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2005年8月30日 (火)

自民党に期待

朝日新聞(8月30日付、15面)、根本清樹・編集委員の「政態拝見」の中に、こんな個所がある。21世紀臨調が26日に開いた「政権公約(マニフェスト)検証緊急大会」で、与謝野馨・自民党政調会長が、こんなことを言った、という。
「今回の党分裂と、候補者公募で、しがらみにとらわれない、合理的思考の人間がどんどん増えた」
「しがらみにとらわれない、合理的思考の人間」というくだりに共感を覚えた。一連の動きは、ある意味で当然の成り行きであり、自民党の判断・行動に問題はない。法の支配を尊重する合理的思考の出来る人をなお増やすために、自民党に期待したい。

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心と霊

心と霊人間という構成は、心と体と霊という三者なのだという話を聞いたことがある。しかし、心と体という二者という人もいる。私は、基本的には二者が正しいのではないかと思う。しかし、霊の要素を否定するのではない。ただ、霊は神であれば、神と人(被造物)を明確に区別するためには、霊を人の構成としない方がよいのではないかと思う。心は、科学の領域である。それは被造物だから、神の創造の秩序の中に置かれている。それを知るのが科学である。しかし、霊は、自由に吹く風のようなものであり、人はただ感じるだけである。その霊を宿すことが人には可能である。その扉が信仰である。人は、だから、神の霊を宿す被造物なのだ。霊は人ではない、神である。人が、その霊を宿すという点から、人という被造物の特殊性が生まれる。その特殊性の要素に自由があるのだろう。神の霊を宿す、あり方は、他の被造物とは根本的に異なっている。その神の霊との語り合いの中で、人は生きる。この内的関係が、人の存在にとって一番重要である。地獄としての孤独は、その人には、もうない。

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2005年8月29日 (月)

勝ち組の不幸

テレビで、人生の勝ち組になったと思われる人々の豪勢な住宅などが紹介される。しかし、幸福なのだろうか。戦後、物が不足して、水道から水が出るように、物を日本中に満ち溢れさせたいと願った人がいた。その通りになった。しかし、幸福になったのだろうか。戦後間もなく、何もなかったが、人々の顔は輝いていた。それは幸福な顔であった。今、そんな顔を余り見かけない。一般の人々の勝ち負けの基準とは違う、別の基準があるのかも知れない。イエスは「貧しいものは幸い」と言われたが、不思議な言葉である。司馬遼太郎さんは、モンゴルは天に近い、と含蓄に富む言葉を残した。人の幸不幸は持ち物によらないのである。しかし、そのことも多くの人は知らない。不幸と思われる境遇の中に、逆に幸福がありうるのである。

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2005年8月28日 (日)

単調な生活

カント、スピノザ、アミエルなど、外面的には、生活は単調であった。しかし、心は何かにとりつかれていたようだった。心が何かにとりつかれた人間は、外面的には単調な生活を好むのではないか。

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歴史小説

歴史小説を書くとは民族の自分史を書くということではないだろうか。それは民族を愛する人の仕事である。民族の経験を後世に伝えることは、民族の自己形成に大いに役立つし、こうして民族は発展していくのだろう。

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預言者

預言者は予言者ではないが、予言者的要素も必要である。未来社会に関心を持つことは、現在の生き方の転換をもたらすからである。預言者としても、予言者的要素があって、はじめて、同時代人に語る意味づけができるのではないか。

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甘えの構造

甘えは、人間関係から生まれるものである。甘やかす方は、相手の人格を本当の意味で尊重していない。甘える方は、自分の人格が真に尊重されていないことに、心の奥で感じている不調和に耐えられず、自分よりも優位に立つ甘やかす方に反乱を起こすことで、周囲に、自分のこうむっている問題点を指摘しようとする。それが甘えである。従って、甘やかす方が、相手の人格の独立性を正しく認め、その印象が相手に伝われば、甘えはなくなるであろう。孤独の中で、自分の実存の危機に瀕している魂は、誰にも頼ることができないのであるから、甘えなど起きるはずがない。甘えの問題は、必ず甘える相手の問題でもある。その相手の精神を入れ替えなければ解決しない問題でもある。

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神の声

神の声は、もちろん音声ではない。それは人の意志に接触する。良心とか、生きる動機に方向づけをする。人生の選択の決意を迫ってくるものである。

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2005年8月27日 (土)

わいろ

わいろは、なぜいけないのか。それは、私が公を破るという構造だからだ。公は、常に私に優先しなければならない。公を優先させても、私は存在するし、それが通常のあり方である。私が公に優先するのは、革命が求められている時だ。公の腐敗が回復できないほど進んでいる場合だ。公とは権力であるかも知れない。通常は、そうである。しかし、真の公は神である。私よりも公を大切にする心というのは、神を敬う精神である。

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鑑三さん

朝日新聞・2005年8月27日号の「e4」面に、シルビー・バルタンの写真が載っていた。懐かしい人物だ。その欄の文章の筆者が「斎藤鑑三」という。私は内村鑑三以外に、これまで、もう一人「鑑三」という人物がいることを知っている。これで二人目である。あるいは、以前の「鑑三」さんも、この人であったのかも知れないが。

