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2005年11月30日 (水)

時間の継続と断絶

過去は現在の原因になるが、現在は過去の原因にはならない。
同じように、現在は未来の原因になるが、未来は現在の原因とはならない。
しかし、未来のようでありつつ、未来ではない将来は現在の原因になることが出来る。
なぜなら、将来は現在と同質のものを持っていて、現在に働きかけることが出来るからである。
過去が永遠というチャンネルを通って、未来に働きかける時に、将来が生まれるからである。
永遠には、過去もなければ未来もなく、現在があるのみである。
また、こうも言える。
過去は現在の原因になると言ったが、そうとも限らない。それは、意味の充満において、現在が過去に勝つ場合である。
時は過去から現在そして未来へとつながり、流れていく。しかし、意味の充満のあるところ、そこに過去も未来も流れこむのである。

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信・望・愛

信仰とは超越者への視線
自ら点となって時間を超える

希望とは心地よい想像
それがあると生活が楽しい

愛とは交わりの実体
永遠の今の中で目的が完成する

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司馬さんの限界

鷲田小彌太という人が『司馬遼太郎。人間の大学』(PHP文庫)という本を出しています。司馬文学に関する感想としては、ほとんど同感です。分かりやすく書かれています。晩年の土地問題での司馬さんの対応に関しては、現代に生きる課題に対する司馬さんの限界としての評価ですが、そうかも知れません。
司馬文学に、ある時期、熱中することはよいことだと思います。限界を感じるのは、そのあとのことです。私は、熱中する前に限界を言う人間ではありません。限界は、後世へのバトンタッチという意味かも知れません。誰が、バトンを受け取るのでしょうか。

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2005年11月29日 (火)

狭い道

信仰の選択とは、自力救済に見切りをつけて、降参、白旗を掲げる、という意味でもありますね。それは人生の敗北者、負け組みになる、と世間ではとらえているかも知れないですね。人生の競争場からの逃避であれば、少し恥ずかしい気持ちが働きますね。弱い者が信仰とか宗教に走るのであって、これからの、もっと厳しくなる競争社会では勧めるわけにはいかない、と思っている人もいるかも知れませんね。

まあ、そうかも知れません。「福音を恥としない」といったパウロの心境を思い、その意識、分からないわけではありません。しかし、自力救済を主張する気はさらさらありません。それに、人間は何かに頼らなくては生きていけないということが分かれば、神に頼ったらいいじゃあないかと思いますよ。虚心に世界を眺めれば、先進国の指導者で信仰を持つ人は少なくありませんし、恥ずかしいことでもないと思いますけど。

最近は仏教者の活躍がめざましいですね。彼らは人生の負け組みなんて思っていないでしょうね。

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厭離穢土欣求浄土の心

徳川家康の出てくる合戦の場面で、「厭離穢土欣求浄土」と書かれた旗が家康の陣に翻っている。「現世(穢土)をきらい、死(浄土)をあこがれよ」という意味で、家康の宗旨である浄土宗の言葉だ。同じような言葉が聖書にもある。パウロは「死ぬことは益である」「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」(ピリピ1・21-24)と言っている。

以前は、死について語ることはタブーであった。しかし、みなの関心事なのだから、取り上げなければならない。宗教者たちも、最近はがんがん語っている。いいことだ。

人は死に関しての解決を求めて、求道の旅に出る。解決が得られれば、いつ死んでもいいよ、という心境になるだろう。パウロは求道の旅ではなかったが、突然の回心により、その後、そんな心境になった。そこでは生の目的は、なくなっているのである。しかし、現に自分は生きている。では、どうしてなのか、何を目的にして生きるのか。そこで、彼は、「あなたがたのためには、さらに必要である」と、ピリピの信徒に対して言う。生きる目的は自分のためではないのである。自分のためには、生きる必要はない。なぜなら、死んだ方がいいと言っているのだから。悟りを開いた仏陀が説法に行く最初の気持ちも、似たようなものであったのではないだろうか。いや、仏陀は死後のことなど問題にしなかったかも知れない。

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淋しさ

心の中に淋しさのある人は
外から淋しさが襲ってきた時
それに同化してしまうだろう

そして、わめきたてて
異常行動に走って
SOSを発信する

淋しさが襲ってきた時
淋しさを味わう心があるなら
そこもまた祝祭の場に変容するのに

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「汝」の伝達

人の最大の事業は神を伝えることである。イエスは、神を父と言った。それはブーバー的に言えば、神は汝なのだという意味である。それをヒントにすれば、イエスの場合は、神を伝えるとは、神を客体として伝えることではない。客体の場合には、自分とは無関係な真理を伝えるということになる。しかし、イエスは、そうしなかった。自分を成り立たせている深い関係の中に、人を招こうとした。
精神分析をする時に、まず、分析者が教育分析を受けて、他者の分析の前に自分の分析をするようなものだ。自分と関係あるところに真理はある。実存的真理であり、その意味で真理は実存的だ。自分と深く関係するところに真理はある。その真理は、また他者にとっても大事なものだ。
一方、律法学者たちは、自分とは意識の中で深く結びついていない「真理」を伝えようとしたと言える。そこが一番の違いだろう。それは真理を「もの」のように見ることを意味している。イエスは、神を「もの」ではなくて、「汝」なのだと言った。

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質・内容・価値

中世の修道院にあったもの
近世で印刷術を通して伝えられたもの
そして、今、ITで発信されるもの

ITの環境は整いつつある
問題は質・内容・価値といわれるもの
楽天の欲しいもの

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表現活動

人はみな、何かしらの表現活動をしているように思う。
表現活動を通して糧を得る職業の人もいる。しかし、そうでない人でも、3次元の制約下に置かれている人間は、どうしても人に見られる存在であることから免れることができない。他人の目は、自分の目ではないから、自分が見られていることを意識しないかも知れない。しかし、他人は自分のことを気にしているかも知れないのだ。ただ、自分には、それが分からないだけかも知れない。
人は誰でもみな表現活動をしている。それは、率直に言えば、それが職業であろうがなかろうが、自分のためなのである。表現活動を通して、自分を知るのである。自分探しには表現活動は不可欠であり、それを通して個性完成の道を歩むのである。だから、精神的成長のためには、その人に合った表現の場を与えればよいのだ。

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禁欲と神秘

禁欲と神秘は
宗教の二つの形態

神秘は禁欲に優先する
その逆ではない

禁欲で神秘に参入しようとしても
それはできないだろう

その試みの中で、M・ウェーバー氏は
資本主義が出てきたのだという

神秘に秩序づけられた禁欲は大切
禁欲なき神秘は危うい

形態の目的を
間違えてはいけない

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他力と自力

自己が追い詰められた時
他力には応答がある

しかし、自己に余裕ある時
他力には応答がない

その時は自力の時
自力は自分の責任の問題

他力も自力も
生のあり方

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壊れた本能

ある精神科医は
人間は本能の壊れた動物であるという

ということは、他の動物は本能のままに
生きているという意味が込められているのか

他の動物にとっては、
それが一番、安全な生き方でもある

いや、それ以外の生き方を知らない
ということなのかも知れない

そこには、人間は動物だが
特殊な生き物との洞察がある

人間における「壊れた」ものの損失を見れば
他の動物は人間以上の存在になる

人間の本能が壊れた原因は
自由意志にあると考えざるを得ない

ということは、自由意志とは
人間の本質にかかわる事柄なのだ

人間は本能のままに生きていったら
破滅的になる危険な存在

そこで文化を造った
本能制御が文化の役割

文化には破壊的になる本能を抑止する役割があるが
同時に、それは人間の偶像ともなる

文化の、この肯定面と否定面の
二面性を洞察する眼が確かな眼である

壊れた本能の人間たちが本能のままに生きていくなら
文化の二面性は分からない

価値に対する一面的コミットメントのみが評価されて
対立が激化する

本能と自由意志、そして文化の持つ二面性
それらの的確な認識を満たそうではないか

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2005年11月28日 (月)

