« 悪の選択 | トップページ | ベンチャーズ »

2005年5月18日 (水)

追悼

死者を追悼するのは、死者のためなのであろうか、それとも生者のためなのであろうか。キリスト教の中には、死者の裁きは死の瞬間に行われて、生者は、その裁きに影響を与えられない、という考え方がある。死の瞬間に地獄か天国か、その魂の永遠のすみかが決定して、その決定を変えることができないというのである。だから、その決定を変えるための追悼であれは、それは無意味だ。もっとも、その中間にあるという練獄といった考え方には、生者による追悼が死者に影響を与えるという意味が込められているが、錬獄の魂は、やがては天国に行くのである。だから、地獄に落ちた魂は、絶対に希望がないという点では同じだ。
いや、視点を変えよう。追悼行事は、実は、生者のために行われるのではないだろうか。その死者の残した業績により、この世は大きな変化を受けている。その変化の恩恵を受けている人たちが、その恩恵の支配が、今後も続くようにとの願いを込めて、追悼するという一面もあるのではないか。家康の始めた幕府の存続と日光東照宮の相互関係には、生者たちが死者をもちだして、現在の支配の安定のために行うといった一面もあるのではないか。
また、死者の祟りを恐れて、追悼するという意味も当然あるかも知れない。
靖国神社の問題は、生者と死者との関係という問題であり、それは全宗教を巻き込んでいる問題なのである。この問題は政治問題ということで、既成宗教が沈黙しているというのは、おかしな話なのである。

|

« 悪の選択 | トップページ | ベンチャーズ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104898/4176370

この記事へのトラックバック一覧です: 追悼:

« 悪の選択 | トップページ | ベンチャーズ »