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2005年9月11日 (日)

無教会

無教会の将来を危惧する人がいる。無教会の中にいる。これは何を意味するのだろうか。それに答えるには、無教会の存在の意味を知る必要がある。武士道の鼓吹、日本精神の見直しなど、国家主義、国粋主義を助長する一面があるかも知れない。もちろん、創始者には、それらが常に神との関係で捉えられていたので、その危惧はなかったのだが、信仰の契機をなくせば、あの太平洋戦争に突入した精神構造との類似はありそうだ。一方で、無教会の意味は、教派主義への批判として捉えることもできる。私は、主に、そのように捉えている。従って、教派が存在する限り、無教会は存在の意味があるのだ。無教会の存在の危惧というものは、では教派主義の解消が世界的にあるというのだろうか。確かに、そんな融和ムードはある。しかし、教派がある以上、教派主義はある。教派解消の原理を提起し、教会が、その原理を採用するなど、「目に見える一致」に向けて前進しなければならない。これに反対の教派も、あるのである。かつて、内村は、パーメリーという女性宣教師と対立・論争した。無教会も教派ではないかと、その女性は主張した。内村は反論した。このへんに、無教会の存在理由の原点があると思う。

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