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談合

談合
日本道路公団の談合汚職事件が報道されている。建設業者の全体の和を保持して、同時に業界の弱者救済的意味も考えられそうな談合が、どうしていけないのか。談合には社会主義的発想の正義があるように思えるのだが。また、それに税金が投じられるのだといっても、それらは労働者たちに渡るのだし、彼らの納税により、お金は再び国庫に戻るのではないか。
和が大切というのは、日本的メンタリティーであるし、それを言い出したのは、お札の肖像にもなった聖徳太子その人である。
古代エジプトのピラミッド建設計画には、自然災害で苦しむ人々の救済という一面があったという。そこには官民癒着といった社会構造はなかったが、民あるいは業界の救済という点では、似通ったものがあるようだ。それらは談合に対する怒りの原点ではないのである。
談合に対する怒りの本当の理由は公正さ、フェアプレーの精神が冒涜されたということである。ルールどおりに行われなかったということである。このことは、人間社会にあっては非常に重要なことである。社会が法の支配下にあることを思えば、小さなことでも、法を破ることは、社会に腐敗の種を撒いていることを意味する。資本主義が善で、社会主義が悪とは思わないが、資本主義体制化で行われる競技に、ルール違反があれば、すなわち不正があれば、誰でも、それを排除するであろう。
談合の真の問題点は、そのへんにあるように思われる。

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2005年8月24日 (水)

現代社会の脆弱さ

現代社会は、ITに代表される「つなぐ」社会であろう。携帯電話が普及して、孤独を駆逐しようとしているようだ。迷惑メールも毎日、届く。こんな社会で青少年犯罪が多発している。そして、それに対処する方法を知らない。社会問題に対処する方法を知らないというのは、改善を期待できないということであり、由々しきことである。実は、社会の趨勢の逆に、その解決があるのだ。「つなぐ」逆の「ほっとけ」である。それは孤独の修行である。不幸に見舞われ、あわてふためく、その取り乱しが、サタンのつけめだ。どこかで、悪しき者が笑っている。不幸などは「ほっとけ」である。それでいいのだ。孤独の中で、魂は本来の方向を見出すのである。社会が、孤独を尊重して、孤独というオアシスを保存しているならば、そこから社会を癒す流れは絶えないであろう。中世の修道院には、そんな役割があったのではないか。しかし、今、そんな修道院に代わる施設は何であろうか。

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2005年8月23日 (火)

学力

児童の学力が落ちているという。テストをして、教師たち大人は児童の学力向上の方法を探りたいらしい。さて、学力などは、言ってみれば、どうでもいいものである。個性の方が大切である。個性は、その人の生き方であり、本来的なあり方の問題である。児童は、自分の個性を発見するよう努めよ、と言いたい。学力が向上しても、生き方の分からない児童は、やがては挫折する。そこで学力以上に大切なものがあることを知るのである。人生観・世界観・価値観、それらは、知識の断片以上に大切なもの、貴重なものだ。それら、人間の基本が出来て、その上での学力であれば、もちろん、学力が高い方がよい。しかし、人間の基礎が出来ていない時、学力至上主義的な行き方は間違いであると言いたい。知識の蓄積が大切なのではない。大切なのは、それらの知識を用いて生きる、生き方の方である。恐らく、今の児童は、この生き方が分からないのだ。そこで、学力も低下しているのである。

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2005年8月21日 (日)

選挙の心得

衆議院選挙が行われる。誰に、どの党に票を入れたらいいのか。多数の政党があり、新党もすでに二つ生まれた。政党の責任ある選択は、恐らく二つに一つである。第一党か第二党に入れること、それ以外は意味がないと思う。現在の政治に賛成なら、第一党に入れる、反対なら第二党に入れる。それでいい。政権交替はあってもいい。しかし、交替して、現実が飛んでしまっては困る。少数政党の声は、民主主義の世かであるから、あってもいいが、少数政党には政権は担えないだろう。

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無神論国家

共産主義国家の中国は、当然、無神論国家であろう。しかし、キリスト教徒の数は多いのである。建前と現実は違う。日本の建前は神道と仏教の国かも知れないが、神道教徒とは普通、言わないし、名前だけの仏教徒も多いだろう。しかし、日本の文化の中には、神道と仏教の影響は広く、また大きい。それらを考えないでは、日本のキリスト教徒も自己認識が進まない。

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現教皇の使命

現ローマ教皇ベネディクト16世はドイツ人で、保守的信仰を守る教義学者でもある。教皇の母国ドイツはルターによるプロテスタント信仰発祥の地だ。であれば、であれば、現教皇はプロテスタントをよく知っているであろうし、その対話は深められ、新しい関係が生まれるのではないか。現教皇には、その使命があるのではないか。

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軍艦マーチ

最近、分かったのだが、軍艦マーチの中に、「海ゆかば」の古い曲が含まれている。信時の曲であれば、すぐ分かるが、それは古い曲であった。信時の曲のほうがずっと心引かれる。しかし、この構成には意味があると思う。対外的に攻撃の姿勢と、それを支える犠牲の精神が、これで完成する。さて、このような国家体制は、あるいは幕末の志士たちが描いたものだろうか、あるいは維新直後に主張されたものだろうか。日本という国、天皇という伝統、それらが真の神であれば、軍艦マーチは、それらに仕える最高の精神の表現であろう。しかし、神というものは、日本でも天皇でもない。神は見えないものだが、日本も天皇も見えるものである。ただ、日本、天皇のイデアを探ることには意味がある。それらは神の中にある永遠なものなのだから。

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2005年8月20日 (土)

大虐殺

アウシュビッツでもヒロシマでも大虐殺が行われた。20世紀の大虐殺だ。大虐殺といえば、イエス誕生の時にもあったという。こちらは1世紀の大虐殺。これらは無関係なのだろうか。何か、新しい時代を切り開く要素が生まれたことを嫌って、20世紀の大虐殺が起こったと想像できないだろうか。しかし、その要素は生き延びた。では、その要素は、どこにいるのだろうか。そう、20世紀のイエスは、どこにいるのだろうか。

