« 2005年6月 | トップページ | 2005年8月 »

2005年7月31日 (日)

性善説と性悪説

人間は性善か性悪か。そんな粗雑な問いに対しては、ジルソンの「中世哲学の精神」の一読を勧めたい。信仰がないと読めない本ではあるが、信仰があれば、人間とは何かに関して、十分に納得のいく説明がされている。中世の魅力が、ここに書かれている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

個人と共同体

個人と共同体夫婦という関係がある。親子という関係もある。家族という関係もある。強い絆を、そこに感じるかも知れない。しかし、神の審判は個人の上に及ぶのであり、夫婦、親子、家族に及ぶのではない。夫が天国に行き、妻が地獄に落ちる。親が地獄に落ち、子が天国に行く。そんなことがあり得るのだ。厳密に言えば、みな赤の他人である。われわれが、どんなに力んでも、相手の永遠のすみかを変更することなどできない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

転身

毎日の生活の中で、ふと、このまま年老いてしまったら、どうなるのだろう、これでいいのか、と疑問に思う時がある。空しさが意識の中に漂う。それに対して、明確な答えがなかったら、換言すれば、このまま死んでもいいのだという覚悟がなければ、その時は転身を考えなければならないだろう。新しい目標はきっと与えられる。人間にとって、一番大切なことは、この生活の中で死ねるという、そんな生活を見出すことである。永遠の志を見出し、その中に生き続けることである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

真価

人生の苦難や不幸は、その人の真価があらわれるためである。私が気づかなくとも、周囲の人々は私を見ているのである。平穏な生活を営んでいる人々の輪の中に、私などは入っていけない。なぜなら、日常生活がひっくり返っているからである。こうして、生きていく方向も自然に狭められていく。やがて神の栄光が現れるであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月30日 (土)

生活習慣病

生活習慣病は一般には病気ではない。病気予備軍である。従って深刻に考えないかもしれない。しかし気づかぬうちに病気を進行させるという点では深刻である。生活習慣病の予防という発想が必要だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イワンへの回答

ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の中で、イワンは、罪のない少女の涙に同情して、神の創造を否定する。イワンの判断に共鳴する人も多いだろうと思う。しかし、真実はどうなのだろうか。イワンは神の声を聞いたのである。それは、あの「罪のない少女」のために、何事かをせよ、という声であったろう。しかし、イワンは、その声に従わなかった。その言い訳が、あの神の創造への批判となったのだ。神の声を聞いて服従しなかったという点では、預言者ヨナと同様であり、両者にはどこか類似の点もあるに違いない。では、イワンの立ち直りは、どのようにして可能なのだろうか。原点に戻ること、あの「罪のない少女」のために何事かをなすということである。大きなことでなくともよい、小さなことでよい。その時、イワンは信仰から信仰に進むであろう。イワンは根っからの無神論者ではないのである。彼は神を知っている。ただ、服従しなかっただけである。その理由は、彼がとうとうと述べている理由ではない。それは不服従を決断したあとに、考えられた理由である。なぜ、彼は神の声に従わなかったのか。それは、まだ分からない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月29日 (金)

自分探しの目標

自分探しの目標は、実は神を知ることである。神を知ることなくして、自分を知ることはできない。ある意味で、神を知ることと、自分を知ることとは同じことなのだ。しかし、自分探しの多くの試みが、この点を明確にしているだろうか。この点があいまいな時、自分探しは中途半端なものとなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月28日 (木)

あるいは幸運

身近な人間に精神障害者がいるということは精神医学に関心を持つものにとってはあるいは幸運なのかもしれない。この現実に背を向けて、逃げようとするなら、この現実は限りなく不幸なものとなろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

離婚の選択

離婚は相手がそれを望まずそれによって相手がより不幸になることが予想される時はすべきではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生きがいの発見

生きがいとは何をすればよいかを問うものだ。何をすればよいかは、それまでの経験を反映して、自分の意思の外からやってくる。その時、それを受けるか拒否するか、それは危機的な瞬間である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

結婚

妻は結婚はばくちのようなものと言った。同感。結婚には慎重であれと言い残したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

過激

妻にも、妻の兄にも、言葉などに過激なところがある。私は過激な言葉を使わない。しかし活ける神に、その理由が何であれ、逆らうことは、やはり過激なことなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生活の意味

