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2005年9月25日 (日)

決定と自由

「神聖な瞬間」にコメントをいただきました。
>人の承認がなければ、神の救いの実現がないということであれば、神の全知全能さと無縁になると思うのですが、それとも承認すらも神の救いの上であれば、結局は強制されていると思うのですが、違うのでしょうか。
カルビン主義の予定論の中で、このような議論が起きています。しかし、そこでも、予定された者は必ず信仰という道を通って、救いを得るというのです。信仰という道をたどるためには、その人の承認が必要であり、それは自由な決断です。だから、予定論の主張と信仰の必要の主張とは矛盾しないのです。
それから、自由の意味は、私にとっては選択の自由という意味です。これが人間にあるために、人は罪を犯した。そして、その解決を探さねばならなくなった。しかし、そのような自由意志がなくなれば、人間は機械になります。人間は機械ではないという理由が、自由意志があるという、ただその一点だと思います。
神やブッダは究極者と思います。その究極者との関連づけで、そのものの価値が確定していくとすれば、そのような究極者と無関係のところでは価値づけができないのではないかと思います。諸宗教や、諸思想との比較では、誤解もあると思いますが、有意義な対話もあるでしょう。

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コメント

真摯なご返答ありがとうございます。
しかし、納得できません。したがってご質問させていただきます。

繰り返しますが、自由な決断とは恣意や外的強制を排除し、内的な普遍的原理に従うことであります。されど、この内的な普遍的原理とは、信仰者にとっては神の予定であるはずですが、この点何の答えも示されておりません。もし神の予定ではなく、たとえば論理だとすれば哲学者ですし、数理・法則だとすればそれは科学者です。

> 自由の意味は、私にとっては選択の自由

この管理人様のご意見そのものは恣意ですか?それとも普遍的原理ですか?前者であれば話になりませんし、後者であれば何か理由を示していただきたいです。

なお、自由意志がなくなれば機械になるということですが、罪人(非キリスト者)がいないとされる“神の国”では、文字通り神の神秘物である神の機械がいると思うのですが・・・キリスト者にとって自由意志がある限りエデンには帰れないと思いますし、アダムとイブが犯した過ちを繰り返す必要があるのでしょうか?

神は究極者でしょう。造物者でもあります。残念ながらブッダは違います。

「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。」(ゴータマ=ブッダ『ダンマパダ』1)とある通り、ブッダは自らが造物主であると入っておりません。また、究極者としての意義も、いわゆるの万物の根源や実体という意義を否定している以上、おそらく神に相当するような究極的意義はないと思います。なお、仏教教団が神格化した歪められたブッダであれば、それに近いかもしれませんが、どちらにしろこの両者は弁別されることを希望します。

有意義な対話を目指しているのは私も同じですが、やはりその前提になるのは自らの少ない知識で、簡単に違う考え方を理解しないことだと思います。その意味で、下手に共通点を求めることは、余り意味はなく、むしろどこがどのように違っているのかを、極限まで求め、そこから初めて共通点を求めるというような迂回路こそ、重要であろうと思います。

長いレス、失礼いたしました。

投稿: ワンクリック | 2005年9月25日 (日) 15時02分

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