回心の時

回心が救いに重要であることは言うまでもありません。その回心の時が生前であることを、故里脇浅次郎枢機卿は『カトリックの終末論』(聖母文庫)の中で述べています。
同書で、著者は「死の瞬間か死後直に回心の機会を与えられると考える」神学者がわずかに存在する、と指摘して、「しかし、啓示の所与の中には、このような人間の希望的な想像を可能にするような要素は見出せないであろう」といいます。続いて、こう書いています。「とにかく、死期がせまるにつれて人間の判断力は衰え、意識は混濁しがちである。このような状態にある者が、時間を必要とする回心のような自由行為を瞬間的にできるとは、到底考えられない。なお、死後の回心の仮定は回心が当人の生存中に限られるという教会の伝統的な教えと相容れない」(37-38頁)。
回心は時間を必要とするのだろうか、というと、いや瞬間的なものだと、私は思います。それは言ってみれば、天国行きのキップのようなものです。著者は、それが教会の伝統として、生存中の限られている、というのですが、どうでしょうか。カトリック教会は善意の人にも天国行きのキップを提供していると思いますが、では善意の人たちは回心しているのでしょうか。そうではないと思います。であれば、死後の回心を考えるか、生前でも、潜在的な回心をしていたと考えるか、どちらかと思います。死後の回心がないとすれば、生前、潜在的回心をしていたと考えるしかありません。そういう神学者もおりました。しかし、そこでは回心の定義を広げて、明確で限定的な信仰告白を伴わない回心もありうると考えなければなりません。

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見えない教会

教会は、もともと「見える教会」なのである。イエスが弟子たちに教会を渡した時、それは「見える教会」であった。しかし、のち、ローマ帝国の中で、公認教会、国教となり、コンスタンチヌス体制が確立されて一つの地域全体が教会となったが、そんなことは当初、予想していなかったであろう。
当然、共同体の純粋性が失われる。そのために、「見えない教会」を考えざるを得なかったのだろう。アウグスチヌスは、コンスタンチヌス体制を是認して、カトリック教会の礎となりつつ、その体制の限界をも予想して、「見えない教会」を考えて、宗教改革の導火線も用意したのではなかったか。
プロテスタント教会の一牧師は、宗教改革後、カトリック教会も一つの教派になった、と言ったことがある。プロテスタント教会には、「見えない教会」こそが完全な教会であり、「見える教会」は、どれも断片で、それが教派だという意識があるであろう。しかし、カトリック教会の中には、自分たちが教派、宗派とみなされることへの抵抗があるだろう。カトリックの一神父は、宗教改革で、一つの皿が割れて、断片になった、それがプロテスタント教会だと、例えを語ったことがある。なぜなら、教会は元来「見える教会」なのであり、その教会は歴史的には、自分たちの教会なのだという意識があるからだ。
だから、教会一致運動とは、プロテスタント教会の中での意識は教会間の親睦にとどまる。他の教会も対等関係なのだから。しかし、カトリック教会の意識は、もし、自分たちが教派でないという意識があるとしたら、そこでは、壊れた断片を集めて、もとの皿を再製する作業に協力することを意味しているかも知れない。その皿は、どこに出来るのだろうか、それが問題である。それは、あるいは自分たちのカトリック教会への吸収を意味しているのかも知れない。こうして、教会一致運動へのかかわり方の違いが生れるのだろう。
しかし、もちろん、この運動のベースとなる関係は親睦関係であり、それ以上に出ることは危険なのである。それ以上の関係の検討については、教理問題となり、それは別のところで議論されている。
こう考えれば、教会一致運動というのは、教会分裂前の時代、すなわち中世を目指すものであり、歴史が逆転しないことを考えれば、「新しき中世」を目指す運動なのである。

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2005年11月27日 (日)

「もの」と「ひと」

  「もの」世界に抗する「人」は
 感動的だ

 暗さ・怖さの中に
 「人」の尊厳が輝く

 時は移り
 「人」は「もの」に勝った

 抗する「もの」のない
 勝利者集団としての「人」

 そこに起きる一抹の不安
 凱歌の中で再び、「もの」の影

 「もの」は三次元物体の意味ではない
 ここでは「人」の裏側

 「人」が、主義の非人格性に陥った時にも
 そこに「もの」が生まれる

 ヒューマニズムの両義性に
 弁証法と歴史がある

 明るさと暗さ
 人間社会には両方がある

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クリスマスの悲劇

クリスマスというのは、イエスの誕生を祝う日ということで、今では全世界的な広がりを持つ年末の行事になっています。イエスは、のちキリストと言われるようになり、宗教的信仰の対象となりました。

イエスの誕生物語は新約聖書に書かれています。それだけ読むと、そこには、別に悲劇があるわけではありません。

しかし、聖書には、イエスの誕生に関係して、時の権力者ヘロデ王が、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とも書かれています。イエスを抹殺するために、多くの子供たちが犠牲者となったのです。

虐殺された子供たちに、そのような結果に至る何かの罪があるわけはありません。ただ、やがて世界史の中で大きな意味を持つようになるイエスの誕生の陰で、このようなむごたらしい事件があったのです。この二つを関係づけて考えることは、クリスマスを客観的に考えるには必要かと思います。

恐らく、この子どもの虐殺の方が、当時の大ニュースで、イエス誕生などは誰も気づかなかったのではないでしょうか。

犠牲というのは何かしら悲劇的なものと思います。自業自得という言葉がありますが、自分が悪いことをして、悲劇的結果を招くことは、犠牲とは言わないと思います。自分は悪いことをしていないのに、悪いことをした結果が自分にふりかかってくる、その理由を問うていく時に、何かの犠牲になったという理解が生まれるかも知れません。クリスマス物語を読んでいて、あの虐殺された子供たちと、嘆く母の記述に関連して、そんなことを連想します。

世界史は、そして、一般のニュースは、クリスマス(イエスの誕生物語)などは伝えないのです。これは聖書だから伝えているのです。社会ネタとしては、子供の虐殺の方が比較できないくらいの大ニュースです。この比較の中で、クリスマスを考えることも大切です。

同時に、自分の身に悲劇がやってきた時、その理由が自分の方にないなら、何か大きな価値が誕生するための犠牲という見方も出来るのではないでしょうか。

幸いな日々を送っている時、その陰で犠牲になっていた人たちがいたことを忘れたくありません。20世紀を回顧する時、20世紀という時代は、何とまあ、大変な悲劇的な時代であったなあ、と痛感しています。それは「新しい日」の生まれる犠牲のようでもありました。

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武士道

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」。葉隠の言葉である。

死ぬ事とは何だろう。切腹のことだろうか。確かに、忠臣蔵での浅野の殿様や、赤穂浪士たちの切腹には美がある。美しくない切腹というものは、この世に未練がましい切腹のことである。人は最後は美しくありたい。

