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2005年10月12日 (水)

日本のかたち

司馬遼太郎さんとドナルド・キーンさんの対談集に『世界の中の日本 16世紀まで遡って見る』(中公文庫)という本があり、その中に「日本人と『絶対』の観念」という項目があるのですが、そこでの司馬さんの意見に対して、少し疑問が出てきました。瑣末なことかも知れませんが、平田篤胤の理解に関してです。
   
キーンさんが、平田篤胤の思想に「明らかにキリスト教の影響が非常に濃かった」と言った後で、司馬さんは、こう応えています。
   
「平田篤胤の思想にキリスト教が反映されているとなると、彼はどこでそれを手に入れたんでしょう。ところが、明治の国家神道ではもう縁が切れてしまった。だから、どうも平田神道は平田篤胤だけでぽつんと切れましたね」(108頁)。
   
この発言を読むと、司馬さんは平田篤胤が国禁であったキリシタンの教義書を密かに読んでいて、それを自分の思想のなかに取り入れたということを知らなかった、のかも知れません。
   
しかし、この平田とキリシタンとの接点についてはよく知られた事実で、村岡典嗣、海老沢有道といった人々の詳細な研究があります。もし、司馬さんが、この人たちの研究成果を読んでいたら、日本思想史について、また新しい視点が生まれたのではないかと惜しまれてなりません。
   
さて、問題は、平田篤胤の思想は、「明治の国家神道ではもう縁が切れてしまった」と、司馬さんが言っているところですが、本当なのでしょうか。
   
明治の廃仏毀釈で平田国学の人々が一時、強力な活動したといっても、明治6年のキリスト教「解禁」のあと、平田国学は衰亡を経験するのですが、明治22年の明治憲法発布の中に、不死鳥のようによみがえってくるのではないでしょうか。
   
ですから「明治の国家神道ではもう、縁が切れてしまった」のではなくて、逆が真なのではないでしょうか。
   
司馬さんは「明治政府としては、ヨーロッパはキリスト教でできあがっている、わが国にはキリスト教がないから神道をその位置につけよう、と思ったにちがいない」(181頁)というのですが、伊藤博文は、神道の弱体性を指摘していて、ただ皇室に結び付けて憲法の安定を図ろうとしたのです。その結果、皇室の宗教である神道が権力の中に入ってきて、やがて国家神道になったのではないでしょうか。その時に平田神道が国家神道と縁がないとは、私には思えないのです。
   
この国家神道は、日本の敗戦によって姿を消すのですが、今思うと、明治憲法下の日本というのはひとつの宗教国家だったのではないかと思えます。
   
この時代は、つい「昨日」のことであり、今でも、何かと尾を引いています。

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