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孤独

人間にとって孤独は大切な環境である。孤独な魂に神が語りかけられるからだ。孤独は、被造物との一体化から離れることを教えてくれる。それは人生の達人への道でもある。座禅は孤独の修行であり、神の言葉を聴く条件作りである。孤独の修行を積み重ねる人で善良になり、その社会もよくなる。

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2005年8月19日 (金)

諸行無常

お釈迦様は、諸行無常と、われわれに教えられた。小泉首相によって、自民党は、今、誰も予想できなかったくらいに様変わりを始めている。この政治劇で、日本人は今、諸行無常を教えられている。そのきっかけを作った小泉首相もまた、優れた仏弟子と言えるのではないだろうか。人は、そして組織は安定を求める。しかし、人間関係の中で、変化への志向を余儀なくされる場合もある。その時には、自らの言動を美しいものにしよう。変化は注目されるのだから。美しい言動は、それに触れる人々の心に健全さをもたらす薬なのだから。

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2005年8月18日 (木)

余生

僕の余生は16歳の時から始まった。16歳までは人間の人生であり、まさしく僕の人生であった。しかし、16歳の時、僕は、僕の人生のピリオドを打たされた。あえて、打たされたと言いたい。僕は別の人間になった。僕の体と心を使って、別の人格が活動を始めた。僕が僕でなくなることがしゃくだった。少し文句を言った。その不服従の答えは長い間かかって、やってきた。もう人生が終わりそうなくらい長い期間かけて、答えがやってきた。16歳以降、人生の目的の設定ができないことが、僕の中にそんな文句が生まれた原因かも知れない。しかし、余生でも、人生の目的を設定できるのだ。生きている限り、人生の目的はある。無限を目指していれば、目的がなくなることはないのだから。生きる中で、目的の設定というのは、生きがいを生み出す原因であり、誰でも注意して、生ある限り、生の目的設定の管理をしなくてはいけないのである。

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神になる

信長は晩年、自分を神のごとく、みせた。キリシタン宣教師たちとの接触の中から、何かを学んだのかも知れない。それは支配の手段であったのだろう。しかし、「神のようになる」というのは、人生の最高の目的なのである。もちろん人間は神になれるわけはない。しかし、神のようになることが、人生の目的なのだ。

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自然治癒力

病気というのは、生体の調和が破れることである。癒し・治癒というのは、その調和が回復されることである。自然治癒力という言葉がある。その力が働くためには、人間の側で完全受動にならなくてはならぬ。完全受動の姿勢をとる時、人間の自然本性が動き出して、それが神と触れ合うのである。それが自然治癒の過程なのだ。自然治癒は広い意味では神癒と言えるであろう。

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神の愛

神の愛とは、自ら対象を選択する愛ではなくして、泉のように溢れ出る愛である。それは、自らにおいて何かが不足しているかのように、対象を選択して完成に至ろうとするような愛ではない。神は完全だからである。その愛が存在である。従って、神の愛とは、存在を付与するような作用である。この愛は、受けようと思えば、誰でも受けられるものである。なぜなら、その愛は対象を選択する愛ではないから。だから、受けられないのは、愛に原因があるのではなくして、対象に原因があるのだ。対象が、その愛を受けられるように自らを無にしていないからである。

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靖国神社

靖国神社に行った。坂を上り、大きな鳥居をくぐると、一人の武士の立像があった。大村益次郎である。幕末、官軍を勝利に導いた指導者である。この立像がすべてを物語っているようであった。靖国神社は、明治からの敗戦までの近代日本の象徴的な神社である。現代は近代ではない。近代は敗戦で終わった。その時、靖国神社の大きな使命は終わった。日本の歩んできた歴史の中で、こんな時もあったのだということで、靖国神社があってもいい。その時代の遺品があってもいい。しかし、憲法が、日本の安全と生存を保持するために、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」する、としているように、軸足が、日本という国の神的起源から、世界へと変わってきているのだ。この軸足転換がベースにある以上、靖国神社が、今、いくら近代日本の役割を果たそうと願っても、それは出来ない。昔の日本は、こうだったのだ、という回想の時を持とうとする時、この神社は大いに助けにはなる。

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自己愛

愛とはすべて自己愛である。実存の危機にある魂が、他者を愛することができるであろうか。地獄にまさに落ちんとしている魂は、自己の関心で精一杯なはずだ。他者を愛する余裕はない。愛はすべて自己愛であり、他者愛といっても、゛自己愛のバリエーションに過ぎない。他者愛とは、自己にないものを他者が持っているため、他者に接近して、それを奪うというのが目的である。それは自己の完成を目指している。自己の完成、それは神を目指している。その意味では、自己愛は神への愛でもあるのだ。

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隣国との関係

日本軍の戦時下での行動が隣国から問われて、現在も裁判が起こされている。反日運動も多く、大きいものかある。なぜか。敗戦直後のゼロの日本に対して賠償を求めて裁判を起こしたり、反日運動を起こす国があるだろうか。日本が、それだけ実力を持っているということが背景になければ、それらの運動は起きない。反省しろ、謝罪しろ、など、いろいろと言うが、逆に見れば、日本は、それだけ頼りにされているのである。そういう目で、隣国の運動を見ればいい。

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2005年8月16日 (火)