あるいは、常在戦場の意識の中で、常に死ぬことを覚悟して行動しろ、ということなのだろうか。鮮烈な生き方を可能にする覚悟を持て、ということだろうか。

もちろん、葉隠の意味は一つなのだろうが、その解答を見ないで、思い巡らすのも面白い。

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自由

自由意思とは意識の上に浮上した自然的観念群
それに向けた選択が自由意志

世代にわたる蓄積された経験の泉から出る
自由意思の観念たちは内面に踊り

自由意志は、その観念を捕まえて
具体的な形を与えようと、表現活動を始める

意思も意志も我なのだが
受動と能動の違いがある

自由意思から自由意志に変わる
選択の中に、人間の自由がある

その選択こそ、あなた自身でもあり
また、あなたの明日でもある

しかし、その選択が自由かと言うと
必ずしも、そうではない

それでも、人間には自由意志があると言わねばならない
その選択に責任を取らせるために

選択の自由の背後には
自由意志の中で、自由意志を超えた原理が働く

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もう少したてば
風がすべてを吹き飛ばしてくれるだろう

怖いことだが
必要でもある

もう一度やり直しだ
そうする以外、方法がないから

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2005年11月26日 (土)

生の作法

精神の自立を保持しつつ、穏やかに静かに生きていく。周囲の毀誉褒貶に踊らされず、生きる目的を常に覚えつつ、大局観を決して失わず、流れゆくものに執着せず、いつ人生の終わりがきてもいいように準備している。そんな生き方がしてみたい。
ささいなことで腹を立て、他人を挑発し、常に犯罪を誘発するような生き方をする人もいる。われわれは実に危ない社会に生きている。

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交際上手

あえて、広い交際を求めよ、とは言わないが、交際上手の人は自分を制御することの出来る人だろう。その意味での交際上手は大切な資質である。狭い人間関係の中で、常に感覚が先鋭化している場合、他人によるなんでもない言葉に反応して、想像の中で犯罪を芽生えさせるかも知れない。それは怖いことである。自分の心を自分で常に監視できること、そして、多角的な判断の中で、環境的刺激を捉えられること、そんな資質が求められている。体も多種の栄養を必要とするように、心も柔軟な対応ができるよう複眼的視点を持つことの訓練が必要だ。自然災害も怖いけれど、人の心も怖いと思う。

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自由と平等

自由とは何でもしていい、ということではない
自由とは奔放に生きるということ、でもないかも知れない

平等とは違いがなくなること、ではない
平等とは差別意識に我慢できない、ということかも知れない

自由・平等・博愛は
フランスから聞こえてきた

それは、米国に伝わり
今の日本の中でも大切なものとなった

しかし、我々は、この言葉に寄せた
人々の苦闘を知らない

だから、現代日本では、
余り、ありがたみがないように見えるかも知れない

逆に、自由と平等が犯罪の温床に見えるかも知れない
それくらい、現代の日本は問題を抱えている

自由と平等は、表面的には矛盾するように見えても
人間の幸福の中では一致するのだろう

絶対矛盾的自己同一という言葉もある
両者は矛盾と見る見方は、それぞれの真意ではないのだろう

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病気

病気になった原因は
分かっている

それは誰もが
納得する原因である

しかし、原因は、それだけなのだろうか
問いは、そこにある

闘病中に何があったか
心の癒しがなかったか

心の病とは、
人間関係の中で生まれるものだった

その心が癒されるために
病気になったのではなかったか

そこにも因果関係があるのではないだろうか
もちろん、証明はできないけれど

心にも、体の病気の原因があるのではないだろうか
体と心は、どこかでつながっているのではないだろうか

心の変調で、体も病む
心が癒される時、体も健康になる

こんなことは今では常識なのだろうか
それならいいのだが

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自我に死ぬこと

10代の後半、近くのキリスト教会に通っていた。牧師は「自我に死ぬこと」を強調し、会衆たちに勧めていた。自我に死ぬとは自分に死ぬこと、それでは生きられないではないか。そう思い、よく分からなかった。
人間は死ぬまで人間であり、理性的動物ではないか。それは変わらない。その理性がより一層健全になっていくことに人生の目標があるともいえる。その過程で、断絶があるのかないのか、その問題なのだと、後年になって理解した。牧師は断絶を強調したのである。それは正しい、しかし、断絶と連続の両方があるのである。矛盾するような両方の主張が正しいのだ。ただ、断絶がなければ、キリスト教は、そもそも成立しない。そして、その断絶に奇跡が含まれている。

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近代への別れ

靖国神社参拝問題、女性天皇の問題など、日本の重大問題がマスコミで論じられています。それらを、どう理解、解釈するか、人によって異なるでしょう。私は、あの敗戦の処理の問題の延長だと思います。それは近代への別れです。明治体制への別れです。その絶対化をいくらか相対化してもいいのではないかと思います。そして、日本の現代をどう理解するか、どう形成していくかの問題と思います。大雑把に言うと、こんなことかな、と思います。

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睡魔

再び、睡魔が襲ってきた
今度も、うまく眠れるだろうか

眠りから覚めた時
神を見るはずであった

しかし、喧騒によって
目覚めさせられてしまった

中世を用意したのはアウグスチヌスだ
近世を準備したのもアウグスチヌスだ

彼はコンスタンチヌス体制のほころびを予感した
教会の中の俗世の反乱を予想したのだ

そして教会の二重性を説いた
見える教会と見えない教会

こうして、眠りは覚まされた
近世が始まった

しかし、もう一度、
睡魔が襲ってきた

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2005年11月25日 (金)

眠りへの期待

新しい目覚めの時には
新しい自分になっている

新しい目覚めの時には
新しい世界になっている

そんな淡い望みを持ちながら
毎日、眠りにつくのだ

今、世界は夜を迎えている
意識から無意識への移行

目覚めた時
世界は完成されているのだ

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ホスピス

人間関係のしがらみに落ちて
矛盾する義務要請に思い惑う

魂が散り散りになろうとする時
ふと、ホスピスを想う

死を前提とした生きかたがそこにあり
その生きかたが輝くのである

しかし、人は末期ガン患者でなくとも
誰もが死ぬではないか

であれば、ホスピスにいるかのように
生きることが最高の人生ではないのか

生きているから無限の義務要請が届くのだ
死んだ人には、それらは無効だ

人間関係のしがらみに疲れた時
静かに、思い煩いの世を離れよう

死んでいるように生きていこう
自分の人間関係も少しは楽になろう

一人でも、そんな人がいれば
輪が広がっていくだろう

現代社会にホスピスが導入された
その意味は大きい

ホスピス精神が社会に普及することは
これからの事業である

生を生においてではなくて
死において眺めようではないか

生なくして死はないし
死なくして生はない

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2005年11月24日 (木)

奇跡論議

「聖書には荒唐無稽な物語がありますな。特に奇跡なんか、そうです。人が水の上を歩いたとか、水がブドウ酒になったとか、こんな話、信じられますかいな」

「そうですね。それをどう読むかですね」

「では、あなた、どう読んでいるんですか」

「まず、奇跡の意味が伝われば、それでいいという読み方がありますね。意味のことをケリュグマなんて、格好つけて言いますね。それだと、奇跡が起きたことが事実でなくても、その意味が大切、それで十分だという理解ですね」

「うん、それなら分かるかも知れないな。奇跡は実は起きなかったということで、科学とも抵触しないと、私は歓迎です」

「しかし、反論もあるんです。意味が大切で、事実はどうでもいいとなると、聖書は<間違い>で、信用できないという議論が出てくる。そこで、それはまずい、それを封じようという議論が出てくるんです」