我々の毎日の生活というものは我々の人生という物語に一筆を入れているようなものである。その一筆は我々の過去の物語を一層辻褄のあうように、合理的であれ、との意図でなされる時、より意味のある一筆となろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月27日 (水)

不幸を誇る

もし、自分が不幸な人生を送っているとしたら、それを誇ればいい。それはかけがえのない財産なのである。なぜなら、不幸の経験の中でのみ、堅固な志が生まれるからである。そして、志のないところには、将来はない。志は無から有を生み出すものだからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

精神障害者の問題

精神障害者の問題は、退院したあと、社会復帰のための訓練の場がどうなっているかという点である。自宅に戻り、社会との接触に、少しとんちんかんな対応をして、ますます周囲との関係が閉ざされてしまう。そして、再入院となる。この繰り返しだ。
社会復帰のためには、憩いの家、デイ作業室、共同作業所、グループホーム(共同住居)などがあり、その創設、運営、ボランティア参加事業などは大切な仕事。また、法人格をとって福祉ホームや精神障害者援護寮や通所授産施設の設置などの活動もある。これらの仕事を、これからしてみたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

方針の転換

悪とかかわることは苦労なことである。これまでの方針では対応できなくなるかも知れない。方針転換を余儀なくされることで、不満を感じるかも知れない。しかし、人生の方針は柔軟に考えるべきだ。悪とのかかわりは、方針転換を要求する「天の声」かも知れないのだ。この方針で、この選択で、自分の人生を終えよう、そんな転換に、悪が寄与するかも知れない。自分が変化しないで、悪とつきあうことは、生活を息苦しくさせる。自分が変化すれば、悪もまた、充実した人生への道案内ともなるであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

悪とは秩序の創造に逆行する力、無化する力なのだろう。それは言葉を通して行使される。では、秩序の創造とは何か。それには、価値の大きいものから小さいものへの連鎖における接触が必要だ。この連鎖をたどって登る人と降る人がいる。登るには、自分の中にビジョンが必要なのだろう。だから、ビジョンは大切にしないといけない。ビジョンにこそ、その人の将来がかかっているのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

悪妻

結婚後、間もなく、妻の激情を経験して、日記に「僕の妻は悪妻」と書いた。妻は、それを見て、何かと「私は悪妻」と言う。確かに、今まで、妻を良妻と思ったことは一度もない。弟の結婚式の時、一人で出席しようと思ったが、妻も行くという。しかし、妻の精神に不安定さを感じて、妻と一緒に出席したら、その時には何が起きるか不安になり、欠席することにした。それ以来、実家の親族の冠婚葬祭には二人では一度も出ていない。離婚を考えたこともあるが、ふんぎりがつかなかった。優柔不断なのかも知れない。生活は不健康な生活であり、普通の人であれば、結婚生活は、ずっと以前に破綻していたであろう。しかし、二人とも歳をとった。毎日、愚かな言動で、周囲の人たち物笑いになっているが、夫としては、妻の同類の障害者たちのために、何かをしつつ、こんな生活に終止符を打つ時を待望し、静かに死を待つ生活をしたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月26日 (火)

死もよいものだ

愚かで、恥じ多き人生もいつかは止む時が来る。狂気の人生にも終わりがある。その意味で、死もまたよいものだ、と思う。普通は、隣人の生を助けたいと思う。殺人は罪である。いや、殺人ではないのだ。愚かな生が、その愚かな欲求のはけ口を作るのを、いくらか同情しつつ、また、その愚かな生にもいつかは終わりが来ることに望みを持つことも、人には許されているのではないだろうか。罪によって、全体の秩序が失われてしまった世界の中で、その不健全さを周囲に撒き散らしている存在も、やがては死によって終わるのだ。この世に死があるということは、この世の健全さの維持のために必要なことなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

死を待つ

妻は長年、精神を病み、また肉体も病んでいる。何度も病院に入退院を繰り返してきた。医療費も馬鹿にできないくらいになっている。常に、どこか体の不調を訴えている妻。こんな妻を見ていて、妻にとって、死とは解放ではないかと思えてくる。死は希望のあふれた人たちにとっては、不吉なものかも知れないが、日常が病気に圧倒されている人たちにとっては、その痛みの終わりであり、解放である。人間、いつかは死ぬ。死ぬことはいい。ただ、死ぬまでの間、できることなら、痛みを緩和してあげたいと思う。しかし、大切なことは、病人が、その気になることだ。病気というのは、生き方、考え方に問題があることでも起きる。その点をないがしろにして、病院や医師に頼りすぎているケースも多いのではないだろうか。病気の痛みから反省して、生き方、考え方を変えよう、と思うのであれば、いくらか希望がある。しかし、それも考えない時、ただ、静かに死という解放の時の到来を待つだけである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