生きがい

人が生きていくには、生きがいが必要である。生活のどんなところで、生きがいを感じるのだろうか。まず、人生の目標を設定する。その目標を実現するには、どうすればいいかを考える。そこで発見した方法を、生活の中で実践する。その方法の正しさが証明される。そんな時、人は生きがいを感じるのではないだろうか。

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シュプレヒコール

終戦記念後の翌日、東京駅八重洲口前の通りを、在日中国人たちが自分らの権利を主張して、のぼりを持ち、シュプレヒコールを叫びながら、行進していった。のぼりの日本語は理解できたが、中国語のシュプレヒコールは理解できなかった。あの昭和40年代の学園紛争の時にも、デモの中で、多くのシュプレヒコールが聞かれた。このシュプレヒコールの形式に注目した音楽家がいた。彼は、私が長年、勤務した会社の創立者であった牧師の長男であった。これは、彼の中では着想に終わったのかも知れない。しかし、デモにしろ、座り込みにしろ、シュプレヒコールにしろ、すべて祈りのバリエーションではないだろうか。中国、韓国の反日運動の人たちも、あんな形で、祈っているのではないのだろうか。暴力とか、違法性とか、そんな視点のみでなく、祈りとして見たらどうなのだろうか。迷惑な祈りであるが、その視点がないと、対話できないし、解決もないだろう。それにしても、中国で、反日のプラカードを持つことも規制されているようだが、日本にいると、それもまたやりすぎに思えるのである。

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求道者の群れ

世界は求道者たちで満ちている。なぜか。人間が最も強く求めているのが愛であるからだ。そして、神は愛である。であれば、人間は誰もが神を求めているのだ。すなわち、世界に求道者たちが満ちているのだ。

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2005年8月15日 (月)

「ジュピター」神学

平原綾香の歌う「ジュピター」に、こんな個所がある。
「愛を学ぶために孤独があるなら
意味のないことなど起こりはしない」
この解釈である。
「愛」は神である。「孤独」は試練である。あるいは地獄の前味とでも言おうか。地獄とは絶対の孤独の別の名称である。「意味のないことなど起こりはしない」とは、人生に起きることは、みな目的を持っているということ。その正しい目的を知ることができれば、それは神を知ることにつながるし、また本当の自分も知ることができる。それは愛の中に生きるということである。

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聖母マリアの夢

私は子供のころ、聖母マリアの夢を見たことがある。その女性が聖母マリアであると、その時に判断したのではない。その人が女性であったことは確実なのだが、自分で聖母と名乗ったのではなく、聖母マリアと断定できるか、いくらかためらいが残る。
昔、私の実家には、敷地内にお稲荷さんの小さな祠があった。そのかたわらで遊んでいた5、6人の子供たちの前に、一人の女性が現れた。私は、他の子供たちの後ろに隠れていた。その時、その女性は、私を招いたのである。私は少しずつ、前に進んでいった。そこで夢からさめた。その女性は、今から思うと、聖母マリアのようであった。しかし、当時、私はカトリック信者ではなかったし、その女性を聖母マリアと結びつける理由を何一つ持っていなかった。この夢は何を意味しているのか分からないのだが、ある意味では、召命を示唆しているのだろうか。その後、私は召命を感じたことがあった。その時、私は預言者ヨナのような不服従を決断してしまった。17歳の夏の出来事であった。この内心の密かな出来事は、私の人生に大きな害をもたらすこととなったが、それはまた別の物語である。

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1日の意義

1日が始まる。どんな思いで、1日を過ごすのか。この日は、永遠に帰らない、永遠に戻らない1日なのだ。そう思うと、絶対に代替できない貴重な1日ということが分かる。

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戦争の回想

第二次世界大戦で記憶されるべきは、アウシュビッツとヒロシマかも知れない。アウシュビッツを契機にして、ユダヤ民族は新しい歩みを始めた。その犠牲から生まれたイスラエルという国は消滅させてはならない。アウシュビッツはユダヤ民族の歴史の中で未曾有のことであった。では、ヒロシマはどうか。ヒロシマの原爆体験というものは、確かに日本の歴史の中で忘れることのできないものだが、それだけなのか。日本史の中だけでなく、人類史の中でも記憶されるべきものではないのか。なぜ、ユダヤ民族と日本民族が、先の大戦で、これほどの苦難を経験したのか。これまでの歴史を閉じて、新しい歴史を始めるためだったのかも知れない。(ヒロシマは世界平和の聖地になるだろう。靖国参拝が、どんなに議論されても、ヒロシマがある限り、日本軍国主義の復活はないであろう。)この二つの体験は、イエスの終末預言に呼応しているのではないか。なお、未来に終末を待望すべきなのだろうか。

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2005年8月14日 (日)

死者たち

人が死ぬ。慰霊を行う。見えなくなった死者たちは、どこかで、なんらかの形で生きているのだろうか。それを前提にしないで、慰霊をどう説明できるのか。そのような、慰霊される死者たちは途上にあるのであるから、自らの力で存在しているものではない。だから、神ではない。しかし、日本では、神と呼ばれる。そこに、誤解が生まれる。靖国参拝は戦争犠牲者たちの慰霊のためであろう。しかし、神という言葉が使われているので、その参拝から、拝むという行為が連想され、祭神となった死者たちから何らかの力を受けるという発想が生まれるのだろうか。A級戦犯が神となっていて、彼らがなおなんらかの形で存在していれば、参拝を通して仇討ちの力を与えるであろうし、参拝行為は、その誓いかも知れない。隣国があわてるのも無理のないところである。

