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2005年5月20日 (金)

禅の極意

禅の極意がキリスト教の真髄と同じであるかどうかは知りません。カトリックの神父さんの中には、禅の師家(先生)の資格を持つ方もおられるのですが、両者の関係が、どうなっているのかは聞いたことがありません。しかし、禅からキリスト教を理解しようとした哲学者・西田幾多郎もいますので、キリスト教から禅を理解する人がいてもいいかも知れません。
さて、「大疑現前」「大死一番」「心身脱落」「脱落心身」という言葉があります。「心身脱落」「脱落心身」という言葉は道元の書にある言葉で、「大疑現前」「大死一番」も禅の言葉です。意味はこうです。大いなる疑いが目の前に現れてきた。そこで、自己放棄を貫徹した。そしたら古い私が無くなって、新しい私が現れてきた。これはキリスト教の中にも通用する考えです。
「心身脱落」「脱落心身」の移動の中に宗教体験があるのです。 キリスト教では「新生」とか「再生」とか言い、「生まれる」ことが強調されています。聖書は「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)と言います。「脱落心身」が、この新しく生まれた「私」を意味しているのでしょう。
宗教の違いは、対立を生み出すだけではなくて、相互理解も生み出すのではないかと思います。こんな対話を続けていって、宗教への免疫を強めていかないと日本の将来は危なくなるのではないかと思うのです。

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コメント

理屈や発想はそれぞれ違うのでしょうが、同じ人間の営みですから、通じる部分も沢山ありそうですよね。
本当に苦しいときには、一つのものにしか縋れないのでしょうが、少しか余裕のある間に、色々学んでみたいものです。

投稿: amita_gate | 2005年5月24日 (火) 06時26分

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