精神の病気

一人の人が精神の病気にかかったとする。その時、薬物療法で直そうとする人たちがいる。それもまた意味があるかも知れない。しかし、私の関心は別のところにある。精神の病気は人間関係から生まれるものである。だから、精神の病気にかかった人の人間関係を調べなければならないのだ。その人間関係の中で、病人が強い絆で結ばれているもう一人の人もまた、別の精神の病気にかかっているのかも知れない。このような人を身内にかかえている時、私はどうしたらいいのだろうか。この環境に挑戦しなければならないとは思うのだが、どんな攻撃手段があるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月25日 (月)

悪の決断

人間は悪を選択して、決断できるのだろうか。
人間の行為の選択は、すべて何らかの善に対して行われるのではないだろうか。
悪を選択していると思われる背後に、その人の主観における善の選択を見るべきではないだろうか。その善を見る時、その人への憎しみも変わるかも知れないし、逆に理解が増すであろう。
人はすべて善を選択する。しかし、それが、その人の救いを保証するというものでもない。救いは究極的善、最高善の選択である。それは、個々の善の選択とは質的に異なり、その人に根源的変革をもたらすものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

悪とは何か

   悪の意味は何かと問えば
   それは無意味と答えよう
   
   意味は善にかかわるもの
   だから、悪に意味はない
   
   悪に意味があるとすれば、
   それは他の善に関係している
   
   例えば
   ポルノ氾濫の日本社会を、どう見るか
   
   昔の倫理なら、悪の蔓延
   しかし、それは自由の善に支えられている
   
   人は言う
   世界に悪が見られる
   
   世界を造ったのは神というが、
   であれば、神は悪か
      
   悪を造った全知全能にして、
  善なる神は理解できない
   
   答える人が言う
   「悪を造る」とは何か
   
   造られたものはすべて存在
   存在にはすべて意味がある
   
   その意味に善がある
   だから「悪を造る」とは無意味
   
   悪の存在を支えるものは悪にはない
   悪の存在は他の善によって支えられている
   
   その関係を見た時
   初めて悪が理解できる
   
   そして創造が理解される
   神は善なり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月24日 (日)

神の言葉を聴く

人の人生には、神の言葉を聴く時がある。それは神聖な時である。その時、人の人生は決定してしまう。そんな瞬間をカイロスという。カイロスにおいて、不服従を決断したとしても、やがて、多くの月日ののち、そのカイロスが再びやってくる。それは魂に刻まれた記憶のためである。最高の価値、生きがいを知ってしまった以上、それ以外の価値、生きがいでは、その人は生きられなくなってしまうのである。こうして、転職の多い人生、フリーターのような人生がやってくる。仕事についても、動機が失われる時、その人は転職せざるを得ない。そうさせるのは、無意識に刻まれた、カイロスにおける経験によるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分探しの方法

これはグループで行うこと。本人は、発見した自分を、必ず筆記すること。それをグループでまわし読みして、質問を当人に提供し、当人はそれに必ず答えること。その繰り返しの中で、当人の自分発見は深められていく。これは一種の精神療法だろうが、このような自覚の深化によらないでは治らない精神の病もあるのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英雄への憧れ

中学生のころ、私は英雄に憧れた。シーザー、アレキサンダー、ナポレオンといった人物の伝記に感動した。その中に日本人はいなかった。自分も、彼らのような不屈の精神を持ちたかった。自分の根本的な弱さの裏返しが、英雄への憧れになったかと思う。しかし、今、自分を不屈の人間になりたいとは思わない。時には屈することも必要だ、人間として弱さも必要だ、と思っている。一人だけ強い人間というのは、人間を抽象化している。人間関係の中で、一人の人ははじめて人になれるのだ。心は全体の生き生きした調和を求めている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

