから原点は単純ではなかった
   
   著者の、ロシアの文豪は
   革命の論理を暴いてみせた
   
   心理の複雑な関係を熟知していた彼だが、
   この「一見」の奥までは書いていない
   
   子供の死に疑義ありとすれば
   革命の大義は失われ、小説は書けなくなってしまう
   
   いや、そこで、また
   新しい小説が生まれるのかも知れない
   
   この「一見」の場で、
   人類の二つの歴史が交錯した
   
   子供は矛盾を感じ、その矛盾に抗議した
   それは自己否定の決断に支えられていた
   
   そしたら、もう一方の人々も
   矛盾を感じ、抗議の声を挙げた
   
   矛盾のために、抗議しつつ
   子供と大人は、互いに自己を葬っていた
   
   虚無にも繋がる自己否定が
   何故か美化された
   
   しかし、やがて時がくる
   そして、すべてが明らかになるだろう
   
   ファチマの第三の預言も明らかになったのだから
   時が来れば、すべてが白日の下に明らかになるだろう
   
   子供が何と言うか
   それは、「罪なき死」ではないと思う
   
   しかし、その死の彼方から響いてくる告白によって
   新しい世界が来るだろう

 
   

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2005年5月28日 (土)

生きがいの原点

人が生きていくには生きがい、仕事を続けていくには働きがいが必要だ。それらを自覚しているかいないかで生活は変わってくるに違いない。壁にぶつかった時、人は己の生存の原点を問う。そこに、現在の生きがい、働きがいが秘められている。そうあるべきだ。

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私のうた

我がうたは悲しみのうた
老いと死に効く薬なり
その備えなり

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河井継之助

司馬遼太郎の小説『峠』の中で、河井継之助が自分の機能を考えていたという指摘が面白かった。長岡藩の家老としての自己限定である。自分は何者かと問う時、社会における自分の機能で答えることができる。機能は限定を伴い、その限定が具体性、行動の方向性をもたらす。それは当人の倫理も規定していく。人の思考の前提条件の自覚である。河井の場合には、ある先見性のため時代に翻弄されて困難をもたらしたが、この機能論への執着は、いかなる価値体系のなかでも生きていける心構えを作るかもしれない。マックス・ウェーバーにも、同じような発想があったと思う。

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2005年5月26日 (木)

歴史の歯車

   歴史の道を歩きながら考える
   ストリート・スィンキング
   
   それを高みから眺めて考える
   バルコニー・スィンキング
   
   学園紛争の時は
   ストリート・スィンキング一辺倒だった
   
   しかし、この対立は絶対ではない
   相互浸透の一面があった
   
   それが分かって
   バルコニーでの景色を楽しめるようになった
   
   その相互浸透の洞察によって
   歴史の歯車が動き出す
   
   マルクスが駄目なら
   もう一度、ヘーゲルを見直そう

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時限爆弾

   人間の生は
   そのうちに時限爆弾を持っている
   
   肉体の生のうちに
   魂の生のうちに
   
   それら二つは弁証法的に関わりつつ
   生自体の目的を目指して前進する
   
   時限爆弾と共に生きる
   その自覚なくして人間の再生はない

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2005年5月24日 (火)

