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2005年9月24日 (土)

神聖な瞬間

「強制的宗教」にコメントをいただきました。ご質問、ありがとうございます。質問の内容は省略します。
論点は、キリスト教の歴史で見れば、救いの条件は、神の予定か、人の自由意志か、ということかと思います。改革派の神学(主にカルビンの神学)では、神の予定が強調されています。私も、以前、一時期、この教会に属していたことがあります。神の予定を否定するつもりはありません。しかし、予定されて、救われる人の側では、何も起きないかといえば、自分の意志による神の救いのプレゼントの承認という決断があると思います。メソジスト教会(ウェスレーが創始者)は、人の意志に働きかけて、救いの体験を強調しています。この両者は、プロテスタント教会の二つの大きな潮流であり、かつて論争をしてきました。それを、ここで紹介するつもりはありません。ただ、内村の信仰に関しては、彼が「実験」という言葉で言いたかったことは、どちらかと言えば、後者であり、内村が極端な予定信者であったは思いません。
心身ではなくて、身心です。訂正します。道元の言葉です。実存転換も、風景転換も、私の造語です。実存転換は、キリスト教用語で言えば、新生とか再生の瞬間のこと、風景転換とは、その主体によって見える景色のことです。身心脱落も、色即是空も仏教語ですが、その逆の言葉と共に味わうべきと思います。またキリスト教と比較すると、よく理解できる場合があると思います。西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一という立場も、言ってみれば、人の立場ではなくて、神の立場なのでしょうが、それは、実存転換の原点からの洞察によって人に知られるものと思います。キェルケゴールは瞬間といいますし、カイロスという言葉もあります。永遠が時間と触れ合う、突入する、そんな神聖な瞬間があると思います。キリスト教の伝道というのは、この瞬間を伝えることでしょう。内村の言葉に、いつも励まされるのは、この瞬間に人々の関心を集めようとしていた、それが彼にとっての伝道であった、その点にあると思われます。

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コメント

ご返答ありがとうございます。
しかし、まだ納得できませんので質問させていただきます。

> 予定されて、救われる人の側では、何も起きないかといえば、自分の意志による神の救いのプレゼントの承認という決断があると思います。

人の承認がなければ、神の救いの実現がないということであれば、神の全知全能さと無縁になると思うのですが、それとも承認すらも神の救いの上であれば、結局は強制されていると思うのですが、違うのでしょうか。

それから、自由について問題にしたのは、本来自由とは「強制的宗教は嫌い」というような恣意的なことが自由ではないのです。自由とは自らの意志によって選び取ることが、恣意や外的強制を排して、いかなる内的な普遍的原則に従っているかを考察するのが、本来の西洋哲学における自由でした。この内的な普遍的原則を神の意志だと見れば、やはり神の側からの強制=自由ということになります。それともキリスト教信者にとって神とは外にある物なのでしょうか?

それから、キリスト教的な「新生」「再生」と道元禅師の「身心脱落」は、人間の回心という点ではなるほど共通化もしれません。されど、身心脱落は、我々の身心では、精神・意識などの「心的」側面が「自我」として強調されているのを「身的」側面の強調に転換していくという意味であって、神の関与もブッダの関与も関係有りません。或いは色即是空も、『般若心経』をお読みいただければ分かるように、菩薩という大乗仏教の行者が、「智慧の行」を深く行うことで、五蘊が皆空であることを悟ることであります。やはり神やブッダと関与は関係有りません。

こういった諸宗教や諸思想の共通点を求めることは大事ですが、むしろ差異の強調も同時にされるべきであると思います。

投稿: ワンクリック | 2005年9月25日 (日) 07時56分

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