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2005年6月29日 (水)

幸福感の中で

   幸福感にひたりながら
   不吉な思いが心を横切る
   
   この幸福は、いつまでも続くことはないだろう
   いつかはなくなるだろう
   
   その思いは不思議と的中する
   不幸が来て、人は道を求め始める
   
   そこで、覚者は言う
   幸も不幸もない、それらは相対の事柄
   
   それは悟りの言葉ではあっても
   癒しの言葉ではなかった
   
   どうしたら、その境地に到達できるのか
   どうしたら人生を達観できるのか
   
   不幸には意味があるのだ
   もっと恐ろしい事柄を気づかせるための道具
   
   その恐ろしいことを知って
   人は初めて不幸を超える
   
   そこに、いのちの問題がある
   二つの命の問題

  命の弁証法
  不思議な説明
   
   この世には、さまざまな不幸があり
   それに応じて、さまざまな幸福商人がいる

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悲しみの家

   悲しみの家にいる私に
   人々は心を痛めている
   
   私を悲しみの家から引き出して
   人生の楽しさを教えようとしている
   
   「明るく生きて下さいよ」
   笑顔の贈り物が私を囲む
   
   その善意には感謝しつつ
   私はなお悲しみの家に留まろう
   
   その家に漂う大悲こそ
   悲しむ人々を癒す妙薬なのだ
   
   もしも私が大悲を捨ててしまったら
   私は何の役にも立たなくなってしまうだろう

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愛するとは

   愛するとは、自分の別のあり方を欲すること
   なぜなら、今の自分は不幸だから
      
   やがて死んでしまう、このちっぽけな存在に
   自分は我慢できない
   
   死んでしまう自分だが、
   そんな自分に頑強に反対する自分がいる
   
   この頑強に反対する自分にこそ、
   何か、本当の自分がいるような気がする
   
   私は存在
   ちっぽけな存在
   
   しかし、だから
   大きな存在にあこがれる
   
   大きな存在と共にいたい
   それが愛するということだ
   
   この大きな存在を神という
   だから、人は神を愛する
   
   神を愛さないでは、
   人は生きていけない
   
   そう言わない人たちは、
   本当の神を知らないだけ
   
   死を前にして、
   人は、神を思わざるを得ない

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2005年6月27日 (月)

人としての大きさ

人間は人間関係の中で生きている。そこに、さまざまな感情が生まれる。その感情が、その人の明日の行動を導いていく。その時、行動が短絡でないように注意しなくてはいけない。その行動の正しさが万人の認めるところ、そして誰にでも説明できるように心がけなければならない。感情の発散に理性的媒介を生かせるかどうか、それが、その人の、人としての大きさを決めるのであろうと思う。

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2005年6月26日 (日)

母の子宮

   僕の淋しい心は
   大きな愛に包まれていたいと願っている
   
   それは、どこにあるのだろう
   かつては、母の子宮だった
   
   そこが僕の故郷
   僕の生命を育んでくれた母の子宮
   
   頼り切っていた僕
   だから安心だった
   
   絶対他力の世界
   ナンマイダの世界
   
   それはまた、絶対矛盾的自己同一の世界
   霊感のふるさと
   
   母の子宮に戻りたい
   そこで大きな愛に包まれていたい
   
   今、母の子宮はどこにあるのだろう
   生命を育む子宮は、どこにあるのだろう
   
   こんなことを
   言う人がいる
   
   もし、見る目があれば
   世界は母の子宮だよ
   
   生命を育む愛は
   世界に満ちているじゃないか
   
   やがて、世界という子宮から飛び出して
   人は新しい生命になるんだよ

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家出人の言い分

   家の中で、人は生まれ、育ち
   そして、死んでいく
   
   だから、家がなければ人もいない
   家は人に先立つもの
   
   家出人は自分のルーツの否定
   どうして生きていけようか
   
   何も好んで家出したわけではない
   自分が何かに追い詰められていた
   
   窒息しそうな息苦しさの中で
   これは何だ?という問いが家出の原因
   
   家の問題ではなく
   実は、自分の問題だった
   
   しかし、家出は家にも変化を与えた
   家出人を切れないためらいが家をぐらつかせた
   
   あわれな家出人は大きな家に出会った
   それは出てきた家を包むもの
   
   家とは何か
   それは人が住む所
   
   どんなに家出を重ねても
   所詮、人の家は一つしかない
   
   孫悟空は、どんなにあがいても
   釈迦の手のひらから出られない
   
   大きな家に気づかせるための
   小さな家出であったのかも知れない
   
   人の家は一つのみ
   その中に多くの家がある
   
   ときどきは、この一つの家を
   考えてみよう
   
   家出人の言い分は
   この一つの家の発見にある

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2005年6月22日 (水)

