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2005年9月25日 (日)

人間の自由

再度、対話を試みます。

>自由な決断とは恣意や外的強制を排除し、内的な普遍的原理に従うことであります。されど、この内的な普遍的原理とは、信仰者にとっては神の予定であるはずですが、この点何の答えも示されておりません。もし神の予定ではなく、たとえば論理だとすれば哲学者ですし、数理・法則だとすればそれは科学者です。

内的な普遍的原理と言われると、カントを思い出しますが、人は罪のために、それに従うことができないというのが、聖書の教えと思います。「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない」(ローマ7・18)。要するに、内的な普遍的原理に従うことは無理だと言っているのではないでしょうか。

>> 自由の意味は、私にとっては選択の自由

>この管理人様のご意見そのものは恣意ですか?それとも普遍的原理ですか?前者であれば話になりませんし、後者であれば何か理由を示していただきたいです。

人間の定義は、ギリシャの哲学者によれば「理性的動物」ということでした。理性的というところが特徴的ですが、同時に、その中に自由な選択ができるということも人間の本性として含まれているのではないでしょうか。このような本性は罪によっても、なくなりません。罪によって失われたものもありますが、人間である限り、罪によってもなくならないものがあると思います。そこに理性と自由な選択能力があると思います。この場合、自由な選択能力は恣意に近いものかも知れません。しかし、選択は必ず善を目的としています。恣意もまた、善を得ようとしているのではないでしょうか。

>なお、自由意志がなくなれば機械になるということですが、罪人(非キリスト者)がいないとされる“神の国”では、文字通り神の神秘物である神の機械がいると思うのですが・・・キリスト者にとって自由意志がある限りエデンには帰れないと思いますし、アダムとイブが犯した過ちを繰り返す必要があるのでしょうか?

神は人を創造した時、機械として造ったのではないと思います。神は人に選択の自由を与えたと考えなければ、罪を犯して楽園追放されたという創世記は読めません。選択の自由がなければ、罪は、そもそもありえません。そして、それが人間の本質であれば、回復された人間もまた、その本質を失うことはないと思います。

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コメント

なるほど、良く分かりました。

> 内的な普遍的原理と言われると、カントを思い出しますが、人は罪のために、それに従うことができないというのが、聖書の教えと思います。「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない」(ローマ7・18)。要するに、内的な普遍的原理に従うことは無理だと言っているのではないでしょうか。

この辺は納得できません。こちらでも手持ちの『聖書』で確認しましたが、(ローマ7・7~8・17)を見れば、管理人様のような結論には至らないと思います。もう一度同箇所を読まれてはいかがでしょうか。

> 人間の定義は、ギリシャの哲学者によれば「理性的動物」ということでした。

ギリシャ人は人間を「ロゴスを持つ動物」と定義しました。その場合、「ロゴス」とは言葉の筋道の論理ということですし、原義はバラバラに散らばった事実を筋目・秩序に従ってとりまとめることです。

> 理性的というところが特徴的ですが、同時に、その中に自由な選択ができるということも人間の本性として含まれているのではないでしょうか。

ヘラクレイトスは、「ロゴス」に耳を傾け聞き従うことを強調しました。ソクラテス-プラトンはイデア論を確立しましたが、その際、プラトンは真実在の把握には、感覚ではなく「理性」「思考」が強調され、特に「理性知」は思考による論証的間接知よりも上位に置かれることになります。アリストテレスも、「理性知」は物事の原理を捉え、かつ最高の直観的知性として、「我々の内の神」としましたが、これらの吟味からは自由という話は出て来ません。

> しかし、選択は必ず善を目的としています。恣意もまた、善を得ようとしているのではないでしょうか。

したがって、選択などが生じ得ない場所にこそ初めて理性による直観知があります。また、恣意は恣意であるが故に、自らが善であることを自らで証明できず、また他からも証明されません。恣意的であることは、それまでに反理性的であります。

> 神は人を創造した時、機械として造ったのではないと思います。

このご意見ですが、私は「神の機械」ではないか?としたのであって、一般的機械論を持ち出されても議論が噛み合いません。また、『創世記』に依れば「我々をかたどり、我々ににせて、人を作ろう」としたとされますので、これこそ「神の機械」ではないでしょうか?それから、アダムとイブは本来自らの判断は出来なかったはずで、それを蛇が瞞したわけですよね。ここには、蛇によって(強制的に)瞞された人間の姿が描かれております。

強いていえば、善悪を知ったことを怒った神が、同時に選択の自由を得たことそのものを罪にした可能性すら見えてくるとおもわれます。

投稿: ワンクリック | 2005年9月25日 (日) 20時12分

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