「君たちはどう生きるか」

    一人の雑誌編集者の書いた本
   それは、『君たちはどう生きるか』
   
   青少年に人生を問いかけつつ
   名著の賛辞が寄せられた
   
   主人公のコペル君は中学生
   コペルニクスから取られた、あだ名だ
   
   中世から近世への世界観の大転換
   その意味を込めた著者の志は大きい
   
   純哲、倫理、宗教と
   気づいたら哲学の道しるべ
   
   今でも問いかけている言葉
   それは、君たちはどう生きるか

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創造活動

新しさとは要素の組み合わせにあるのだから
なんとか、なりそうだ

要素そのものの新しさを求められたら
立ち往生するだろう

要素そのものは身近なもの
ありふれたものである

人に求められる創造活動は
神のそれとは違う

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疎開

   僕が生まれた時
   日本は戦争をしていた
   
   しかし、戦争の記憶は僕にはない
   親から聞くだけだ
   
   生まれて1年も経たないころ
   米軍機が東京の空に現われて爆弾を落としていった
   
   東京大空襲で
   荒川のほとりにある僕の町にも危険が及んだ
   
   庭の防空壕から出て
   疎開することになった
   
   僕と母は、市内の辺地
   安全と思われた田舎へ向かった

  母は僕を背負って
   暗い道を歩いて行った
   
   夜中、移動の途中に
   大きな光が見えた
   
   それは爆弾のもたらしたもの
   恐らく、悲鳴もあったろう
      
   「明るい方に行こうよ」と母に訴えた僕
   しかし、母は暗い道を進んで行った
         
   母は、そう言っていたが
   もちろん、僕にその記憶はない

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仏の教え

   色即是空は仏の教え
   無常観は諦観への道しるべ
   
   諦の一字は悟りの境地
   理屈はそうでも、欲望は死なない
   
   空即是色も仏の教え
   最初は空でも、花盛りの時が来る
   
   花盛りと言われる今は暗く
   戦後の明るさに思いをはせる
   
   ある・ない、の逆さの論理
   弁証法は真理の論理
   
   色即是空、空即是色
   両刀使いが仏の真意
   
   高神覚昇師の『般若心経講義』を
   懐かしむ、このごろ

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科学と宗教

  肉眼が前方を見る時
   科学の世界が広がる
   
   肉眼の背後に何かを感じる時
   宗教への関心が芽生える
   
   その関心は、欠陥に起因しつつも
   悟りに導く原因ともなる
   
   悟りとは、眼鏡の掛け替えのことか
   同じ対象でも違って見える
   
   肉眼がとらえる世界だけが世界ではない
   その死角にも何かがある
   
   肉眼の死角の領域で
   ひそかに眼鏡の交換が行われる
   
   肉眼ではとらえないことでも
   とらえたことを踏み台にして

  だから科学の先進国には
   宗教的情熱もある

   

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2005年5月22日 (日)

フーテンの寅さん

昭和48年、ある雑誌(11月号)に、私は「フーテンの寅さん」という表題でエッセーを書いた。当時は全国的な大学紛争は終わりはしたものの、その後遺症は続いていた。私はこう書いた。
-日本の希望の一つに「フーテンの寅さん」をあげたい。この映画、有楽町あたりのちょっと上品な映画館には縁がなく、新宿とか浅草とか、「ねえちゃん、あんちゃん」のたむろしている映画街に、ヤクザ映画、ポルノ映画と肩をならべて上映された。ただこのことだけで、世の良俗の守護神でおわします「責任倫理的」人間は現代日本の傑作映画の一つの傍らを通り過ぎてしまったことだろう。あたかも、強盗に襲われた旅人に目をそむけた祭司、レビ人のように。
「寅さん」の人気は今や怪物並み、かつての「君の名は」に匹敵するらしい。その理由の一つは寅さんの、小説『坊ちゃん』を思わせる気っ風のよさと、映画「ジバゴ」にも及びそうな情の深さにあるだろう。しかも同時にコッケイときているから、ますますいい。この感動、いつまでも失いたくない。-
作品に見られる、アウトサイダー、捨てられた者、同伴者といったモチーフはキリスト教の中にもある。風の如くやってきて、また風の如く去っていく寅さんのもたらす風は、人が実感の中で捉える神、聖霊を指しているようでもある。

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人命尊重

災害や事故が起きた時、まず人命救助が最優先される。今では、それは当然のことだ。しかし、60年前の戦争の時は、どうであったか。幕末の京では、どうであったか。人の命は、余りにも軽く扱われていたのではないか。比較したら、今は、よい時代ではないだろうか。しかし、人の命は、いつかは無くなるものである。人命尊重が、人の命は永遠・絶対といった観念を生むとしたら、不慮の事故で失われた命を悔やむ思いは癒されることはない。地上にある命は、いつかは活動を停止する。それが早いか遅いかの違いだけである。この事実を前提にしてこそ、人生の真実が浮かびあがってくるのではないだろうか。人命尊重という、現代社会の強調点が、見方を変えれば、同時に、癒されない社会を作っているのかも知れない。死という現実に直面して、「大疑現前」で苦悩している人たちに、「大死一番」へと誘うアプローチが必要とされているのかも知れない。

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2005年5月21日 (土)

空即是色

 書店で角川文庫『般若心経講義』(高神覚昇著)を発見して買いました。かつて最初に読んだ時に、何となく強い説得力を感じて、それが名著の印象として残っていました。奥付けを見ると、昭和二十七年に初版発行、四十二年に四十一版発行、そして平成六年に改版四十三版発行となっています。名著の履歴です。解説で紀野一義氏は「般若心経に関する講義としては今日なお、これを超える著書を見ないのは偉とするに足りるであろう」と言っています。
 この本で、色即是空という有名な仏教思想が、同時に空即是色という逆の思想と対になっていることを知り、新たな興味を覚えたのでした。しかし、この「空」とは何でしょうか。それは「真空」ではないと思いました。「空即是色の空は真空ではない」という命題の解説は、こうです。
 もし、この空を「真空」と考えると、空即是色は「無からの創造」を語っていることになります。しかし、仏教では創造主を考えないと思いますので、創造(創造は常に無からの創造です)については語らないのではないでしょうか。では、空とは何か。それは、相対的なこと、人の目に見えなくなるということで、やはりチリかゴミが残り、それが核となって色(世界)が出来るという解釈が正しいのではないでしょうか。

