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2005年10月30日 (日)

信仰の利益

司馬遼太郎著『空海の風景』を読んで、信仰の利益について考えさせられた。親鸞は、『歎異抄』の中で、そのような発想を否定している。この点は、よく読まないといけない点であろう。弟子は師の回答に動揺したかも知れないが、師の言葉をそのまま受け取れないのではないかと、私などは思ってしまう。
さて、神仏を自分の地上的な利益のために「利用」するという発想は、どう考えても信仰の意図において純粋ではないと考えてしまう。一種の呪術だからだ。しかし、空海の考え方も、全く否定してしまうわけにはいかないだろう。無益なことに、人は動機が生まれないからである。
たとえば、キリスト教にも同じような発想がある。イエスは、まず「神を信ぜよ」と言ったあと、「だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。…なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マタイ11章)と言われたという。これは地上的な事柄を指しているのであろう。
ここでは、救済に対する絶対他力信仰ではなくて、そのあとのことであろうが、信仰の応用が書かれている。しかし、自分の意思が、それほど威力があるとは、普通は思わない。だから、「疑わない」という条件が満たされていないということで、通常は結果は出てこないのであろう。
しかし、祈りは、自分の生活に跳ね返ってきてほしいものである。自分が傲慢にならず、応答が欲しいものである。その時、祈りは、私の意志ではあるが、それが、取り次ぎを通して、神の意思に成るということを考えればよいのではないか。神の意思であれば、成ることに不思議はない。逆に成らないことの方が不思議だ。それは自分の功績ではない。なぜなら、最初は自分の意思であったが、神の意思に成ったからである。祈りを通して、自分の意思を神の意思に転換する。その思いがあれば、その過程では呪術ではなくなるであろう。祈りは呪術に似ているが、呪術ではない。

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