主人

人間は、環境の中で生きる主人なのだ。成功する人というのは、その主人であることが、よく分かっている人なのだろう。環境に服従し、適応し、しかもその中で主体性を発揮すること、この三者の調和の中で、その人の運は進展していくのである。その運の進展が、あるいは摂理を構成することになるのかも知れない。主体性の発揮というのは、環境に対する服従と適応の二つの条件に支えられているが、環境を超える原点でもある。それは超越者への応答といってもいいかも知れない。

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2005年6月21日 (火)

救急車

   救急車のサイレンを聞くと
   何か、ほっとする気がする
   
   乗っている人には申し訳ないのだが
   人間にとって重大なことを警告しているようだ
   
   いつもは忘れていることを
   あのサイレンが思い出させてくれる
   
   命の危機を知らせるピーポー、ピーポー
   命はいつも危機に瀕している
   
   救急車は他人ごとであった
   しかし、いつか自分のことになるかも知れない
   
   肉体の反乱に混乱状態の私
   なぜ、肉体は反乱するのか考えよう
   
   強い者をこらしめるためではないのか
   弱い人であれば、憐れみを受けよう
   
   弱い人間の自覚に生きれば
   救急車は遠のくだろう
   
   余りプライドが高すぎると
   自分だけでなく、他人も潰してしまう
   
   謙遜に生きていけば
   なんとか、生きていけるだろうに
   

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2005年6月20日 (月)

人生

   小学生の時、人生を思った
   そこには希望があった
   
   それは自分のものであった
   まぎれもなく、そうだった
   
   だが、その時には死があり、
   その前で、立ちすくむ人生であった
   
   死とは何か
   その本質は孤独であった
   
   中学生となって
   その孤独が去った時、死もまた、なくなった
   
   同時に
   人生は自分のものでなくなった
   
   人生が、こんなものとは思わなかった
   死後の生命を誰も知らないように

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2005年6月19日 (日)

チャールズ皇太子の再婚相手

英国のチャールズ皇太子が、長年、愛人と言われてきたカミーラさんと再婚した。日本のマスコミは、もちろん、このことを報道している。しかし、以前、テレビが、カミーラさんはカトリック教徒であるとの指摘をしていた。もちろん、その及ぼす影響など、その時は詳しくは論じていなかったが、再婚が現実となり、この事実は大きな問題なのではないのだろうか。なにしろ、かつての英国国王による再婚問題とカトリックからの独立が英国教会の原点なのだから。

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神と仏に囲まれて

私が小学生だったころ、新居と旧居の家には、合わせて仏壇が二つ、神棚が二つあった。私が生活していた新居には、仏壇が二つ、神棚が一つあり、神と仏に囲まれた生活をしていた。しかし、仏教にも神道にも、信仰心はなかった。旧居の二階にあった神棚には、軍人らしい男性の横顔が飾られていた。明治天皇の写真であった。こちらは、その前で拝むことはしなかった。敷地内の事務所にも神棚が一つ、また、敷地内の社員食堂の隣には、小さなお稲荷さんの祠が一つあった。
新居一階の仏壇で、私も毎日、手を合わせた。その下には金庫があり、祖父が得意先から集金してきては、手形などを入れていた。祖父は、新居二階にあった仏壇にも、読経を欠かさなかった。しかし祖父から仏教の教義らしいものは一切聞かなかった。
祖父と祖母の名は、千葉・成田山・新勝寺の階段の一番下の手すり部分に刻まれている。一応、真言宗の信徒なのだろう。しかし、祖母の宗教心の実践は、特別なものではなかった。
母は再婚した男性の実家の宗教の影響を受けて、その信者となり、晩年は夫と共に布教活動をしていた。それは、天理教関係のものであった。二人のお骨は先祖の墓に納められた。
仏教、神道、お稲荷さん、さまざまな宗教に囲まれて、少年時代を過ごしてきた。今も宗教には、いくらか関わりがあるのだが、その原因は、こんな実家の状況が反映しているのかも知れない。宗教の、ささやかな日常的実践というものが、心の健康の支えとなり、また、この実践により、われわれの目の届かない所も含めて、万事が良くなるのだといった思いが強化されていくのであれば、それもまた意味があるのであろう。