「ほう、そうなると、奇跡は実際、起きたことになるんですな。当然、批判の嵐となるでしょうな。こんな非科学的なことを信じる現代人がいるなんて、私にはとうてい理解できませんな」

「しかし、そう言う人の中には科学的な頭脳の人もいますよ」

「へえ、どういう頭なのかなあ」

「奇跡は歴史的な事実だったと主張することで、聖書は誤りないという主張を裏書したいんです。それによって、聖書の信頼性を救おうとするんです。そんな解釈をする科学的な頭脳の人もいますよ」

「ちょっと、普通では考えられない解釈ですけどね」

「実は,一つの逃げ道があるんですよ。それは、<流れる時は繰り返さない>ということで、解決しようとするんです。科学とは因果関係を明確にし、繰り返しが起きるから、人は科学を信用するんです。しかし、それでも、完全に繰り返しが起きるとは言えない。それは、時間の流れは繰り返さないからです。厳密に言ったら、科学の法則と言っても高い蓋然性のことで、必然性ではない」

「そりゃ、そうかも知れない」

「であれば、奇跡は歴史的事実と言う命題が成り立つかも知れない。もっとも、奇跡は事実、起きたと言ったところで、それは、かつてのこと、昔のことであり、今のことではありませんよ。『奇跡は歴史的事実』と言っている人たちが、その主張を重荷に感じていないのは、そのような時間は終わってしまった、だから今は奇跡は起きないと考えているからです。ここで、普通の人の頭になるんです。時間は繰り返さないのだから、言って見れば、彼らもまた合理的解釈の主です。だから、今だって奇跡はあるんだと言ったら、彼らは、びっくりするかも知れないのです。実際、彼らの周囲の人たちが、今も奇跡はあるぞ、と言い始めたということで、最近、ちょっと、議論があるんですな」

「さて、ところで、あなたは、どんな解釈?」

「意味は大切。これは第一。そのあとは、柔軟に考えたらいい。奇跡は歴史的な事実だと言いたい気持ちも分かるけれど、まあ証明は出来ませんね。逆に奇跡は歴史的な事実ではないから、聖書には間違いがある、というのは、少し言い過ぎかな。まあ、聖書には間違いがある、という命題にはセンシティブな人たちがいますよ。気持ちが分からないでもないけどね」

「奇跡の意味ねえ。私には、そちらの方こそ、何言っているのか、よく分かりませんな」

「聖書は所詮、あなたにとっては無意味な書なんですよ、きっと。けれど、奇跡物語なんかではなくて、読んでいると、ぐさっと心に付き刺さる部分もありますよ」

「うん、それは分かるなあ」

「そんな読み方でもいいとは思いますけどね」

「まあ、聖書も論語なんかと同じ、教訓の書として読むことにしようか」

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現代社会の実験

現代社会は
大きな実験をしているようだ

それはコミュニケーションの量が
やがて質に転換するだろうという期待

しかし、それはないと思う
次元の違う話だから

だから増したのは
単に騒音に過ぎない

そう思える人は
思った方がよい

現代社会の音は人の心をかきまわし
心病む人をたくさん生み出している

ということは、この音から離れることに
救いがある

それは音に耳を塞ぐか、あるいは
音を騒音とみなすしかない

しかし、今日もまた青い鳥探しに
IT世界にさまようのだ

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固定観念

何度、失敗しても、あきらめず
同じことを繰り返す人がいる

誉めてよいのか、
はたまた、悲しむべきか

その失敗が成功につながるのであれば
あきらめないのは、誉めてもよい

しかし、恐らくは、成功とか目標とか
そんな観念を持っていないのだ

強烈な固定観念の奴隷という
罰を受けているのかも知れない

自らは、人格の分裂を知らないが
対立関係を作りだし、

周囲の人が、柔軟に対応することで
全体をまるく収める

強烈な固定観念は
強烈な行動の原理でもある

しかし、時には固定観念を吟味しないと
人生を無駄に送ってしまうかも知れない

そればかりか、自己破壊の
序曲になりかねない

しかし、それすらも分からず
時は空しく過ぎていく

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違和感

朝日新聞(2005年11月24日)の11面「ワールドくりっく」の中で、加藤千洋・編集委員が、中国を訪問したブッシュ大統領夫妻が日曜日に教会を訪ねたと書いています。その中で、ミサという言葉が使われていますが、普通、ミサはカトリック教会で使用しています。プロテスタント教会では礼拝です。その記事では牧師という言葉もあるので、プロテスタント教会の礼拝なのでしょう。ミサという言葉は、何か違和感を感じます。

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2005年11月23日 (水)

静と動

静が動に優先するということは、実は大変なことである。普通は、そうではない。

聖書には、マリアとマルタという姉妹の物語がある(ルカ10・38-42)。姉妹の家にイエスが来た。姉のマルタは接待で忙しい。妹のマリアはイエスの言葉に聴き入っている。マルタは、マリアの態度に腹が立ったが、イエスは、「マリアはよい方を選んだ」という。マリアの優位である。マリアは静、マルタは動の立場である。ここでは静は動に優位している。

しかし、この場合には、イエスに聴くという姿勢(静)の中に、聖の価値が実現しているので、静は動に優位しているのだ。逆に、静が聖の価値を持っていない時はどうか。もちろん、動が優位している。聖の価値がなければ、静は、何の役にも立たない、ということで、動から一顧だにされないであろう。そして、これが一般の、普通のあり方なのである。

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中世の標語

中世的標語を思いついた。それは「動中に静あり。そして静中に聖あり」というものである。

「動中に静あり」とは、アリストテレスの自然神学、形而上学の姿勢である。彼の神存在の証明とは、まさに「動中の静」を基本とした理性的な探究そのものである。

第一原因というものは彼にとって、動中の静であった。動は静を目的としており、静を求めているのである。静は法則、あるいは不変なものといってもよい。この探究の働きが理性の最高の働きである。

しかし、人間はそれだけでは満たされないものを持っている。従って、静は聖に支えられなければならない。これは啓示、恩恵の世界である。

そしてトマス・アクィナス風に言えば、聖は静を破壊するのではなくして、強めるのである。聖に支えられない静は、人間にとって耐えられるものではない。

そこにパスカルの気晴らしといったものが登場してくる。普通の人間は修道院の孤独には耐えられない。しかし、聖に支えられのであれば、カルメル会のような観想修道院の禁域の掟に生きることも喜びとなる。

とにかく、この二段階のかかわりの中に、バランスのとれた真理探究の方法が存在している。

われわれはこの二つの真理を同時に、またこの順序で主張しなければならない。中を省いて「動中に聖あり」と言ってはならない。その時、宗教的真理は迷信に陥りやすくなる。

「動中に静あり」という立場は理性の立場、哲学の立場であり、この前提を失ったときには聖なる次元というものは人間に現われてこない。これは、人間の可能性の彼方にある啓示・恩恵の彼岸性という性格の否定ではない。