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2005年5月20日 (金)

禅の極意

禅の極意がキリスト教の真髄と同じであるかどうかは知りません。カトリックの神父さんの中には、禅の師家(先生)の資格を持つ方もおられるのですが、両者の関係が、どうなっているのかは聞いたことがありません。しかし、禅からキリスト教を理解しようとした哲学者・西田幾多郎もいますので、キリスト教から禅を理解する人がいてもいいかも知れません。
さて、「大疑現前」「大死一番」「心身脱落」「脱落心身」という言葉があります。「心身脱落」「脱落心身」という言葉は道元の書にある言葉で、「大疑現前」「大死一番」も禅の言葉です。意味はこうです。大いなる疑いが目の前に現れてきた。そこで、自己放棄を貫徹した。そしたら古い私が無くなって、新しい私が現れてきた。これはキリスト教の中にも通用する考えです。
「心身脱落」「脱落心身」の移動の中に宗教体験があるのです。 キリスト教では「新生」とか「再生」とか言い、「生まれる」ことが強調されています。聖書は「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)と言います。「脱落心身」が、この新しく生まれた「私」を意味しているのでしょう。
宗教の違いは、対立を生み出すだけではなくて、相互理解も生み出すのではないかと思います。こんな対話を続けていって、宗教への免疫を強めていかないと日本の将来は危なくなるのではないかと思うのです。

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2005年5月19日 (木)

中世の学問

中世の学問と言えば、スコラ学で知られる。この学問については、以前、悪い評価ばかり聞かされ、偏見があった。信仰を得るには、何も、これを学んで学者になるには及ばない。これを学ぶことで信仰が得られるわけではない。確かに。信仰は一種の飛躍であり、瞬間的な異次元への誕生であれば、理性の探求の延長上に、自然人の可能性の中にあるのではない。学問と信仰は違う。あの大学紛争のころ、中世の学問を放り投げて、信仰に帰る運動が始まった。どうして、日本人が信仰を得るために、スコラ学のひとつの要素であるギリシャ哲学を学ぶ必要があるのか。信仰は哲学とは別のものであれば、日本人が信仰を得るためにギリシャを媒介しなくともよいではないか。確かに。しかし、ギリシャが理性の普遍性を訴える時、その普遍性の中には日本も含まれている。スコラ学は、中世という制約の中で生まれたものだが、信仰と理性の関係の探求は、中世の制約を超えている。その点に、一つの回答を与えている中世は、やはり時代の制約を超えるものを持っていると言えるのではないか。

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荒野での食物

教会で聖餐式とか聖体拝領とかいわれる行事がある。パン(あるいは円形の小さなせんべいのようなもの)を食べるのである。イエスの最後の晩餐での言葉が、その根拠とされている。しかし、同時に、山上の説教の時、聴衆に食事を出したことや、モーセに導かれたイスラエルの民が荒野でマナというものを食べたことも、それと関連づけられるかも知れない。神が民を養ってくれるという現実が、これによって世に表明されるのだ。ある意味で、このようにして、神はわれわれの世に来られるのである。

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2005年5月18日 (水)

実存主義の信条

「キルケゴール以来、たとい全世界を得るとも己れが生命を失わば何かあらん(ルカ9-25)、というのが実存主義の根本信条で、権力を握り幸福であっても、多くの正確な知識をもち、透徹せる了解の能力と洗練せられた教養を具えていても、自己を喪失するならば、実存主義にとっては何の意味もない」(「実存理性の哲学」金子武蔵著、41ページ)とある。この信条は現在でも通用するのではないだろうか。

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宗祖への提言

宗教に教団はつきものである。教団がなくなれば、教えは後世に伝わらない。教団の主要活動は教えを広めることだが、その結果は信徒の増加であり、教団の成長である。その時、教団は誰でもが参加しやすいものでなければならない。この、教団のかたちを参加しにくくしていては、たとえ、その教えが正しくとも、信徒にとっては生活が制約される。そこから、教団活動に参加しても、内心、ためらいを感じているかも知れないのだ。

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歴史は繰り返さない

一日は繰り返す。1年は繰り返す。元号の年数も繰り返す。しかし歴史は繰り返さない。それは西暦の年号が繰り返さないということを考えれば分かることだ。そして、イエス誕生を起源とした西暦のみが、歴史の繰り返さないことを教えてくれる。時間が繰り返さないという示唆を与えているのは、西暦のみであり、その意味は大きい。そう思うと、我々のしていることの意味が、少しは分かるというものである。われわれのしていることは、それが何であれ、歴史に刻み込まれていき、それは決して消えることはない。永遠に歴史に残るのである。