運動と静止

中世スコラ哲学の中で、運動の目的は静止ということが言われていた。ギリシャ哲学の延長上の思考だったと思う。中世哲学は神学と混ざっていたので、価値観が混入している。だから、静止は運動よりも上位の概念ということになる。しかし、その静止は、江戸時代のような身分制度で固定して、不満を許さないようなものではない。不安の解消を含む、ダイナミックな静止を意味しているのだろう。それは世界・宇宙との調和としての静止なのだ。その意味で、運動は静止に向かって動いている。ここでキリスト教の説教を考えれば、この静止を語ることでなければならない。運動者は、この静止に引き付けられるからである。その意味で、運動者であった賀川豊彦よりも、静止者であった内村鑑三の方が、影響は大きかったと言えるのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

非行少年の更生

非行少年の更生は、どうして可能か。非行少年の自己像を自分で検討する機会を提供するところから始めなければならない。そのためには、自分探しという課題を提供して、そのための問いを与えることである。このような訓練を集中的に行うこと、そこから自己像の歪みの是正と、あらたな人生の目標の設定が生まれてくるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分とは

自分とは、遺伝と環境によって形成されるものである。遺伝は過去のもの、環境は現在のもの。この過去と現在の調和を、自由意志で展開していくところに、自己形成が可能なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分探しの旅

人生は自分探しの旅なのかも知れない。毎日、いろいろな経験をするのは、その中で、自分探しのヒントを得るためなのかも知れない。自分探しというのは、自己認識が何かが分からなければ、不可能である。この自己認識は、そもそも生涯を通して不変なのだ。ただ、深化するのみである。この自己認識の深化が、イエスが、「父が完全であるように、あなたがたも完全になりなさい」という促しに対応するものである。それは人格の完成という言葉でも、表現される。自分とって一番の謎は、やはり自分なのだ。この謎解きは有益であり、また自分の関心を呼ぶ。さまざまな表現とは、自分探しの一つの手段でもある。この自分探しの旅の終わりは、見出した自分に満足して、静まることである。それは神の中での安息でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

病気

病気というものは、人間の一生の中で、なしにすますことの出来ないものである。いつかは病気になり、死を迎えることとなる。入院したり、通院していれば、自分の病気を知らされ、医師とのつきあいがなくなれば、自分は健康になったと思う。しかし、やっかいな病気があり、一生、薬を飲み続け続けねばならない場合もある。そこで思う。病気と一緒に生きていけばいい。克服できる病気であれば、克服した方がよい。克服できない病気であれば、病気と一緒に生きていけばよい。そこにもよさがある。「私は健康な人ではなく、病人を招くために来た」とイエスは言われた。病人は神に招かれているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月23日 (土)

靖国神社と宗教法人

戦後、靖国神社は一宗教法人となった。しかし、この神社の実態は国立の宗教施設のようである。戦死者の死後の存在を扱う以上、国家との結びつきはなくせるものではない。靖国神社が堂々と国民の意識の中に聳え立っていたころ、日本は一つの宗教国家であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

隣人は赤の他人

長らく都会生活を送っているが、そこでは、「隣人は赤の他人」という意識が濃厚である。隣にいる人に対して無関心なのである。都会にも、盆踊りやみこしなど、地域社会の交流を大切にする人たちもいる。しかし、その輪に入らない人たちもいる。共同体意識を育てようと試みる人もいるかも知れない。それは、あるいは靖国神社の祭神たちを中心にした国家意識のひろがりなのかも知れない。そんな輪の中の日本人にならなければならないのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

不幸

不幸というものは、自分が不幸と思った時から始まるものである。周囲の人々が、どれほど自分を不幸な人だと思っても、自分がそう思わない限り、自分にとっての不幸はない。人は、それぞれ思う。その思いの中を、われわれは生きていく。自分にとって首尾一貫していれば、それでいいのだ。それに、それ以外に道はない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月22日 (金)

パソコン胎動期

今から20年前、パソコンは一部のマニアの品物であった。しかし、その将来の有望さを展望して、いろいろなベンチャー企業がパソコン事業を立ち上げていた。そのいくつかに私も関わり、説明を受けたり、説明したりしていた。今「楽天」のような会社の説明を受けたこともあった。若い人たちが働いていた。もし、あの時からパソコンとの関係が続いていたら、別の人生があったであろう。自己とは、関係の中で成り立つものだ。キェルケゴールの「死に至る病」の冒頭にも、そんなことが書かれてあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