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反日運動

韓国や中国で起きている反日運動を思う時、まだ日本という国に動かされているのか、という思いがする。日本では、反中運動とか、反韓運動というのは起きていないし、今後も起きる理由がない。それらの国に、それだけ関心がないのかも知れない。反日運動の中に日本軍国主義という言葉もあったが、今の日本に軍国主義などはない。戦前の日本に対する反日運動であれば、私とても大いに共感するし、デモに参加したいところだ。しかし、動かされるということは、その原因・目標の方が、存在としては重いのではないか。日本は、米国に、戦時中の米国の行動に抗議して、反米運動をしたことはない。その意味では、日本は米国に動かされている国ではないし、割合、重い国であるのかも知れない。

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悪の奴隷

人の魂の深い所に深刻な空洞がある。その空洞を埋めるために、良心の声に逆らって、快楽に身をゆだねる誘惑を感じる。その誘惑に勝てるであろうか。私は勝てないと思う。ここで、自分の思いを、すべての人に広げる。そして、人は悪の奴隷なのだと思う。自分の隣人を見る時、そこに悪の奴隷を見る。奴隷たちの言動、そこに、その人の隠された本心を探らなければならない。

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自由の保障

米国のブッシュ氏が大統領就任式で、「リバティ」(自由)という言葉を使ったという。この「リバティ」という言葉は、神が保障するものとして使われている。そんな印象を持たれている。神が自由を保障する。本当にそうなのだろうか。少し違うのではないか。自由は悪の原因である。自由があるから悪がある。だから悪を保障するのが自由である。すなわち、自由を保障するというのは、悪を保障するということである。と言うことは、神が自由を保障するということは、神が悪を保障するということになり、はなはだ都合が悪くなるのではないか。神を悪の原因にしてしまうからである。そうではない。神は自由を保障しているのではない。神は新しき世界の創造を保障しているのである。神は自由を保障しているのではない。米国の大統領は、とんでもない思い違いをしているのだ。

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ストレス人間

世の中には、日常的に周囲にストレスを発散させている困った人間たちがいる。周囲の人々は、そんな人間に対して柔軟に対応せざるを得ない。しかし、そんなストレス人間の環境から逃れられないことで、自分の主張を展開する時に、時に、同様な強烈なストレスを発散を展開する人もいる。それは、追い詰められた、その人の一つの表現なのかも知れない。しかし、それは異常に見えるし、精神異常と周囲は見る可能性もある。入院して、薬物療法を受ける。ストレスとは何か。きちんと、理性に納得いくように説明しないで、自分の主張を有無を言わせない形で、展開する時、周囲はストレスを感じる。ストレス発散人間は公害を撒き散らしているようなものだ。彼らは、精神障害者の増加に責任はないのだろうか。

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天皇機関説

昔、天皇機関説という学説があった。機関、機能という面で天皇の役割を考えようというものだ。大切な視点と思う。このような考え方は、決して新しいものではない。昔、中世、イタリアの詩人ダンテは、教皇の中にも、地獄(あるいは錬獄)に落ちたものがいるといった主張を、「神曲」の中で書いている、という。これは教皇の機関、機能について言及しているのではない。その個人の徳についての判断なのだ。これなど、天皇機関説の中世版と言えるのではないか。もっと遡れば、アウグスチヌスに中にもある。彼は、背徳の司祭にも、司祭である以上、その機能の役割を是認し、これで論争した。われわれは、個人であると同時に社会人である。社会人である以上、社会での機関であり、機能が求められている。個人を、尊敬とか軽蔑とかいった視点ではなく、機能主義に徹して考えることも大切なことである。

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悪の原因

世界に、そして人生に悪がある。今もある。その悪のため、神に対する疑いが起きる。善である神が、どうして悪をもたらすのか。なぜ悪があるのか。悪の原因は自由である。自由から悪が起きてくる。今の日本は、性風俗の解禁のような様相を呈している。それらは昔の人にとっては、悪であった。今でも、別の国では悪である。それらは自由の名の下で現れているのだ。悪をなくすには、自由をなくせばよい。しかし、自由をなくすことができるか。自由がなくなれば、人間として生きていけなくなるのではないか。逆に言えば、悪があるから自由があるのだ。悪というものは、まだ自由がある、という証拠でもある。世界に、そして人生に悪を認める時、「ああ、自由は健在なり」と思うべきなのである。そして、自由を享受できるのは人間のみと思うべきなのだ。

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2005年8月13日 (土)

人間宣言

われわれは、天皇の人間宣言のあとの時代の人間である。あの宣言前には、日本には「天皇は現人神」という考え、あるいは、そんな信仰があった。そんな時代に身を置けば、「海ゆかば」の歌詞が表す精神も理解できるであろう。それは最高の犠牲的精神であり、宗教の世界では殉教者として天国を約束されるものだ。しかし、あの人間宣言後の日本では、「海ゆかば」も、遠い昔の、おとぎ話の世界のことを語っているような感じがする。ところで、現人神の信仰を依然、公然と保持している人たちがいる。それは天皇信仰のことではなく、キリスト教信仰のことである。世界人口の6人に1人はカトリック信徒であるが、彼らにとってイエスは今でも現人神である。イエスは死んだが、復活したというのだから、現人神なので、ただ、見えないだけのことである。しかし、この信徒たちには、戦前の日本のような雰囲気はない。戦前の日本の雰囲気を今、世界に探すとすれば、北朝鮮に、それが見られるような気がする。きっと、戦前の日本人のような純粋な人たちなのだろう、愛すべき人たちなのだろう。