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古楽器・リュート

リュートという古い楽器がある。その楽器で演奏される曲に「シチリアーナ」がある。この曲は何を意味しているのだろうか、と思った。
リュートは、ルネサンス期に盛んになり、その後、忘れられた楽器だという。ルネサンス期の楽器といえば、その人文主義的な気分を歌いこんだものかな、と思ったが、「シチリアーナ」には、人間賛美のような陽気な気分はない。静かな、そして、どこかもの悲しい、郷愁といった気分が漂っている。しかし、暗い、じめじめした気分ではない。
さて、この曲は何を言おうとしているのだろうか。ルネサンスの浮き浮きした気分を言おうとしたものではない。
僕は、思った。この曲は過ぎ去ろうとしている、偉大な中世への惜別の曲なのだ。そして、新しい時代を静かに迎えようとしている曲なのだ。そこには、人間の、よじれた強い感情はない。中世を賛美しつつも、新しい時代も、また神の時代であるという信仰を持ちながら、静かに迎えようとしているようだ。
リュートは中世的な楽器なのである。だから、それは近世が進展していくにつれて、忘れられたのだ。

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社会の安全

人間関係に潤いがない時に、ある人の言葉・態度が他の人のストレスの原因となる。そのストレスは、また他の人に伝播していく。そんな相乗効果の中で、人格の不安定性が増して、思考の短絡をもたらす。事件・事故は、こんな環境から生じる。事件・事故は、また、社会の注意喚起という目的による場合もあろう。人間が生きていくには水分が必要である。人間関係にも潤いが必要だ。それがないので、、その必要性を訴えるために、事件・事故が起きるのかも知れない。

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生活と詩

八木重吉の詩に、こんなのがある。

「生活と詩」
神は愛である
生活は詩である
愛は神ではない
詩は生活ではない
しかも愛は神でありたい
詩は生活でありたい

断定、否定、願望。絶対、相対、移動。本質、現存在、実存。いい詩である。

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ベンチャーズ

ベンチャーズの音楽は、なぜ、こんなにも人を引きつけるのだろうか。
その音楽は電気ギターを使っているが、よく聞くと、太鼓のリズムなのだ。太鼓のリズムは、人の原始的本能に訴えるものを持っているのではないか。「原始」というのは、ある意味で、人間の原点であり、元気の源でもある。その「原始的」な要素が、ギターの音色と共に、伝わってくる、そこにベンチャーズの魅力があるのではないだろうか。

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追悼

死者を追悼するのは、死者のためなのであろうか、それとも生者のためなのであろうか。キリスト教の中には、死者の裁きは死の瞬間に行われて、生者は、その裁きに影響を与えられない、という考え方がある。死の瞬間に地獄か天国か、その魂の永遠のすみかが決定して、その決定を変えることができないというのである。だから、その決定を変えるための追悼であれは、それは無意味だ。もっとも、その中間にあるという練獄といった考え方には、生者による追悼が死者に影響を与えるという意味が込められているが、錬獄の魂は、やがては天国に行くのである。だから、地獄に落ちた魂は、絶対に希望がないという点では同じだ。
いや、視点を変えよう。追悼行事は、実は、生者のために行われるのではないだろうか。その死者の残した業績により、この世は大きな変化を受けている。その変化の恩恵を受けている人たちが、その恩恵の支配が、今後も続くようにとの願いを込めて、追悼するという一面もあるのではないか。家康の始めた幕府の存続と日光東照宮の相互関係には、生者たちが死者をもちだして、現在の支配の安定のために行うといった一面もあるのではないか。
また、死者の祟りを恐れて、追悼するという意味も当然あるかも知れない。
靖国神社の問題は、生者と死者との関係という問題であり、それは全宗教を巻き込んでいる問題なのである。この問題は政治問題ということで、既成宗教が沈黙しているというのは、おかしな話なのである。

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2005年5月17日 (火)

悪の選択

人間は悪を選択して、決断できるのだろうか。
人間の行為の選択は、すべて何らかの善に対して行われるのではないだろうか。
悪を選択していると思われる背後に、その人の主観における善の選択を見るべきではないだろうか。その善を見る時、その人への憎しみも変わるかも知れないし、逆に理解が増すであろう。
人はすべて善を選択する。しかし、それが、その人の救いを保証するというものでもない。救いは究極的善、最高善の選択である。それは、個々の善の選択とは質的に異なり、その人に根源的変革をもたらすものである。

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瞑想

瞑想とは実存の目標である。瞑想の境地に至って、実存は初めて、その目的を達成する。それは深い受動性であり、世俗を離れることでもある。主の言葉を聴くマリアにその境地が象徴される。それはまた、釈迦が悟りを開いて、初転法輪までの間に味わった境地であるかも知れない。
実存は、死に追われている過程である。われわれは、実存にとどまることはできない。それは瞑想に至るようにと秩序づけられている。

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死は悲しい?

