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2005年7月 1日 (金)

死ぬということ

   子供は、時々、大人の教師である
   その言葉に深く考えさせられることがある
   
   人が死に
   「火葬の時は、さぞ、熱いだろう」と言う
   
   その人は死体という形で
   なお継続していると思っている
   
   ここに、人の死の怖さの原因がある
   死体は、なお、その人なのだと思っているからだ
   
   死とは何かが
   よく分からなかった時は、誰にもあろう
   
   今もまだ
   よく分かっていない
   
   しかし、死体は、もう、その人ではないと思えば
   死体の不気味さもなくなるだろう
   
   肉体の中の生きていた理性魂が、その人自身
   死ぬとは、理性魂が肉体を離れること
   
   だから
   死体は、ただの物質に過ぎない
   
   理性魂の肉体分離が脳死なのだから
   脳死が人の死というのは、分かりやすい説明なのだ
   
   しかし、それでも、抜け殻を見て、
   それと結びついていたあの人のことを思うのであれば
   
   単なる物質でも、記憶を呼び起こす物質であれば
   それは、特別な物質と言えるかも知れない
   
   お骨は単なる物質なのだが
   よく考えれば、あの人だった時もある
   
   それでも、物は物、命は命
   この二つは別物なのだと思う
   
   物一元の唯物論者も、心一元の唯心論者も
   何か無理があるのではないだろうか
   
   しかし、人間には、同時に
   二元論にも耐えられないところがある
   
   二元論と一元論の止揚に真理が隠れているのだろう
   死をきっかけに、真理を求める心が芽生える

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