« 敬虔なクリスチャン | トップページ | 犠牲と償い »

2005年6月 2日 (木)

啓蒙主義の系譜

カントが啓蒙主義を説明する文章を読んでいて、創世記のアダムの罪を是認・肯定しているような感じを受けたことがあった。アダムが、サタン、蛇、イブの通路を降りてきた誘惑に屈する中で、人の側には神に対して当然の反論がある。「智恵が得られる」「神のようになる」、それが、どうして悪いのか。その限りでは悪くないように思えるのである。それが啓蒙の主張であったように思う。
その感じが、歴史の中でも再生産されている。啓蒙主義時代は、ルネサンスにつながり、その時期の原点は13世紀、中世盛期の論争にみられる。現代の進歩主義も、その延長上にあるのかも知れない。
罪というものは死をもたらす。罪という一線を越えずに、「智恵が得られる」「神のようになる」という、善を実現する第3の道はないのだろうか。まあ、歴史は、罪・贖罪・新天地といった方針で進んでいる。「罪・贖罪」といった事実を否定しては、現実的ではないのだろう。しかし、その道が、進歩主義、啓蒙主義の「善」を頭から否定していたら、サタンの戦略はなお有効性を失わないだろう。

|

« 敬虔なクリスチャン | トップページ | 犠牲と償い »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104898/4378747

この記事へのトラックバック一覧です: 啓蒙主義の系譜:

« 敬虔なクリスチャン | トップページ | 犠牲と償い »