死は悲しいのだろうか。黒沢明監督の映画「夢」の中で、笠智衆が、踊りつつ、知り合いの死を喜んでいるシーンがあったように思う。イラクで武装集団から襲撃されて亡くなった橋田さんの妻は、事件後、よくテレビに出ていたが、余り悲しんでいるようには見えなかった。既に、夫の死を覚悟していて、その心構えが出来ていたのかも知れない。本人にとって、死とは未知の世界への旅立ちである。そこには不安がある。しかし、死とは、厳密には、肉体の機能停止ではない。死とは、別の言葉で言えば、ニヒリズムの自覚のことである。魂がニヒリズムを克服した時、肉体の死は悲しむべき理由とはならない。恐るべきは、肉体の機能停止としての死ではなくして、魂が永遠の存在を感じられないこと、従って自分の残された時間を数えなければならないことである。

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2005年5月15日 (日)

2つの実存主義

私は、昭和40年代の前半、大学生活を送った。当時は、大学紛争の時代で、私が卒業する間際に、紛争が東大から勃発し、私の大学でも学生による校舎占拠が続いた。当時は、実存主義という言葉が、ひんぱんに使われていた。同級生のK君は、キェルケゴールを読むのだといって、独学でデンマーク語に挑戦したのには驚いた。しかし、この実存主義には大別して2種類あって、その区別を明確にしておかないと、混乱するようになる。
ジャック・マリタンによれば、実存主義には根本的に異った二形態がある。
一方は<実存の優位を肯定するが、しかし本質乃至本性を破壊し或いは取り除くものとして、また知性の窮極の敗北を表明するものとしてである>。しかし、他方は、<実存の優位を肯定するが、しかし本質或いは本性を抱擁し助けるものとして、また知性と叡智との窮極の勝利を表明するものとしてである。--これこそ、と彼はつけ加える、私は本当の実存主義であると考える>。(『実存主義』文庫クセジュ=ポール・フールキエ著、矢内原伊作、田島節夫訳、白水社=128頁、参照)
前者の実存主義を教会は警戒し、また否定してきたように思うが、後者に対しては肯定するであろう。教会によって肯定される実存主義もあるのである。マリタンにとって、このような実存主義は、聖トマス・アクィナスのそれであろう。こんな視点も、どこかでおさえておきたい。

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2005年5月13日 (金)

「海ゆかば」

新聞で、新保祐司さんが「信時潔」についての本を出されたことを知って、早速、購入した。信時潔は、私の学んだ中・高校の校歌の作曲者であったから、その名は10代の前半のころから知っていた。その後、「海ゆかば」の作曲もされたことを知り、その像が何か巨大なものに膨らんでいった。戦争の映画などでは、玉砕の時に、この歌が流れていく。歌詞も、ぴったりだ。そんな使われ方をしたので、戦後は、この曲は不遇であったという。しかし、私にとっては、まぎれもなく名曲である。この曲を、日本の歴史の中で、どう位置づければよいのか、著者は、次のような至言を記している。
-『海ゆかば』は、いってみれば近代日本の歴史の内奥から湧きいでたレクイエムであった。瀧廉太郎の『荒城の月』が、滅びゆく「武士」というものに対するレクイエムとして近代のはじまりに鳴った曲だとすれば、『海ゆかば』は明治維新から始まった近代日本の終局である大東亜戦争の最中に響きわたった、日本および日本人への万葉集までさかのぼって回想された鎮魂曲であった-
(『信時潔』新保祐司著、構想社、P17-18)
「海ゆかば」は、明治以降の近代日本の鎮魂曲なのだ。今、この曲を持ち出すことで、天皇制の絶対主義化への回帰現象と思う人はいないだろう。われわれは天皇のために生きるのでも、死ぬのでもないが、それでも、生きている限り、「何のために」という問いは続くのである。

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選択の不安

人が生きていくには、専門を選択しなければならない。しかし、その選択は、他の選択を不可能にする。それでよいのかといった不安がつきまとう。そこで、何も選択しないことを選ぶとする。そうすると、生きていくのが困難になる。大学で哲学を専攻した。哲学など学んでも生きていくたしにはならない、という言葉を聞いていた。その言葉を実感する時も来た。生きていくには、自分を限定しなくてはいけない。限定された自分は、他の自分にはなれない。しかし、魂は何か全体的なものを求めている。その全体的なものが得られれば、その時には安心して、自分を限定できるだろう。