天からの恩恵の水は、受け皿がなければ、流れ去るだけであって、渇いた喉を潤す水の役割を果たすことはできない。その受け皿の必要を指摘したまでである。

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教派の選択

宗教には、その中での枝分かれとしての教派、あるいは宗派というものがあります。何かの縁で、宗教に触れるといっても、それは教派としての宗教です。教派として、その宗教はわれわれに届いています。しかし、また何かの都合で、その教派を変えねばならないことがあり得ます。転会ともいいます。転勤とか、人間関係とか、理由はいろいろあるでしょう。その時、歴史的に互いに対立関係にある教派を選ぶ場合には、その人のアイデンティティは、いくらか危機に瀕します。
教派の中には、その宗教の一部を鮮明のするという役割があります。それはそれでいいのです。間違いではありません。しかし、その宗教には別の真理も含まれています。そして、別の教派は、その別の真理を主張します。こうして別の教派が生まれます。互いに論争します。もちろん、教派の人は、対立関係にある教派の人の中にも真理を認めて、止揚しようとはしません。それでは、歴史的教団が維持できないからです。
宗教の選択というのは、必ず教派の選択を意味します。その時、できるだけ包括的な教派の選択がよい、と私は思います。

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迷惑メール

毎日、送られてくる迷惑メール。送り主は真剣かも知れないが、ゴミである。

だから、毎日、掃除をしている。それにしても迷惑な話だ。

しかし、生活全体を掃除しろ、という、別の送り主からの真剣な訴えなのかも知れない。もちろん、思い当たるふしは大いにある。

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2005年11月22日 (火)

世界

ほら、目を上げて見てごらん
あなたの前に広がっている世界を
あなたの労働を待っている世界を

その世界に種を蒔いてごらん
不思議な作用によって
喜びの大木になるだろうよ

急がなくていいよ
着実に、原則通りにね
結果は必ずついてくるから

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絶対幸福

絶対幸福は
他者の所有との比較の中にはない

貧富・社会的地位・学歴・性・人種・・・
社会はかくも多様性に満ちている

それらは相対幸福の尺度として比較され、
そこに人間のドラマが展開する

しかし、絶対幸福はそれらの比較の中にはない
流れ行く相対幸福の尺度は見方でどうにでもなるのだ

やがて肉体の死が訪れ
魂が絶対孤独の中に沈もうとする時

そこに一人でも対話する人がいたなら
どんな相対幸福をもしのぐ絶対幸福を人は感じるだろう

絶対幸福の対話は永続し
かつ永遠なものである

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ニヒリズム

最近、ニヒリズムという言葉を余り聞かないが、まさか死語になったわけでもないだろう。実存主義が流行していたころは、良く聞かれ、語られた言葉だ。

考えてみれば、人間の求めている幸福なんてたわいのないものだ。ブッダの求道の心には共鳴する。しかし、幸福を馬鹿にしていたら、不幸になるだろう。

ニヒリズムとは、人間にとって不健康な証しなのではなく、健康な心がまだ残っているという証しなのだ。しかし、そこに留まるのは不幸だ。

ニヒリズムを感じられたら、その時から人生の探求の旅が始まる。誰でも、そうだろうと思う。そして、宗教に出合うことになる。

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明るさの残酷

近づくと、こちらの暗さが弾き飛ばされるような
そんな残酷な明るさを持った人がいる

情報発信オンリーの人間で
何もかも分かっているような振りをして

全身これ情報の塊のようではあるが
同時に演技であることが知れている

これでもか、これでもかと
情報の押し売りが続く

その人たちは確かに社会では有用な人材だが
陰がないため、付き合うと、こちらが息苦しくなる

その虚栄は生きがいとなり
無常なる社会と共鳴している

しかし、同じ明るさでも
違った波長のものもある

暗さと向き合い、
暗さと対話できる

そんな人もいる
そこには明るさの中にも暖かさがある

幸福しか知らない人は
実は不幸と思う

不幸を知る人でなければ
心を開くことはできない

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米国の祖国愛

日本は急速に米国化しつつあるのだろう。そこで米国のことを知る必要がある。米国の祖国愛、米国の存在理由を考えてみる必要がある。
米国には日本のような古い歴史はない。17世紀、英国の教会のあり方に反発した人たちが、信教の自由を求めて移住した人たちの子孫だ。あの、巡礼父祖の精神が米国の、言ってみれば祖国愛の原点かも知れない。それ以前、米国という国は歴史上、なかったのだ。自由というのは、米国人にとっては自分たちの存在理由ともいうべき、第一の理念なのだろう。
日本との関係を顧みるに、ペリー来航の衝撃によって、徳川幕府は倒れた。封建社会は倒れた。階級社会は倒れた。結果的には日本は以前よりも自由になった。次に太平洋戦争で、米国は日本を負かした。結果として、国家神道の明治社会体制は崩れた。確かに軍部独裁の15年戦争時に比べれば、日本は自由になった。戦後の一時期、今では想像できないくらいの解放感があったという。日本と米国との歴史的に重大な関係は、この二つだが、いずれも、信教の自由を日本にもたらした、という結果を生んでいるように思える。
米国が今、世界に存在するというのは、このような「抑圧された人たちに解放をもたらす」という意味を持っているのだろうか。であれば、北朝鮮や中国や、その他、イスラム教の国などの指導者たちが、自分たちの国の体制を危機的なものにするとして米国の存在をむけたがるのも理解できる。
世界に自由をもたらすことを使命としているような米国には、その根幹にキリスト教という宗教がある。そこでは個人主義も欲望解禁、自由放任ではない別の展開を可能にしている。しかし、それのない国は、どうしたらいいのか。米国には、解放後、キリスト教を盛んにさせる道を選ばせようという意図があるのだろうか。実際、戦後、マッカーサーの選択には、その方法があったが、日本では長くは続かなかった。日本は象徴天皇制の中で、諸文化価値の共存の道を歩み、自由の弊害をおさえてきたともいえる。自由は絶大な価値かも知れないが、人間の本性を考えると、やっかいな価値でもあるのだ。幸い、日本では仏教のおかげで、人間の研究は盛んである。競争社会が弱肉強食社会にならないためには、文化価値を一層高める必要がある。本気で取り組む必要が出てきた。

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競争社会

競争社会は活気のある社会である
同時に貧富の差を生み出す社会でもある

競争社会は自由を基盤にもつ社会である
同時に欲望解禁の社会でもある

欲望解禁の社会はきつい社会である
上ばかり見て、下を見ない社会でもある

人間の幸福は、こんな社会にあるという
しかし、そう思わない人も多いだろう

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2005年11月21日 (月)

世論の形成

昔、テレビで英国の公園での野外集会を見たことがあった。論者が少し高い所で語りかける。聴衆が周囲に集まり、聴いている。論者の話の内容は何でもいい。時事問題であろうが、説教であろうが、何でもいい。恒例になっているという。今は、どうだか知らない。
その英国に18世紀、ウェスレーという国教会の司祭がいた。野外で説教をすることで有名であった。彼の活動から生れた教会は、やがて米国にも出来て、現在のブッシュ大統領も、その信徒である。そのウェスレーの影響を受けた一人の英国人が救世軍をつくり、これも野外で盛んに集会を行ってきた。
今、そんな野外集会がインターネットの世界で容易に出来るようになった。ガス灯から電灯へと時代が変わったように、野外からインターネットへと、今、時代が変わった。この変化には適応しなければならないと思う。

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哲学の勧め

哲学とは何でしょうか。それは経験の整理だと思います。その意味で、哲学は人が生きていく上で、是非とも必要なものです。
われわれは日々、雑多な経験に取り巻かれています。意見というものは、さまざまであり、互いに対立する場合も多いのです。むしろ、それが普通のことです。その中で、自分は、意見の統一の中でしか生きられません。そうしなければ自分が分裂してしまいます。周囲にある、さまざまな意見の統一を、自分の中で、どのように形成していくか、そこに哲学の意義があります。
一般の人々の場合、難解な哲学書を読む必要はないでしょうが、日々の経験の整理は、誰もがしなければならないと思います。そうしなければ、人は生きていけません。人生観、世界観形成の課題と言えば、難しそうに思いますが、いかに生きるか、いかに世界を見るか、という質問に、自分はどう答えるかということです。これは誰でも考えなければならないことでしょう。