男の生きがい

男の生きがいというものは、専門分野で独創的な仕事をするということなのだろう。まず、専門分野の選定が必要である。それがなければ独創的仕事もない。しかし、中には、専門の限定を拒否されているような人たちがいる。意識の中で、専門の限定が人格の限定、人間の機械化・歯車化を意味しているように見えるのだろう。かわいそうな男たちである。時々、私も、その一人に思えてくる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月18日 (月)

障害者

   僕は一応は
   障害者ではない
   
   いや、そう思われていると
   勝手に思っているに過ぎない
   
   しかし、自動車の運転が出来ない
   英語がしゃべれない
   
   これはもう障害者のしるし
   ではないのかな
   
   できる、できないで判断したら
   障害者はいくらでもいる
   
   いる、ということで判断したら
   障害者は一人もいない

 みな、存在の正当な
 理由を持っているのだから

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明智光秀

司馬遼太郎著「国盗り物語」で、初めて明智光秀の背景を知った。光秀について、読みやすく、またこれほど詳細に書いた本を知らなかった。この本の、一つの特徴であろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海ゆかば

7月18日付の朝日新聞「時の墓碑銘」で、小池民男氏が「海ゆかば」について書いている。新保氏の本のほか、CD「海ゆかばのすべて」(キングレコード)も出ているという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月17日 (日)

ひらめきの研究

以前、著名な科学者が祈りの科学的研究の重要性を指摘した文章を読んだことがあった。今、ひらめきを研究している人がいる。ノーベル賞級の研究だという人もいる。大脳の働きに関心が集まっている。現代の先端的研究である。こういうことを考え、挑戦している人がいるということは、われわれ凡人にとっては励みでもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月16日 (土)

みな善人

司馬遼太郎は多くの歴史小説を残したが、その主人公はみな善人である。司馬さんには悪人は書けないのかも知れない。なぜ、善人なのか。それは思想と行動の理由が書かれていて、合理的だからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月15日 (金)

地獄

人間にとって、最も恐ろしいことは孤独である。なぜなら、人間は関係の中で生きるように造られているからである。その関係が遮断されること、それが孤独である。その孤独は絶対的な孤独を意味する。悪しき共同体にも、なにがしかの善はある。しかし、すべての共同体から疎外されること、それが絶対的孤独なのだ。この絶対的孤独のことを、別の言葉では地獄という。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

再統合

命とは一つの統合である。統合とは一つの関係である。関係は崩れることがある。その崩れた時が、ある意味での死の時である。それは、関係はなくなるのだが、要素としてはあり続ける。その要素が、また新しい関係を生むことがある。その時、新しい命が誕生する。その命が豊かな命に成長していくためには、その新しい関係としての統合が、かつての統合を広げた「再統合」でなければならないのである。こうして、命とは、常に「再統合」を目指していく。その再統合の種は神秘でありつつ、同時に合理的でなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月14日 (木)

人間を成長させるものは夢なのだと思う。夢とは将来に対する期待であり、現在の生きがいである。人間関係の中で、一人の夢が破れて、その結果、もう一人の夢が生まれる。一人の不幸が原因となって、もう一人の幸福が生まれる。しかし、夢破れた人に、なぜかと聞くが良い。新しい別の夢を見始めたからだと答えるだろう。不幸を選択した人に、なぜそれを選択したかを聞くが良い。これが私にとっては幸福なのだと答えるだろう。人は相対的な価値の中を生きている。その中で永遠の価値を見出すとき、人生に後退はなくなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月13日 (水)

諸刃の剣

進歩というものが諸刃の剣であることを、われわれは思い知らされている。現代の進歩は「IT」関連で著しい。しかし、「IT」関連が、一番、社会に害悪を流している。週刊誌のタイトルを見ても、日本社会が内部から崩壊しているのが、一目瞭然である。倫理観念の喪失は、社会瓦解の大きな原因である。週刊誌で、その一面を見せられている人にとって、日本社会に望みなしと映るのは当然ではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月12日 (火)