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2005年5月12日 (木)

孤独

現代人に足りないものは何かと問われれば、私は孤独と答えよう。携帯電話の普及は、「いつでも誰かと繋がっていたい」という現代人の欲求の表れとしたら、それは、ある意味で現代人は孤独を恐れているということを意味しているかも知れない。孤独は、確かに最も恐ろしいものである。地獄というのは、それは孤独なのだと言えるかも知れない。一人で生きられない人間が、一人で生きる環境に投げ込まれれば、それは人間というあり方を根本的に維持できないということで、最も過酷な環境、すなわち地獄である。ジュピターで、平原綾香は、「一人じゃない」と、人間の連帯を歌う。彼女はまた、「愛を学ぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない」とも歌う。イエスは、神は愛なり、と言われたが、この歌詞の「愛」を「神」に置き換えれば、「神を学ぶために孤独があるなら」となる。孤独は、人との関係から離れ、神を学ぶ場でもある。それは神の言葉を聴く場を意味する。これが現代人に足りない唯一の事柄である。孤独は、ある意味で地獄である。しかし、別の意味では天国である。「神とともにいること、それが最もよいこと」と、ある伝道者は、臨終で言った。「神とともにいること」、そこが天国である。現代人は、この天国の喜びを知らないのだ。

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2005年5月10日 (火)

幸福の尺度

人を、分子と分母による、一つの数と考える。その時、幸福は、その数の値である。分子を現実の客観的価値とすれば、分母は、その人が、どれだけ自分を小さく考えられるかという、言ってみれば自分に対する主観的価値である。この数の値が幸福度である。分母が無限に小さくなれば、すなわち、自分を無に近づけるならば、分子が同じでも、数としては無限に大きくなる。そんな人が幸福な人になるのである。たとえ、分子が、どれほど小さくとも、言い換えれば、たとえどんなに不幸でも、分母を無限に無に近づければ、誰でも幸福になれるのだ。幸福というのは考え方ひとつなのだ。

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NHKラジオ深夜便

私は、今、60代のはじめなのだが、NHKのラジオ深夜便が50代から60代の人々に人気があるのだという。1年余り前、私は大学の警備員で、ときどき、夜12時から早朝5時まで、正門警備室にいて、校内の巡回業務に携わっていた。誰もいない校内で、一人、ラジオを聞いた。それがNHKのラジオ深夜便であった。懐かしい歌が聞こえてきたり、また自分の生き方を反省させてくれたり、励ましてくれる話を聞いた。ゆったり気味の女性アナウンサーの語り口に魅せられていった。ラジオなので、伝わってくるのは音声だけなのだが、昼のテレビ番組にない格調の高さを感じた。私の場合には、その時は、深夜の一人勤務だったので、たまたま、この番組を聞くことができたのだが、一般の人々にとって、この時間帯、起きているのは困難ではないだろうか。しかし、深夜便に接した人々は、自分が変えられていく思いがするであろう。「歴史は夜つくられる」という言葉もある。

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2005年5月 9日 (月)

細川ガラシア

細川忠興の妻、細川ガラシアは小説や映画の題材になっていて、それらを何度か読んだり、見たりしたことがある。徳川方についた夫が思う存分働けるようにと、人質にされそうな時、あえて、自分の命を絶つことにより、夫への思いを全うした。そんな筋だった。美談である。しかし、司馬遼太郎の『関ヶ原』を読む限りでは、ガラシアの死はそんな美談ではなく、夫の嫉妬に殺されたようなものだという印象が強い。ガラシアが自ら死を選択する前に、そのような状況になった時には、忠興は、すでに妻の死を考えていて、家来にそのような自分の意思を伝えていた。そんな情報は、初めて司馬さんに教えられた。

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2005年5月 8日 (日)

教会に行く理由

キリスト教会に行く。それは何を意味しているのだろう。最後の晩餐、そして山上の垂訓に、自分も参与すること。時間を超えて、空間を超えて。原点は、歴史上のささやかな事実。それが、今、全世界に広がっている。生前、その人は言った、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」。確かに、今、そうなっている。