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ミレニアム讃歌

新しい時代を予感し
その原点を見極め
讃歌を歌う

9・11と戦争
何という始まり方だ
しかし、始まったのだ

世界は変わる
静かに変わる
そして、讃歌は響く

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美しく生きる

私は俳優ではない
しかし表現者にされている

生活は演技ではない
しかし見ている人がいる

少しは周囲に気をつけて
美しく生きたい

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2005年11月20日 (日)

行為義認の問題

人の救いの条件は信仰なのか、行為なのか、そんな問題で、信仰なのだというのが信仰義認の教えです。しかし、聖書では、いや行為義認なのだという主張を裏付けるようなテキストがあります。しかも、イエスが、そう言っています。マタイ福音書25章31節から46節までに、最後の審判のもようが描かれていて、そこで、裁きの判定に、その人の行為が取り上げられています。だから、行為が救いの条件なのだと、一見、そのように思う人がいても、当然かも知れません。
しかし、そのように受け取るのは正しいでしょうか。そうではありません。最終的には、行為の背後にある、行為の主体のあり方が問われているのです。そのあり方が信仰か、不信仰か、その区別が、外に現れた行為を通して判断され、その行為が裁きの基準になっている、しかし、実は、それを通して行為の主体が、そこで裁かれているのです。そう解釈すべきと思います。イエス在世中には、聖霊降臨もなく、使徒たちの書簡もありませんでした。それらを通して、イエスの言葉は解釈されるべきと思います。
行為義認の人であれば、救われるために、よい行為をしようと思うでしょう。しかし、マタイ福音書によれば、よい行為をした人たちは、いつしたか、とイエスに問うています。よい行為をしたという自覚がないのです。それは、その人たちが行為義認の人たちではないということを表していると思います。
慈愛とか、惻隠の心を持っている人たちが、その心のままに行為する時、それは自分が救われるという目的をもったものでなく、ごく自然なことです。しかし、慈愛とか、惻隠の心を持っていない人からは、そのような行為は出てこないのです。そんな人が、「救いのために、よい行いをしろ」といわれても、出来ないのですが、そのように努力することを行為義認といいます。だから、行為義認を通しては、人は救われないのです。
福音書を読む時に、字面だけで解釈せずに、使徒書などを考えながら解釈する必要があります。

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少年のころ、ひょんなことから夢を見た
まだ覚めない

周囲の人々は、人が変わった、
と、言っていた

眠りのもとを
日曜毎に少量、教会でもらう

夢は夜見るもの
夜は身心の休みの時だ

そういえば、ベルジャーエフは、言っていた
夜が来る

新しい中世は
夜の時、夢の時、休みの時

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2005年11月19日 (土)

怖い話

怖い話というと、昔であれば、お化けの話。今では、地球外の微生物が人体に侵入して、人間の形を変形させてしまう映画が結構、怖い。米国の美人女優ドリュー・バリモアが無残にも怖い顔に変形してしまった映画もあり、怖い話だ。

お化け系の怖い話は、死者が実は生きている、ということが核心かも知れないが、今、誰が、そんなことを信じているだろうか。

死者は、どこにいるのか。復古神道の大成者で、あの世の研究でも知られる平田篤胤の「霊能真柱」は、日本人は死後、霊魂が国土にとどまると記されている。死者は生者の近くにいる。

死とは、魂が肉体を離れることをいい、その時、死者は見えなくなるが、存在しなくなるというのではない。生者の近くに、生者らとは別の形で存在する。現代人が馬鹿にしている観念かも知れないが、これを前提にしなければ理解できない行為も多い。

葬式は純粋に理論的に考えれば死者のためのもの。死者の実在を前提に、その存在のあり方に対する生者の義務でもある供養の必要を、生者のためではなくて、死者のために主張する葬式が正しく、その解釈はすっきりしている。

しかし、ここで問題なのは、死後の霊魂の存在は、仏教としてはおかしいという指摘。遠い昔、織田信長の面前で仏教僧侶とキリシタン宣教師との間で争われた。

人間は死後、見えなくなったが、実は存在していることを理解させるために、お化けなどで、死者が見える形をとって現われたのだろうか。怨念の表現としてのお化けの根底には、この事実が洞察される。

しかし、死者が別の形で生きているかどうかは誰にも分からないことだ。科学的に証明できる問題でもないだろう。そんなことを問わないのも、一つの見識であろう。

逆に、死者の死後の実在と、その存在のあり方などを問わず、葬式などの死者儀礼は実は生者のためなのだ、という転換解釈も可能だ。死者が生者に及ぼしている影響を考えた時、その中で、死者が別の形で生きているということについては合理的に理解される。

実は、生者は、いろいろな意味で死者に縛られている。死者とは、生者による未来の想像、あるいは妄想の世界にいるのではなく、過去の事実の世界に固定されて存在しているという意味では「確実」な存在である。この死者に向き合い、死者と正しく接続することの中にこそ、未来は開けてくるのだ。これが宗教の使命なのだろうか。

死者は生きている。生者が死者を思うことの中に生きている。その中に未来が開けてくる。

さて、では死者は自身として、死後、何らかのかたちで存在しているのだろうか、それとも存在していないのだろうか。まあ、こんなことをあえて問題にせずとも、死者たちとのつきあいは普通に続いている。

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仏教との対話

大学紛争の起きる少し前、私は大学の後輩の一人Y君と、京都大学キリスト教学科のM教授の家を訪ねた。Y君は無教会の矢内原集会に出ていたというが、その後、クエーカー教徒になった。
M教授は私にとっては未知の人だったが、Y君に連れられて百万遍の家を訪ねた。二階に通され、周囲が本棚で囲まれ、本がびっしりと並んでいたのに驚いた。雑談の中で、京都は仏教寺院が多いですねえ、と感想を語ると、教授は、ドイツの神学者の研究をしていたが、仏教との対話の必要性を真剣な面持ちで説いた。私は少し違和感があった。当時は仏教に関心はなかった。しかし、今、その対話重視の意味が分かってきた。
キリスト教は、今でも外国の宗教のようなものである。西洋から、米国から来たキリスト教の宣教活動の中で信徒となって、その教派の歴史の中で思考しようとする。そうすると、われわれの生きている日本という環境との接点が次第になくなっていき、生活が浮き上がってしまう。そんな反省は切実である。
この点で、宣教師と対立した内村鑑三は今でも大いに意味を持っている。キリスト教書は売れないというが、当然だ。遠い外国で起きたことに目を向けていて、日本人に語っていないからだ。日本人に意味ないことを語っても、誰も見向きもしないだろう。遠藤周作は、日本人に合ったキリスト教を求めたが、当然のことである。遠藤の衣鉢を継ぐ人は、この点をしかと考えねばならないだろう。