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2005年8月12日 (金)

救いの原点

宗教は、どれも救済をテーマにしていると思う。この中心をはずしては、宗教が単なるアクセサリーになってしまう。キリスト教の場合、その救済は、現在では、聖霊降臨の体験の継承である。その体験をもたらすきっかけが信仰なのである。それはただ頼るという意味である。神に頼る、それを信仰という。その信仰が神の体験に人を導く。これが原点である。宗教の、あるいはキリスト教の伸び悩みというものは、この原点に固執しないからである。

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有能と無能

人は、すべてに有能であることを求められてはいない。無能であることも、許されている。能力というものは、その人の抱く夢・希望の中で開花していくものだ。夢・希望がない時、その環境の中で、人は有能にはなれない。有能を支えているのは、その夢・希望なのである。夢・希望のない環境の中で、自分の無能を受け入れることもまた、人生の楽しみである。

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無常の世界

色即是空・空即是色は、無常の世界を洞察した仏教の言葉である。そこには感情が込められているのだが、その感情の原因には触れられていない。このような相対世界の変化は西洋思想も知っている。プラトンのイデア論は、相対世界の変化を捉えつつ、それを無変化のイデアとの関係の中で解釈している。このイデアは、変化する存在の原点であり、それ自身、恒常的なものである。従って、これは神でなくてはならない。中世キリスト教思想家たちは、プラトンのイデアを、現実世界とは別の理想世界とはしないで、神の中に移しいれたのである。無常はすぐれて仏教思想と思われ、西洋にはないと考えられているかもしれないが、プラトンのイデア論の中に、現実的・相対世界がうつろいやすいものであるという洞察があると言える。感情的表現はなくとも、プラトンもまた無情を知っていたのである。

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日本の創造

CD「海ゆかば」を購入した。やはり名曲だと思った。戦争、玉砕と結びつく、この曲を嫌う人もいるという。しかし、この曲を含めて、戦後日本の選択を、もう一度、再検討する時期が来ている。「軍艦」「愛国行進曲」「海ゆかば」、それらは、かつて破滅に向かう日本のマーチであり、葬送曲であった。しかし、それらの中に、日本民族のかたちが隠されているのではないか。それらのかたちを失う時、日本民族は恐らく自己形成ができなくなるに違いない。それが戦後日本の隠された大きな問題なのだ。実質として天皇中心、皇室中心の日本国形成が、これらの歌を歌うことで主張されているとしたら、戦後は歌うことはできないだろう。しかし、天皇の代わりに「神」を置いたらどうか。天皇も戦前は現人神であったが、敗戦後、自ら、それを否定した。しかし、人間にとって、民族にとって、神は必要なのである。天皇中心でなく、神中心の歌として、それらの「軍歌」を「みなして」いく時、そこに日本の創造の原点があるような気がする。「武士道に接木されたキリスト教」が、今も、新渡戸稲造の「武士道」で注目されている時、「日本軍国主義に接木されたキリスト教」があっても、いいのではないか。日本は、ここまで成長したのだから、普遍性の主張もしなくてはいけない。キリスト教は普遍的宗教であり、世界全体に通用するのである。

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人間の尊厳

人間の尊厳とは何であろうか。パスカルは「人間は考える葦」といった。またデカルトは「我思う。故に我あり」といった。「考える」とか思惟というものが、そこで語られている。アウグスチヌスは「神が人間を神の像と似姿にしたがって創ったというのは、人間の思惟のことである。神の像であるのは、人間の思惟にほかならない」(アウグスチヌス「信仰と信条論」1・2、ジルソン「中世哲学の精神」下、19頁)ともいっている。人間の他の動物と違うところは、思惟能力である。であれば、思惟は人間の本質ともいえる。ということは思惟を失った人間は人間の本質を失っているということかも知れない。脳死が人の死という論拠は、ここにあるのだろうか。では、思惟とは何であろうか。思惟には対象が必要である。対象は外界のことであり、感覚で捉えられるものだ。ここに科学的思惟の前提がある。しかし、思惟の対象は外界にとどまらない。われわれの心の中で日々刻々行われている変化もまた対象となりうるものだ。その因果関係を理解することは難しい。あるいは理解できないのかも知れない。しかし、この消息は、いろいろな人によって既に多く語られている。それらを頼りに、対話を進めていくことで、あるいは、遅々としてではあっても、人間の心の内側の理解が進むかも知れない。そのような自己探求の姿勢が必要である。宗教と、その問いに応えるものであり、逆に宗教と信徒に、そのような問いを促すものでなくてはならないのではないだろうか。

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2005年8月11日 (木)

小泉内閣支持

以前、行政書士の受験のための勉強をしていたころ、小選挙区制度に関心が集まっていた。今の、「郵政解散」に続く衆院選挙は、政権与党が仕掛けたものとは言え、小選挙区の選挙という様相が強い。有権者としては、二者択一の限られた選択肢の中から選ぶというもので、投票もしやすいのではないか。首相の解散時の記者会見で、共感を覚えた国民も多いのではないだろうか。「官から民へ」「小さな政府」、それらはどうしていけないのか。そのあとの、全選挙区で対立候補を立てるというやり方は当然のことであり、今の自民党執行部のやり方は、実に分かりやすい。これでは不利ということで、小泉内閣の全体を問うという形に持っていこうと野党は画策しているが、それは全体の雰囲気に押されて、いさか無理だろう。選挙は、論点を絞り、国民の意思を問うという形になっている。これからの選挙は、このようにして、限られた論点を国民に聞くという、まさに小選挙区制度の選挙に移行していくのだろう。選挙で、小泉内閣は再び圧倒的に支持されるような気がしている。

