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2005年10月 6日 (木)

原義の喪失

原罪とは何であろうか。それは我々に何をもたらしたのであろうか。
「神学大全」の中に注目すべき言葉がある。
「人間性の原本的善は罪によってなくされることも、減ぜられることもない」(2-2.85.1)
「人間にとってその本性であるものは、罪によって人間から除去されることも、また人間に与えられることもない」(1.98.2、主論)
 これらは我々に何を教えるのか。それは、罪の結果は「原義の喪失」であり、人間の本性はなくならないということである。原義とは、神との生きた交わりのことであり、本性とは理性的という人間の定義にかかわる規定である。もちろん、本性の歪み、弱体化はあろうが、変質ということはない。人間は罪の前も後も、理性的動物であり続けるのである。これがトマスの言いたいことではないだろうか。
 中世スコラ神学の人間論というべきものの中核は「罪とは何か」といった問題であろう。松田一男氏(改革派教会牧師)は「一般恩恵」(C・ヴァン・ティル著、日本基督改革派教会西部中会文書委員会刊、昭和52年)中の「訳者あとがき」で、中世スコラ神学の見解を次のように言っている。
「堕落によって人間に起こったことは、理性のような人間の高い性質に、感情や欲望のような低い性質が従順に従うように調節する働きをする超自然的付加的賜物(原義)の喪失であった。それゆえに、人間の本性自体には変化は起こっていない。人間の本性は罪によって腐敗し全的無能の状態になったのではなかった。人間の本性自体はなお真理を認識し、道徳的善を行う能力を保持している。恩恵は人間の自然的能力を補助し捕捉するものと考えられた」
 おそらくこのような理解は正しいであろう。しかし、よく考える必要がある。「理性の捉える真理と啓示によって与えられる真理がある。これは違うものである。理性の捉える真理は<創造にかかわる真理>であり、啓示によってあたえられる真理は,<救済にかかわる真理>である、しかし、両者とも真理であることに変わりはない」と言うべきであろうか。それは、神が創造と救済の神であるところに、二つの真理の一致点を認めるのである。この場合、創造とは「創世記」における創造を意味し、救済とはキリストによる救済を意味する。従って、救済を<第二の創造>と言いかえてもよい。

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