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夢中になれるもの

生きることを容易にするには、夢中になれるものを見つけることだ。これを知るには、毎日の経験から受ける感じを自分の心に聞かねばならない。気晴らしがないと、心は闇の深淵に落ちていく不安にとらわれる。夢中にしてくれるものは、気晴らしの効果も含んでいる。人はパチンコに、またゲームに夢中になる。しかし、私は、それらに夢中になれない。関心は各人別々なのだ。私にも、どこかに夢中になれるものがあるのだろう。

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2005年6月18日 (土)

問いの性格

   創造主なる神は全知全能、そして善なる方
   であれば、どうして人間世界に不幸があるのか
   
   これは、日本にキリシタンがやってきた当初
   盛んに議論された問題だ
   
   だから、歴史を紐解けば
   多くの回答を見出すことができる
   
   悪の原因は罪という
   罪の原因の一端は人間の自由意志にある
   
   神は自由意志のない人間を造ればよかったのだが
   そうであれば、最初の問いもなかったろう
   
   人間は、とりあえず生きている
   不幸な人はたくさんいる
   
   その不幸の解決をどうするか
   そこから始めればいい
   
   そこが宗教の入口で
   入口はみな同じだと思う
   
   宗教は実存的な問いを予想するのであって
   思弁的な問いは袋小路への入口でもある

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迷惑メール

毎日、何通もの迷惑メールを受け取っている。内容は品のない男女交際の勧誘が主で、そのつど、「送信者を禁止する」にしているのだが、無くならない。これなど、ITという未来社会への牽引車のもたらした悪の部分という印象が、私には強い。自由が増大すれば、人が、その本質を善としない限り、悪もまた拡大する。それを拒否できるかどうかが、いま、問われている。

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2005年6月16日 (木)

高嶺の花

   道端でふと見ると
   美しい花があった
   
   そのまま通りすぎることができずに
   手を延ばした
   
   しかし、花は超然としていた
   高嶺の花のように
   
   旅人に気づかないのか
   感情も意志もない造花のようでもあった
   
   旅人は、ついに
   その花を摘むことができなかった
   
   高嶺の花は旅人を慰めるために
   そこに置かれているのだ
   
   だから、摘むことはできないし、
   摘んではいけないのだ
   
   そう思って、旅人は
   再び旅を続けた

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2005年6月15日 (水)

望ましい社会

    我々は競争のない、硬直した社会を
    望まない
   
    しかし、競争一辺倒の社会も
    望まない
   
    我々が望むのは
    競争しても、それにとらわれない社会
   
    英才教育をする自由と
    弱者への優しさを兼ね備え
   
    自分の前を行く者の足を引っ張らず
    自分の後を行く者を踏み付けにもせず
   
    皆が共に生きるためには
    あえて矛盾を恐れない社会
   
    同時に、「共に生きる」が
    自由の拘束にならない社会

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2005年6月13日 (月)