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2005年8月10日 (水)

考える

    小学校卒業の時、記念の「しおり」に
   「考える」とだけ書いた
   
   パスカルの「考える葦」を思い出し
   人間にとって一番大切なものと思った
   
   大学では哲学科に入った
   何ものか分からぬ自分の理解を求めて
   
   求道心がキャンパスをうろついていた時
   学園紛争が起きた
   
   戦争で失われていく命を見た学生たちが
   心に学ぶ余裕を失ってしまった
   
   「考える」ことよりも大切なものがある
   それは「救われること」だ
   
   学生たちは
   そう叫んでいるようだった
   
   「哲学は信仰の侍女」ともいう
   ヨーロッパ中世に生きた大学者の言葉だ

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2005年8月 9日 (火)

人生の目標

   死してのち、やむ
   ただ前進あるのみ
   
   そんな目標が見つかれば
   人生はどんなに楽だろう
   
   そんな目標を見出していながら
   それに向かって進まないなら
   
   人生は容易に
   崩壊するだろう
   
   良心に逆らって
   人は生きることができないから
   
   目標とは愛の宣伝なのかも知れない
   いや、愛は悲愛だという神父もいる
   
   愛には悲しみがつきもの
   悲劇が起きて、犠牲もある
   
   悲しみの眼差しを知る時
   人は生きることも知る
   
   最近は仏教学者にも
   熱烈な宣教者が多い

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2005年8月 8日 (月)

中世の性格

中世とは王権神授説でイメージされるものかも知れない。それと中世の存在論との関係はどうなっているのだろうか。無関係でないようにも見えるが、であれば存在論は王権神授説を支持するのだろうか。ローマ皇帝がキリスト教徒となり世俗権力とキリスト教が結びついた。コンスタンティヌス体制という。新しき中世はそんな体制への回帰を意味しない。コンスタンティヌス体制は古き中世である。新しき中世は古き中世と近代との止揚である。

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2005年8月 7日 (日)

hitomiさん

hitomiという女性の歌手がいる。高橋尚子さんがオリンピックのマラソン競技直前に、その曲を聞いていたということで広く知られるようになったが、私も、それがきっかけで聞くようになった。歌詞に興味をもった。hitomiさんは、あるいは実存思想家ではないかと、思った。味わい深い歌詞が多いのである。

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新しき中世

第二次世界大戦が終わったころ、「新しき中世」という言葉が現れた。その後、世紀末に、日本でも、この言葉を使う人たちが現れた。中世は、人々の関心が神に向いていた。それを引き継いだ近世は、人間に関心の的が移った時代であった。近世の原理が、あの大戦で崩壊した。その判断の中で、人間中心的価値観から、もう一度神中心的価値観への移行を考えた人たちがいた。今の日本で、人々は、人間の困難な問いのために、神に問うことをしない。だから、そこに解決はない。勇気をもって神に問えばよい。その思いから、中世的原理の導入を提唱したい。

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罪の告白

高校を卒業した年のイースター、私は洗礼を受けた。その準備で、牧師は、罪の告白をせよ、と命じた。私は、数年前、ただ心の中で生じた「神に心を閉ざす」という罪を思い出して、牧師の前で声を出して許しを求めた。しかし、その罪は、その行為で消滅したのではなくして、洗礼を受けたあと、私の心に影響を及ぼした。今でも、あれは罪であったと思っているが、その解決のために、私はほぼ一生を費やしてしまった。私の罪とは、神に、神の創造したこの世に悪があることの責任を追及したことであった。この解決は、私にとっては、中世思想の中にあった。つまり、神は存在を、被造物に付与するのであるから、悪の創造者ではないということである。悪とは存在の欠如なのだ。神は存在の付与者であれば、悪を創造するとか、悪の原因ということはありえないことなのだ。私の罪は、その後間もなく起きた学園紛争の時、ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の中に同じテーマを見出したが、そこでは、イワン・カラマーゾフの論理が、それに相当した。しかし、イワンの論理をドストエフスキーは効果的に反論しているだろうか。イワンの問いへの反論と解決は、私にとっては、「悪は存在の欠如であり、従って、存在の付与者としての神に悪の原因を押し付けることはできない」というものであった。これはアウグスチヌスの思想にもあるもので、中世思想独自のものとは言えないが、中世思想の存在論の中では、よく知られたものであった。私は、十代で犯した罪からの解放を、こうして中世思想に見出したのであり、その意味で、「新しき中世」は、私にとって、生涯のキーワードなのである。

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自由と自立

自由な環境の中で、人は自立を考える。しかし、自由な環境で依存感情を活発にさせる人たちもいる。彼らは、行動に一貫性がなく、自分の問題を他人の責任にしたがる。自分が何に支えられているかを考えようともしない。自由が自立を促す人は正常であろう。しかし、自由が身の破滅になる人たちもいる。自由もまた諸刃の剣である。

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2005年8月 6日 (土)

契約の条件

ある人にマンションの一室を2年契約で貸した。契約終了前に、家賃の滞納が始まった。そのため、家賃が全部支払い終わるまでは更新はしないと仲介業者に伝えた。2年の契約が終わったが、滞納分は残り、当然、更新の手続きをしなかった。先方は更新を望んでいたが、契約書は存在しない。仲介業者は、「法定更新」という契約が成立しているという。しかし契約は当事者同士の合意で成立するものではないか。一方が拒否していても、契約は成立するのか。私は、契約の条件を考えて、賃貸借契約は、もう成立していないと言ったが、「法定更新」という契約が成立しているというばかりで、当方の主張の意味が分かっていない。契約の条件に違反しても成立する契約というものが、私には分からない。