人間関係

会社に入社し、また退社する。誰にでもある。そこで、きっかけになるのは、人間関係である。あの人と一緒に仕事はできない、そう思った時、その人間を追放するか、自分が去るか、二つに一つだ。自分が去るという選択ができない時、相手を去らせなければならない。そこで「いじめ」が起きる。「いじめ」が体質的にできない人は、その人間関係を清算しなければならない。こうして、私は、これまでの人生で入社と退社を繰り返してきた。入社する時、退社を考えてはいない。しかし、新たな人間関係が生まれて、退社しなければならない時が来る。もし、その選択にやましさがなければ、それをよしとしなければならない。司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」に、伊之助という人物が登場する。もし、自分の人間関係に、伊之助がやってきたら、遠ざけるであろうし、一緒に仕事をしたいとは思わないであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人間の尊厳

人間は物体である。物体に尊厳があるのだろうか。尊厳は、人間の別の所にある。しかし、人間は物体という要素を捨てることはできない。どんなに高貴な人間でも、そうである。それは人間に謙遜を教えるため、また、人間への恐れをなくすためである。人間が怖いという人は、どんな人間でも、動物としての要素があるのだということ動物としての一面を考えてみればいいのだ。怖さは吹き飛んで、滑稽さが残るだろう。それでいいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月11日 (月)

「あがる」の克服

人の視線を浴びて、心が動揺することがある。役目を無事に果たせるだろうか、失敗するのではないだろうか、そんな不安で心臓の鼓動が速くなる。「あがる」という心理状態である。なぜ、あがるのか。それは、われわれの前に立ちはだかっているものが未知なるものだからだ。ということは、その未知なるものを詳細に知ればいいのだ。それが「あがる」心理に対する有効な対策ではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

靖国と小泉首相

靖国神社参拝で、小泉首相の態度はぶれなかった。この点は評価できる。ぶれるということが一番いけないことだ。しかし、今後、小泉首相は、この態度を貫くことが難しくなっている。それは小泉退陣を意味している。靖国で小泉退陣、それはありうることであり、小泉首相の選択はこれしかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月10日 (日)

差別社会

社会には役割に応じて、肩書きがある。その肩書きに応じて、差別意識もある。しかし、高い地位の人であっても、低い地位の人に対して、差別意識を持たない人もいる。差別意識は社会の問題なのか、それとも、個人の問題なのか、判別しない。しかし、差別社会は好きではない。中世が差別社会であれば、それは待望すべき社会ではない。機能としての区別はあってもいい。しかし、差別は人間の尊厳にかかわるのである。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月 9日 (土)

遺骨信仰

遺骨信仰という言葉を知ったのは、著書の中で山折哲雄氏が使っていたからだ。戦後、60年過ぎでも、戦地に遺骨を収集しようとしている日本人がいる。遺骨は、故人と関連があるが、個人とは、既に無関係とも言える。私は無関係に思う。だから、私は無宗教者としてみられるかも知れない。しかし、骨は物質である。骨は霊ではない。人は、まず霊である。人の本質は、霊であって、物質ではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月 7日 (木)

フリーターの言い訳

人が社会の中で生きていけば、次第に職業柄、専門化していく。それは社会の一つの歯車になることも意味している。そのことで自分も安定し、また社会も安定する。しかし、それによって、これで自分の人生も終わりだ、といった気分をもたらすこともある。安定した身分で、いつのまにか人生が終わっていた、そんなことに、どこかで、これでいいのか、といった声がしている。その声に反応してしまった人たちがフリーターと呼ばれているのかも知れない。フリーターは人生の探求者なのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サタンの実在

毎日、多くの迷惑メールを受け取っている。そこに、私は、サタンの実在を思わざるを得ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

私の仕事

日常で思いついた覚書を書いている。それは、生活、それもよい生活のためである。生活は、われわれにゆだねられている。それはわれわれの責任である。この責任を放棄することはできない。責任放棄は、すぐさま、われわれに跳ね返ってくる。生活の反省、方向づけ、価値の発見、それらが必要である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

貧の理想

貧は普通は理想ではない。しかし、理想の貧もある。日本人は、それを知っている。墓石に一字「無」をのみ刻んでいる小津監督の映画には、それが現れている。富を求めて病の淵をさまよう多くの人々の健康回復法は、貧の価値を知ることと、その実践であろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歴史認識

日本のよさを知り、それを守り、伝えていこう。日本人としての生き方は、それに尽きると思う。その点で、司馬遼太郎氏の小説には、多く教えられる。今、隣国から言われている歴史認識は、「日本は敗戦国だという自覚を持て」ということのようだ。それは自覚ではなくて、事実である。戦争した日本には反省する面も多い。しかし、人の行動は価値に向かって走るのである。「日本のよさ」という価値を明らかにすることは、亡国への傾斜を止める一番大きな歯止めなのだ。その意味では、これは真剣勝負である。この日本の価値を表現できなければ、日本は滅びていくばかりだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