日本の古都

   薄暗い夜明けの京都を
   市街電車と自動車が走る
   
   まだ大きな静けさが
   町を包んでいる
   
   市街電車と自動車の騒音は
   恐縮しているようだ
   
   寺院の立ち並ぶ町では
   騒音は歓迎されない客
   
   鳩が遊ぶ本願寺の庭で
   老婆が餌を与えている
   
   大勢の婦人らが
   奉仕のために庭を通る
   
   大きな権威の下で
   個我を無にした中世の絵
   
   三十三間堂の中は薄暗く
   無数の観音像が立ち並ぶ
   
   仙人のような像が一つ
   あばら骨が見えている
   
   顔は上を向いて
   何かを求めている
   
   肉体の死の中から
   上なるものを仰ぎ見る
   
   魂は死の現実の中でのみ
   浄化されるかのように
   
   三十三間堂の外には
   みやげものを売る老婆の姿
   
   邪心なく、顔をあからめ
   笑みをたたえている
   
   貧しさを気にしない
   光が老婆を包む
   
   細い道の片隅に
   小さな石のお坊さん
   
   座りつつ
   こちらも、上を仰いでる
   
   子供のような晴れた心に
   ふと、一茶を想う
   
   寺の庭で無心に遊ぶ
   子供と老人の幻影
   
   自然の美しさ
   ありのままの美しさよ
   
   古い建物たちの中で
   歴史がよみがえる
   
   静かな町、京都
   昔を回想させる町、京都
   
   市街電車の中で
   美しい女学生に逢った
   
   舞妓さんのような顔立ち
   昔の宮廷美人のようだ
   
   貴族的な、しとやかな
   和魂の町、京都
   
   悠久なる無の庭から
   知性は天空に飛翔する

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2005年6月12日 (日)

「何となく不安」

新聞によれば、最近は「何となく不安」を感じて、自殺する人が多いという。そのことで、芥川龍之介の最期を思った。自殺者を前にして、人の生きる意志を前提にしている医師は自らの限界を感じているのではないだろうか。

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ケーベル先生の墓参

ケーベル先生の命日は6月14日。6月12日は、その前の日曜日ということで、有志4人と墓参した。中には北海道の札幌から来た人もいた。場所は、東京都豊島区の東京都立雑司ヶ谷霊園のケーベル先生の墓前。ケーベル、久保勉、ストラッサーの墓の前にはまだ、新しい花があり、周囲も落ち葉などなくて、きれいだった。
墓苑は緑に包まれ、空気も清浄で、気持ちが落ち着く。俗世間の喧騒からかけ離れて、静寂の中に、深い休息気分が漂う。風が、汗ばんだ肌に心地よく吹いている。墓地を散策すると、死者たちの「遺言」が、墓石に刻まれていて、生者に、悔いのない生き方を促しているようでもあった。時々、墓地の中で、法事の読経が響く。間断ない鳥たちの鳴き声も、気持ちをやわらげてくれる。
3人の墓の前で頭をたれ、その後、近くの喫茶店で、ケーベル回想のひと時をもった。

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2005年6月10日 (金)

病気の原因

終戦の年の4月、父はフィリピンで戦死した。
父の顔は残された写真で知るだけで、僕の中に父の記憶はない。
   
母は再婚し、二人の弟が生まれた。そのあと、僕は、よく病気をした。

一時は、命にかかわる重病であった。   
血の便が出て、医師が日に2回、往診に来て、なんとか回復した。
   
なぜ、僕は病気になったのだろうか。   
朝食で食べたものが、その原因と言われた。まあ、それで、みんなは納得した。
   
しかし、それが本当の原因なのだろうか。
   
僕には、戦死した父との人間的交流はない。母は再婚し、父でない別の男性に母を奪われた気がして、少し寂しかった。
   
そんな中で、2番目に生まれた弟は、母の愛情を強く要求し、独占しようとした。母は、それに応えて、僕はますます寂しくなった。
   
病気になって、母は何かと僕の方にも気を回すようになった。僕は、本当は、このような母の愛情が欲しかったのかも知れない。そのために、病気になったのかも知れない。
   
僕が病気になったのは、母の愛情が欲しかったため、と言ったら、周囲の家族はみな一笑にふしただろう。私も、恥ずかしくて、そんなことは言えなかった。

「病気の原因は朝食で食べたものなんだよ」ということで、みなは納得している。しかし、本当にそうなんだろうか。

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視点の移動

人の判断は通常、肉眼で見ている世界の拘束を受けている。しかし、その私は、大宇宙に比較すれば、限りなく無に近く、逆に素粒子に比較すれば、限りなく巨大なものである。視点の移動は、ただ想像によるしかないが、時々は、視点の移動による私の見方を変えてみるのも面白いものだ。

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2005年6月 3日 (金)

『信念の魔術』

中学3年生のころ、ブリストル著『信念の魔術』(ダイヤモンド社刊)を読んで、惹かれるものを感じた。そこには奇跡を起こす方法論が具体的に書かれていると思った。この本によって、自分が万能になれるような思いがした。その方法を人生の中で試してみればよかったのかも知れないが、しなかった。一時、「不屈」という言葉に憧れのようなものを感じていたが、主体の弱さの自覚の中で、何か強さといったものを求めていたのだろう。その動機は真剣であった。しかし、高校1年生の時、その動機が突然なくなった。不安というものが、人間の動機を無意識の中で形成しているが、その不安がなくなれば、それまでの生き方は不可能となる。その時、強さというものに魅力を感じなくなった。