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司馬遼太郎さん

司馬遼太郎さんの本を読んで、どれも途中で放り投げたものはなかった。長編なども、読み始めは、果たして続くかと思い、面白くなければ、一冊目でやめようと思ったが、途中でやめられなかった。全部、読んでしまった。ある解説に、司馬さんの本の特徴といったものが書かれていた。小説家は患者として書いているのだが、司馬さんは医者として書いている、といった内容だった。太宰治にしても、石川啄木にしても、どこか、心の病があって、それを抜群の表現力で書いている。その共鳴が多くの読者をひきつけている。しかし、読者は、どこに、その解決を見出したらいいのか、放置されているのだ。しかし、司馬さんには、その処方箋がある。それが魅力なのかも知れない。

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心に残る言葉たち

小学校の5,6年生のころ、本を読んで心に残る言葉の採集をしていた。それらを紙に書き付け、箱に入れて、何度か目を通すようにしていた。この習慣は長く続かなかった。しかし、この生活習慣は容易に捨てるべきものではなかったかも知れない。「清貧の思想」で一時、脚光を浴びた中野孝次氏の著書を読んだことがある。今は故人になられたかも知れない。氏の文章に、私の少年時代の関心の連続と展開を感じた。生き方の探求、生き方への反省に対する執拗な思索、大いに共鳴した。

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宗教のアクセサリー性

宗教は人にとってアクセサリーではないが、アクセサリーにもなりうる。宗教のアクセサリー性は、その宗教の責任ではなく、その宗教の信奉者の責任なのだが、第三者は、その区別をしない場合が起きる。そこで、第三者による宗教批判が起きてくる。それは一面、正しいのだが、そのことで、アクセサリー性の奥にある宗教の本質まで葬ってしまう危険がある。アクセサリー性を容認する宗教があり、それをしない宗教もある。しかし、アクセサリー性は、われわれが、この世に生きていることの、免れることのできない制約でもある。アクセサリー性を容認しつつも、そこにいつまでもいるべきではないと呼びかける宗教が健全な宗教ではないだろうか。

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2005年5月 7日 (土)

心のケア

地震、津波、列車事故と、天災、人災が続き、多くの人々が死というものに突然、襲撃されている。そして、「心のケア」「心の癒し」という言葉が救援活動の中で語られている。人が体であると共に、心でもあるということ、そして、体と同様に、心にも医者が必要なのだということ、この視点は大切な視点である。しかし、体をなおすように、心もなおすことができるのだろうか。体は客体、心は主体である。治療の仕方は違うのではないか。死は人間にとって、限界状況である。そこで、この限界状況の、こちら側に主体を戻すことが「心のケア」「心の癒し」というものであれば、そこに根本的解決はあるのだろうか。体の癒しのように、心の癒しを考える傾きには、そのような取り組みが意図されているように思う。しかし、主体は死という限界状況のかなたを目指すべきではないか。誰でも、体は死ぬのである。しかし、悲しむべきは主体の死である。それは主体が、どこかでそれを拒否しているからだ。ニヒリズムというものが、人間にとって最大の敵、課題なのだが、災害による「心のケア」「心の癒し」というものは、それをも治療の範囲としているのだろうか。

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内村鑑三

無教会キリスト教を始めた人は内村鑑三といった。「内村」姓は、多くはないだろうが、稀有ということもないだろう。テレビによく出る「ウッチャン」の姓が「内村」である。しかし、「鑑三」は、全く、この人だけであろう、と思っていた。ところが、別の「鑑三」さんがいたのである。これには大変驚いた。もう還暦を過ぎていて、内村鑑三の名を知って40年以上になるが、別の「鑑三」さんを発見したのは今回が初めてのことである。2005年5月7日の朝日新聞で、「be on Saturday」の「e-ntertainment」というおまけのような紙面の4頁に、その人の名があった。「サザエさんをさがして」という記事の最後に斎藤鑑三と書かれている。

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2005年5月 6日 (金)

展望

世紀の変わり目で、「新しい中世」とか「新中世」といった言葉に触れたことがある。しかし、私にとっては、やはり「新しき中世」の方がいい。文語と口語との違いで、文語のよさへの傾斜に似たものかも知れない。このテーマで、事業を起こすことができるかも知れない。カトリック系大学に講座を開設するのもひとつだ。エキュメニズム研究も、その一環だろう。考えたら、いろいろな事業が関係している。なにしろ、時代・世紀を転換する事業なのだから。

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2005年5月 5日 (木)

安楽岡登馬

98年ころ、パソコン通信で「ハレルヤ・ハレルヤ」に書き込みをしていた。その時のハンドル名は安楽岡登馬であった。安楽岡は私の小学生時代の家庭教師の名前であった。東大野球部に所属していて、卒業後、第一銀行に勤め、第一勧銀の支店長になったが、亡くなられたと聞いた。私にとって、人生でもう一度帰りたい、よい時代であった。安楽岡登馬には、意味がある。こんなものであった。安楽な岡(これが人生の目的・目標)に馬で登るという意味である。馬はペガサスがいいかも知れない。また、登馬(とうま)でトマスを意味させようと思った。中世の神学者、トマス・アクィナスである。

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教会のイデオロギー?