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反省

反省とは、助けを外に求める意識を形成する。
確かに助けはある。

反省して助けを呼び求めない人たちが
うつになるのだろうか。

しかし、反省しないように見える人たちもいる。
さて、どうしたものか。

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ゲームの教訓

人は、生まれたことで
人生のスタートに立つ

そこにはゴールがなければならない
それを自覚しなければならない

ゴールに達したことで、成功の人生という
その秘訣は何か

日々の挑戦を受けて応答する繰り返しがベース
一番簡単で、確実なことの積み上げ

出来るだけ運とか賭けを避けて
着実路線を歩むこと

しかし自分の不注意による挫折もあり
目的に達せない

いくつかの成功法則に則って
一つの過失もなく、人間的には完全な応答をした場合でも

ゴールに到達できない場合がある
人生に運と賭けの要素がなくなるわけではない

だからゴールに到達しない人生であっても
必ずしも、その人の責任ばかりとは言えない

ゲームは、それらを教える
ゲームに熱中する人の気持ちが分かる

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愛国心

愛国心は多義的である。そのため、いま、愛国心復活といっても、反発を感じる人もいる。内村鑑三は、隠された遺言の中で、「俺が死んだら、内村はこんな国には少しの未練も有たずに死んだといってくれ」と言っていたという。内村が熱烈に愛した「日本」が、そんなものであったとは思わない。日本と言う対象の多義性があったのだろう。彼は、こう言っていた。
「この日また、ある事よりして、日本をわが愛人として愛するの幸福に気付いた。これは青年時代においてわが心を燃やした愛であるが、老年に至ってこれを復活するの必要を感ずる。日本とは、日本政府でもなければ日本人全体でもない。日本という、ある Mysterious personality である。これを愛し、これに仕えて、われは無上の幸福を感ずるのである」
今、武士道復活を提唱する藤原正彦教授は、愛国心の中には、「ナショナリズム」(国益主義)と「パトリオティズム」(祖国愛)の意味が含まれていたという。戦後、戦争の元凶としてGHQにより愛国心が葬られたが、その時、祖国愛も失われた。しかし祖国愛は大切だ、その復活にかけるのだという。内村の日本への愛も、その祖国愛に近い思いであったと思う。

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人間とは何か

人間とはまず、体である
これは目に見える

次に心である
これは心理学の対象だ

そして精神である
深層心理学が関心を持っている領域だ

この三者の関係の中に
生きた人間がいる

体の病気は
精神の病を知らせるためかも知れない

精神が健康であれば
体も強健である

心の異常は
精神の問題でもあるのだ

人間は心と体だけではない
もう一つ、精神の領域がある

そこは人間と神とが
出会うところである

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2005年11月18日 (金)

救いの確証

マックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本があります。カルヴァン主義と資本主義との関係を論じています。カルヴァンの予定説に触れて、自分の救いはどうなるか分からないという不安の中で、救いの確信を得るために職業に励む、その過程で金儲けに積極的価値が与えられて、資本主義を前進させていったというのです。これは、その後の西洋近代を超えて、現代の問題にもなっています。しかし、いつもひっかかっていて、分からない点があります。
カルヴァン主義の中で、救いの確証を得られない人がいたということが、なかなか理解できないことです。
その人たちは、教会の誕生となり、信徒の原点でもあるペンテコステの聖霊体験以上の何かを求めていたのでしょうか。そんなものは地上にはないだろうと、私は思います。

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想像と幻

想像とは不確実な可能性の世界に遊ぶこと
幻とは確実な可能性の接近

想像とは自発性の段階での探求
幻とは外からやってくる充満した時の開示

想像とは三次元のうちのこと
幻とは三次元のうちへの永遠の突入

幻に捉えられる時をカイロスといい
絶対受動を条件とする

カイロスの幻を受容して
創造のわざが始まる

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唐突な批判

子供が親に語りかける
妻が夫に語りかける

親は、夫は、「はてな?」と思う
自分への唐突な批判が込められている

批判をかわすのは容易だけれど
何か後髪を引かれるようだ

子供は、妻は
本当は何が言いたかったのだろうか

子供は、妻は、自分の心の危機を
訴えていたのではないだろうか

直接には、そう言えず、それとなく
親に、夫にシグナルを送ったのではないだろうか

その解決を求めて
親に、夫に救助を求めたのではないだろうか

この時代、心を守ることは
何よりも大事なことだ

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国家の品格

藤原正彦・お茶の水女子大学教授が新刊、新潮新書『国家の品格』を出しています。新刊は久しぶりでしょうか。この人の本(文庫本)は、表題に数学とか数学者という言葉があって、難しい学問の話かと、少し敬遠していたのですが、読んでみると、意外に面白い。日本語も分かりやすく、明快である。痛快でもある。そこで、ほとんど本は読んでしまいました。母ていさんの、戦後の帰国物語も感動して読みました。しかし、父の新田次郎さんの本は一冊も読んでいません。
久しぶりに、あの痛快さに接することができるかと、期待しています。

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2005年11月17日 (木)

近代の超克

自分の心のうちを見ることは大切なことだ
そこに命があり、命を受け止めるところだから

しかし、自分の心だけを見て
それにのみ生きることは危険なことだ

自分の心を支配しているものが
それでは、分からないからだ

近代日本の個人主義者たちは
精神の狂いを経験したではないか

歴史、自然、社会が
自分の心のそとにある

それらは、心と共鳴しあっている
それらの意味を聴いて心は喜ぶ

その共鳴に生きる時
万物は再び、統合されるだろう

こうして、人は再び
生きる道を見出す

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日本の神々

かつて駅前広場で車上演説をしている人がいた
「日本民族精神の昂揚」という言葉が車に書いてあった

演説は、森・前首相の「神の国」に及び
「日本は八百万(やおよろず)の神々のいる所」と説明した

他の宗教は一神教だが、
「日本は神々の国で、一神教の国ではない」と強調していた

戦争を起こすのは一神教の国々なのだという意識がある
まあ、分からぬでもないけれど

しかし、日本精神の根本が相対主義なら
かつて国民を戦争に駆り出していった力は
一体、どこから来たのだろうか

一神教に抵抗する間に
自らも一神教的になったのかも知れない

国家神道以前の神道精神を高調するのであれば
「神の国」発言で、こんなに抵抗はなかったはずだ

国家神道は価値相対主義の体系なのだろうか
そうではないような気がする

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進化とトゲ

動物は自分の方が進化していると思い
動けない植物をバカにしている

そこで造物主は植物にトゲを贈られた
トゲは通常は目立たなかった

動物は自分の食物にしようと植物を根こそぎにしようとした
トゲは動物を刺し、動物は痛みと出血で思わず我に返った

トゲは相手を傷つけるのが目的ではないが
無法者には実力行使する

さて、動物が植物を食べるのは当然ではないか
造物主は、そのように自然を造られたのではないか

確かに進化に歴史の目的があるかも知れないが
強い者は何をしてもいいということではない

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ラジオ深夜便

NHKのラジオ深夜便を聴いています。夜中なので、その間、起きているわけにはまいりません。そのため、小型のデジタル・レコーダーに録音して、昼間、聴いています。大切な情報に接することができます。たとえば、心と脳の関係など、現代人にとっては必要な情報です。深夜に流れる戦前の音楽番組など、本当に貴重なもので、この番組に対するファンは全国に多いのです。生活の質向上のため、一度、聴かれることをお勧めします。