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2005年6月 2日 (木)

すべて良し

「すべてのものは良い」。ラテン語では、「Omne ens est bonum.」という。これは中世の哲学者の言葉で、ホイベルス著『人生の秋』に紹介されている。しかし、世の中には、いろいろと悪があるではないか。それをどう説明するのか。悪は善の欠如である。悪といわれるものにも、善が全くないということはない。存在と善はつながっている。存在である以上、何らかの善が、そこにある。そんな世界観で生きれば、世の中はもっとよくなるのではないだろうか。

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犠牲と償い

犠牲も償いも、人生においては、よく知られた考え方である。犠牲は自分の権利を放棄して、他者を生かすこと。そこには自分の罪の前提がない。人生の観察者には、その真実がいたるところに見られる。償いとは、罪を前提として、それによる罰としての痛み、苦しみを受けて、それに耐えること。それには罰を終わらせるという意味があり、ただそれだけであれば、消極的な意味しかないが、その償いをしようとするとき、人生は積極的な意味を持つかもしれない。その中に、人生の意味と神の意思があるのかも知れない。

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啓蒙主義の系譜

カントが啓蒙主義を説明する文章を読んでいて、創世記のアダムの罪を是認・肯定しているような感じを受けたことがあった。アダムが、サタン、蛇、イブの通路を降りてきた誘惑に屈する中で、人の側には神に対して当然の反論がある。「智恵が得られる」「神のようになる」、それが、どうして悪いのか。その限りでは悪くないように思えるのである。それが啓蒙の主張であったように思う。
その感じが、歴史の中でも再生産されている。啓蒙主義時代は、ルネサンスにつながり、その時期の原点は13世紀、中世盛期の論争にみられる。現代の進歩主義も、その延長上にあるのかも知れない。
罪というものは死をもたらす。罪という一線を越えずに、「智恵が得られる」「神のようになる」という、善を実現する第3の道はないのだろうか。まあ、歴史は、罪・贖罪・新天地といった方針で進んでいる。「罪・贖罪」といった事実を否定しては、現実的ではないのだろう。しかし、その道が、進歩主義、啓蒙主義の「善」を頭から否定していたら、サタンの戦略はなお有効性を失わないだろう。

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敬虔なクリスチャン

新聞などで、「敬虔なクリスチャン」といった表記をよく見かける。私は、そのような表記にはなじめない。マスコミ特有の、マニュアル的発想からくる内容空疎な言い換え的表現の一つなのだろう。余り見かけないが、「敬虔な仏教徒」といった表記もあるのだろうか。
敬虔とは「うやまいつつしむこと。特に神仏に帰依して、つつしみ仕えること」と辞書にあり、「敬虔な祈り」といった使い方もあるという。
「敬虔なクリスチャン」という言い方には、周囲の人たちが、たとえば、修道女たちを見て、そう感じたといった印象が表明されているのかもしれない。その限りでは、それでもいい。しかし、そんな人たちだけがクリスチャンといった、限定的印象がもたらされれば、それは実際とは異なるし、クリスチャンは敬虔でなければいけないのか、といった疑問を誘発する。敬虔でないクリスチャンがいたっていいではないか。
たとえば、私は今でも、近代日本の生んだ最高のキリスト教著述家であったと思っている内村鑑三はだれもがクリスチャンであったことは認めるだろうが、「敬虔なクリスチャン」という言い方で表現できるだろうか。
一方で、米国などで、「ボーンアゲイン・クリスチャン」という言い方が、日本にも伝わっている。しかし、新聞などでは、ブッシュ大統領の信仰の説明などで一部使われはするが、マスコミにも余り使われていない。この表現は、仏教的に言い換えれば、「私は悟ってしまった仏教徒」と言っているようなものだ。
もし、仏教徒が、自分をそのように表明するとすれば、少し偽善的においがするのではないか。他の人が、そう言うのであれば仕方ないが、自分が言うのは少し控えた方が、本当に「悟ってしまった仏教徒」の言動としてふさわしいのではないか。

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2005年6月 1日 (水)

死の準備

死の準備をするということは死後の準備をするということであり、死後の準備をするということは、その中に死後の生の前提があり、その観点から、この世の生の意味を整理するということである。

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