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2005年8月 7日 (日)

罪の告白

高校を卒業した年のイースター、私は洗礼を受けた。その準備で、牧師は、罪の告白をせよ、と命じた。私は、数年前、ただ心の中で生じた「神に心を閉ざす」という罪を思い出して、牧師の前で声を出して許しを求めた。しかし、その罪は、その行為で消滅したのではなくして、洗礼を受けたあと、私の心に影響を及ぼした。今でも、あれは罪であったと思っているが、その解決のために、私はほぼ一生を費やしてしまった。私の罪とは、神に、神の創造したこの世に悪があることの責任を追及したことであった。この解決は、私にとっては、中世思想の中にあった。つまり、神は存在を、被造物に付与するのであるから、悪の創造者ではないということである。悪とは存在の欠如なのだ。神は存在の付与者であれば、悪を創造するとか、悪の原因ということはありえないことなのだ。私の罪は、その後間もなく起きた学園紛争の時、ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の中に同じテーマを見出したが、そこでは、イワン・カラマーゾフの論理が、それに相当した。しかし、イワンの論理をドストエフスキーは効果的に反論しているだろうか。イワンの問いへの反論と解決は、私にとっては、「悪は存在の欠如であり、従って、存在の付与者としての神に悪の原因を押し付けることはできない」というものであった。これはアウグスチヌスの思想にもあるもので、中世思想独自のものとは言えないが、中世思想の存在論の中では、よく知られたものであった。私は、十代で犯した罪からの解放を、こうして中世思想に見出したのであり、その意味で、「新しき中世」は、私にとって、生涯のキーワードなのである。

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