「新しき中世」という言葉は、ローマ・カトリック教会のイデオロギーとみなされてしまうかも知れない。その否定的反応への回答は、それは歴史的中世への回帰ではなくして、新しい時代の創造なのだということである。中世に十字軍があった。しかし、それへの反省から修道会が生まれ、その会の一人が中世の頂点を探り当てた。その理念の有効性を問おうというのである。近代の分裂から、統合を目指す理念として、それはある。その解明なくして、近代は終わらず、また近代の悲劇も終わらない。

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考える

小学校の卒業の「しおり」の寄せ書きに「考える」とだけ書いた。人間にとって一番大切なことは何かと考え、それを書こうと思った。その時、パスカルの「人間は考える葦」という言葉が思いついた。人間にとって一番大切なものは「考える」ことではないか、そう思った。確かに、今でも、その思いは変わらない。しかし、思考が外部の何かを、その対象にする前に、思考する自分自身の根本に虚無があることが分かり、愕然とした。その解決がすべてに優先するのではないか。こうして、宗教に触れ、大学では哲学科に在籍した。宗教に関しては、ある体験があり、その限りではまぎれもない現実であった。しかし、その体験後に、また懐疑の中に自発的に紛れ込み、気づいた時は、哲学科の学生であった。なぜ、哲学なのか。それは明確ではなかった。混乱している自己の解明の願いというものが、その目的であったかも知れない。であれば、心理学の方がよかったのかも知れない。こうして、長い時を過ごしてきた。振り返って、人生に大切なのは確固とした目的意識、その一貫性を保持することと思う。それのない人生は、後悔が残るのではないだろうか。

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信仰の必要性

人は生まれながらにしては、正しく生きることが出来ない。そこに信仰の必要性がある。信仰は倫理条項を守るためにあるのではない。人という基本が腐っていて、倫理は、その腐敗を教えてくれるだけである。倫理は信仰の必要性を教えてくれる。信仰は、人の基本に関わり、それによって人としての倫理条項を全うできるようにしてくれるものだ。人生観、世界観、価値観に信仰は作用する。人の命の基本、存在しているという基本は、そのままでは不安定で、自らをもてあましている。信仰は、そんな自己に永遠なるものを注入してくれる。信じたからといって、人間の命の基本がなくなるのではない。別のものになるのでもない。ただ、新しい命が加わり、その対話の中で、新しい生活が始まる。そこには、自らが自らをもてあますといった絶望はなくなる。 肉体は究極的には自分ではない。なぜなら、肉体は存在し、また存在しなくなるからだ。しかし、自己は存在し続けることを欲している。それを得るためには、現在では、ただ神との交わりの中で実感する道だけが残されている。この実感の中に、自己自身が安定し、それに従い、肉体も休まるのである。

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生と死

生と死とは、実は表裏一体なのである。生の追求は、実は死をもたらし、死への接近は、実は生をもたらす。よく生きるとは、実は、よく死ぬことでもある。「貧しいものは幸い」といったキリストの教えの一見、矛盾と見えるものは、実はこの真実に根ざしているのである。

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ケーベルのこと

 札幌のMさんから電話があった。今年のケーベル会はいつかという。SさんとNさんに相談して、6月12日(日)午後2時にした。いまケーベルに注目する意義は大いにあると思う。彼が、東大の学生に行った講義の中に、日本の中世研究の原点となるものがあった。そして、それが「新しい中世」に関連づけられるなら、現代にも関係があるのだ。なぜなら、「新しい中世」の「中世」は、ヨーロッパの一時期の中世ではなくして、信仰と理性の一つの関係を意味する超時代的な理念なのだから。その意味での中世は、一つの頂点であり、また一つの出発点でもある。現代に、新中世の出発点としての意味があるとすれば、その日本での原点はケーベルなのだから、ケーベルは、その観点はからは、現在の課題になり得るのだ。 彼は、ロシア正教、カトリックと関係があり、また、教派を超える視点も予想できるので、無教会とも関係があるかも知れない。 中国の反日デモで、日本の歴史の中でも特に近現代の研究の重要性が指摘されている。そんな中で、明治・大正などが注目されてくれば、ケーベル研究も弾みが出てくるだろう。現在では、ケーベルはほとんど注目されていないが、いろいろな意味で重要な人物なのである。

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タイトルのこと

新しき中世とは、戦後まもなく、ロシアの思想家が使っていた言葉。今も有効と、私は思う。

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