遺産の管理

人は誰もが、何かを相続している。遺産ももらっている。自分の持っているものをもう一度、検討して、それらのよき管理者にならねばならないと、決意する必要がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ものたちの復讐

できるだけ少ないもので生活すること、それが幸福な生活である。多くのものを所有しつつ、管理をおろそかにすれば、必ず、それらのものたちから復讐を受けることになる。ものの管理のできない人には、そのものを所有する資格がない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

輪廻

ある会社に入社する。その会社の生命にとっては、新しい命の誕生である。そして退社する。その会社にとっては、命が失われたことを意味する。しかし、社員の生命は続く。人は、人生で、転職することがあるが、それは、生命の輪廻を考えるきっかけを提供しているようだ。突然、退社する場合は、事故などで、生命が突然、失われた時を考えればよい。しかし、退社まで、いくらか時間がある場合は、死病を経験している場合を連想すればよい。しかし、いずれにしても、退社は、新しい人生の展開の最初である。そのように、死もまた、新しい命の始めなのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月 3日 (日)

自意識の錯覚

自分が多くの人々の視線をあびていると思うと、足がすくむかも知れない。自意識は、どこまでも、自分中心である。しかし、人々の関心は、それほどには自分に注がれていないのだ。自分の存在を知らない人だってたくさんいる。いや、世界に目を注げば、そんな人の方が多い、。自分は、自意識ほどには、重要人物ではないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

流動的人間関係

社会というものは人間関係で形成されている。人間関係とは、人と人との出会いと別れである。それは流動的であり、固定していない。もちろん固定している人間関係もある。しかし、時の流れの中で、他人同士が出会い、そして別れていく。そんな無常観の視点も大切だ。社会は、さまざまな組織で形成されている。その組織は命令が上から下に伝わるように出来ている。その中で、上位にいる人の考え方と行動が、下位の人々や組織に影響を及ぼす。下位の自分は影響される立場でもあるが、同時に上位の人々に影響を与える立場にもなりうる。そんな社会に生きることで大切なのは、自分の動機の満足を法的合法性の中で社会に流していくことかも知れない。固定的な人間関係なんてないのである。人間関係は流動的である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月 2日 (土)

限界状況の発見

ヤスパースが、哲学の原点としての「限界状況」を発見したことは、哲学の原点としての、アリストテレスの「驚き」、デカルトの「懐疑」と同じくらい重要なことではなかったか。
「驚き」で古代・中世が、「懐疑」で近代が生まれ、そして「限界状況」で、現代が生まれたのではなかったか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月 1日 (金)

死ぬということ

   子供は、時々、大人の教師である
   その言葉に深く考えさせられることがある
   
   人が死に
   「火葬の時は、さぞ、熱いだろう」と言う
   
   その人は死体という形で
   なお継続していると思っている
   
   ここに、人の死の怖さの原因がある
   死体は、なお、その人なのだと思っているからだ
   
   死とは何かが
   よく分からなかった時は、誰にもあろう
   
   今もまだ
   よく分かっていない
   
   しかし、死体は、もう、その人ではないと思えば
   死体の不気味さもなくなるだろう
   
   肉体の中の生きていた理性魂が、その人自身
   死ぬとは、理性魂が肉体を離れること
   
   だから
   死体は、ただの物質に過ぎない
   
   理性魂の肉体分離が脳死なのだから
   脳死が人の死というのは、分かりやすい説明なのだ
   
   しかし、それでも、抜け殻を見て、
   それと結びついていたあの人のことを思うのであれば
   
   単なる物質でも、記憶を呼び起こす物質であれば
   それは、特別な物質と言えるかも知れない
   
   お骨は単なる物質なのだが
   よく考えれば、あの人だった時もある
   
   それでも、物は物、命は命
   この二つは別物なのだと思う
   
   物一元の唯物論者も、心一元の唯心論者も
   何か無理があるのではないだろうか
   
   しかし、人間には、同時に
   二元論にも耐えられないところがある
   
   二元論と一元論の止揚に真理が隠れているのだろう
   死をきっかけに、真理を求める心が芽生える

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年6月 | トップページ | 2005年8月 »