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精神科医療

精神科医療は薬物医療だけでは効果がない。それといかに生きるか、また人生の目標などの問題、生活習慣、周囲の人間関係など、人間の全体に対する目配りが必要なのだ。人間が病むというのは兆候が現れることで知られるが、癒しというものは、人間の全体でなければならない。精神科医療には、特に、その視点が求められている。

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わが影武者

私にいつのころか影武者ができた。時々、メールで、その正体をあらわす。同じアドレス(影武者のアドレスはVEM15720@nifty.com)なので、最初はびっくりした。影武者は、どちらかと言えばジキル君的存在である。その足跡の結果は多くの迷惑メールの到来である。同じアドレスに棲息している影武者は私の分身を装っているのだろうが、幸いにも我がハイド氏は今のところ影武者の活躍する出会い系サイトには興味も関心ももっていない。

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断定する人たち

世の中には、何かと断定したがる人たちがいる。彼らは、対話を求めているのではなくて、命令したがっている。その断定に触れて、こちらも精神の硬直化を感じる。そこには人間関係を壊す力が働いている。悪くすると、精神障害者を生み出してしまう。しかし、当人に、その自覚はない。

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現代日本の美学

小泉首相は、靖国神社で参拝しつつ、特攻隊で戦死した諸霊に魅せられているのかも知れない。その美学が、今、日本の政治という劇場で、小泉首相によって演じられているような気がする。まもなく、明らかとなる。郵政民営化法案は、もう中身の問題というよりも、美学の問題である。法案成立に、特攻隊の美学はない。その美学は散るように命じている。靖国神社に祭られている特攻隊の諸霊は、小泉首相に、そう命じているのではないか。それは、日本の精神を全世界に示す、よい機会でもある。

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2005年8月 5日 (金)

言葉

人の口から出る言葉の中には、人を傷つけるものがある。その言葉を受けた者は、免疫ができていない時には、心に傷を受けるであろう。その傷が、やがて、精神障害を生むかも知れない。ちょっとした言葉遣いが、人間関係をずたずたにして、時には事件を生むきっかけになる。言葉が、どんなに人を傷つけるか、当人は知らない。

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2005年8月 4日 (木)

自分を信じる

「ジュピター」の中で歌手平原綾香は、こう歌っている。
「夢を失うよりも悲しいことは、自分を信じてあげられないこと」
夢は人生にとって不可欠である。しかし、個々の夢は失ってもいい。その夢を見る主体があればいい。その夢見る主体、それは私自身なのだが、それを信じられなくなった時、それは全くの悲劇だ。しかし、その悲劇はありうる。私自身が、永遠なるものの中に基礎づけられていない時、私を信じることができようか。自分を信じるということは、夢見る主体を信じるということは、永遠を信じるということによってのみ可能なのだ。それは願望でもなく、理論でもなく、現実的な何かでなくてはならない。

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信仰とは

信仰とは、存在そのものへの肯定応答であり、それにより存在そのものから存在をいただくことである。罪とは、存在そのものへの否定応答であり、それにより、自らの存在を失うことである。

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不滅なる希望

人は神に希望をつなぐかぎり、生きていけるものだ。なぜなら、その希望は、神が不滅であるように、なくならないからである。神以外のものに寄りかかりすぎる時、その人は、そのものの可変性に身をゆだねることになる。これは危険なことだ。

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生きるための条件

神は人生の目的・目標である。人生の目的・目標である神を否定しつつも、なお、人は人生の目的・目標なしには一時も生きることができない。であれば、神の否定とは、神への誤解を意味する。罪とは、この神への誤解に基づく決断である。この誤解を正す作業なしには、罪ある魂は正常に向かわないであろう。

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私は病気?

自分は健康だと言う人がいる。しかし、どう生きるか(死ぬか)を考えない人、対人関係でトラブルばかり起こしている人は、どう見ても、健康とは言えないだろう。自分では個性と思っていても、れっきとした精神障害と分類されている場合もある。

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2005年8月 1日 (月)

西洋の無常観

無常観は仏教思想であり日本人にはなじみ深い。この思想のために人間関係がどれほど円滑に進んだかその効果は大きいと思う。しかし無常観は西洋思想にもある。中世キリスト教思想の中にもそれが表現されている。それは感情としての表現ではなく知性とか論理による説明である。無常観は人間の意識の深みに届く感情であり実存意識をもたらす。この無常観はただ魂が永遠に触れる時、その時のみ克服される。その意味では無常観は神を求めている。仏教もまた永遠なる神への憧憬を知っているのだ。

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無常観と諦観

日本人の意識の深層には無常観と諦観があるのかもしれない。しかしそれらは恐らく日本人の意識の中では癒やされていないのである。その証拠に常にやりきれない思いと共に無常観が立ち上ってくるからだ。実存と超越によってしかそれらは癒やされないものだ。

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無常観の発生場所

人間の構成要素をA、B、Cに分ける。Aは人間は人間であり、猿ではないという基本的部分。Bは道徳的な能力、CはAに付加される超自然的な恵み。その時、AもCも複合ではないので、善悪の比較が必要な無常観の発生場所ではない。Bのみ複合である。ここで欠如を意識できる。ここが無常観の発生場所であり、また芸術のふるさとでもある。

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