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「自由と民主主義」のために

米国は「自由と民主主義」を世界に広めることに聖なる使命を感じているらしい。日本も、それに同調している。
米国のそもそものスタートは英国からの独立であった。英国の宗教が国教で半分カトリックという性質に反発して移住したプロテスタントの人たちが米国を建国した。宗教の自由を求める意識は、米国人の意識の根幹に今でも根強くあるのだろう。それを世界に拡大する時、別の体制を持つ国家たちは脅威を感じるのではないか。米国流の自由を受け入れていたら、国家をまとめる理念が崩壊するかも知れない。米国の場合はキリスト教・プロテスタントという主要な宗教があるので、それを使って国家の分解を防ぐことができるが、そのような普遍的宗教がない場合は、自由の輸入ということは、悪の解放につながるのではないだろうか。これは怖いことであり、イランで、実際に起きてしまった。北朝鮮が不安を感じるのも、そこにあるのではないか。
「自由と民主主義」の宣伝が、キリスト教とセットになっていれば、その矛盾は解消するが、イスラム国家の反発を買う。世界に起きている。
戦後、日本もキリスト教宣教師を盛んに受け入れたが、それはマッカーサーの意図にそうものであった。日本という国は神仏習合など、そもそも多様性を受け入れる国であったから、なんとか民主的な国造りができたかも知れない。しかし、そうでない国家の場合、「自由と民主主義」は個人が確立されていないと、逆効果があるのではないか。米国の攻勢を受けている国で、では個人の確立を、では、どうするのか。そのプログラムがあるのか。そんなことを感じてまう。

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2005年11月16日 (水)

真理の伝達

「どうして、おじさんは例え話ばかりするの?」

「真理を伝えたいからさ」

「真理なんて、今時、はやらないのになあ」

「けれど、ある人たちにとっては緊急事だよ。死にそうな人に命をあげるようなものなんだ」

「なら、分かりやすく、ずばり、本当のことを語ったらいいじゃない?」

「それが出来ないんだ。だから例え話になってしまうんだ」

「なぜ?」

「人間の認識というものは媒介が必要なんだ。真理伝達に、その媒介を使う時、曲解されて伝わることが避けられないんだよ。曲解が起きた時には、伝えられた内容は、正しく伝わっていない。だから、そこでは、その人にとっては、真理は例え話のようなものだ。だから、最初から例え話と言った方がいい」

「そんな曲解の恐れがある話なら、真理なんて所詮、伝わるはずがないじゃないかなあ」

「しかし、媒介を使った伝達でも、みなが曲解するのではなくて、中には正しく解釈する人たちもいる。そういう人たちにとっては,真理なんだ。だから、例え話でも話した方がいい。何人かでも、正しく理解する人がいる可能性があるからね」

「ふぅーん。何か、ややこしいなあ」

「そうだね。媒介以上の伝達に、直観による伝達があるけれど、それは天使なんかの認識でね。人間の場合は、媒介なくして直観はない。媒介は意思の伝達には不可欠なんだ。そして曲解が不可避である以上、真理の伝達は例え話にならざを得ない。例えば、神はいるのか?という問題があるよね」

「神はいると思います」

「それ、正しい判断」

「けど、神はいないという人もいます」

「それも正しい判断」

「そんな判断をする、おじさんの頭はおかしい」

「それは間違った判断であることを強く主張します」

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とんでもない国

日本という国は
とんでもない国である

マスコミが伝える日本は品格もなく
とんでもない国である

サタンの跳梁跋扈する
とんでもない国である

そんな日本が非難されても
あえて弁護する愛国心はない

しかし、日本はそれだけではない
マスコミの知らない日本がある

隠れた日本は
美しく、偉大である

それを知る少数者がいる
彼らが明日の日本を造るだろう

日本という国は
とんでもない国である

あるいは大変な使命を負わされている国
なのかも知れない

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セルフ・カウンセリング

人間は生きていると、いろいろな問題にぶつかります。その中で、一番やっかいな問題は、自分の心の問題かも知れません。そのためには精神科医とかカウンセラーという専門家がいます。しかし、相談に行きにくいと思っている人の多いのではないでしょうか。できたら、時間をかけずに、自分ひとりでできないだろうか。
そんなことを考えている人に朗報があります。『セルフ・カウンセリング ひとりでできる自己発見法』(渡辺康麿著、ミネルヴァ書房)という本があります。本によれば、著者は自己形成史分析学会会長とのこと。
セルフ・カウンセリングなので、いつでも、どこでも出来るのでしょう。このような実践を日常生活の中に取り入れることは大切と思います。

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生きることの解剖

生きるということを解剖してみれば、肯定と否定の中で生きている。その中で、否定というものは、肯定に支えられている。肯定のない否定はない。この肯定を考える中に自分がある。人生は、ここからしか前進しないと思う。この肯定の彼方に神を、人々は考えてきた。だから、人は神なくして生きていられないのである。人生の何かを肯定しないで、人は生きられないということと同じことを指している。

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2005年11月15日 (火)

親鸞の謎

親鸞にとって、法然という人物は理想的人格だったのだろう。歎異抄によれば、弟子が「南無阿弥陀仏」と唱えた時、喜びがないのだが、と問うと、私もだ、と答えたという。では、なぜ、この教えなのかというと、師・法然に教えられたからだと、親鸞は答えた。
長く、この部分が分からなかった。宗教というものは、何かしらの体験から始まるのではないか。その体験がないというのは、宗教にとって致命的欠陥ではないのか。聖書では、イエスに出会った人が、キリストに会ったと言い広める。その言葉を頼りに、実際、イエスに会い、彼がキリストであったと分かった、という記事が出ている。
これが宗教的体験なのだとすれば、親鸞の場合には、念仏の意義をかくも強調しているのに対して、その効果・体験というものが、余りにもあいまいではないか、というのが私の感想であった。念仏唱えて、本当に救われるのか、そういう疑問が出ても、当然ではないか。しかし、彼は、「南無阿弥陀仏」を信じたというよりも、法然を信じたのではないか。法然の人格を信じたのではないか。法然の中に、「キリスト」を見出したのではないか。そう考えれば、納得できるのである。

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人は「物」か

17歳の少年が人を殺した
殺人を実験してみたかった、というのが理由のようだ

卒業記念文集に「人は、どういう物か知りたい」と書いた
彼は人を「物」と書いた

それは、すでに殺人の予告であった
しかし、予告と気づいた人はいなかった

人を「物」と見る時
殺人の悪が分からなくなる

そして、人を「物」と見る人たちは
今、大勢いる

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未来への視線

癒しというものは普通、過去に視線を向ける
そして過去の傷の原因を探る

しかし、未来を創り出す希望の中にも
癒しがあるかも知れない

現在の解決のためには過去だけがあるのではなく
未来もまた、現在の解決のために使えるかも知れない

癒されない傷には、過去に視線を向けるのではなくて
未来に向けよという意味が込められているのかも知れない

20世紀の物語の意味は
今から書かれねばならない。

そして、今を生きるには
未来の神話を考えねばならない

その神話は空想・幻想ではなくて
確かなものに基づかねばならない

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過去に生きる

「若者は夢を見る
そして、老人は思い出に生きる」と恩師は言った

過去を語ると
「思い出に生きる」と勘違いする人たちがいる

その違いを知らずに
混同する人たちもいる

過去は、よく見れば
現在と繋がっている

現在とは過去の蓄積なのだ
その過去に生きることは、現在に生きることと同じこと

大切な過去にしがみつくことで
現在は豊かになり、安定もする

いたずらに、現在と未来にばかり目配せすると
言動に統一と安定を欠くことになる

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父探し

日本社会の母性的性格が議論され、強調されたことがある
しかし、今、新たに父性が要請されているのではないだろうか

戦前は、強力な父性社会であった
敗戦で打撃を受けて、やわらかな社会が生まれた

それが悪いというのではないが
社会には骨っぽいものも必要だ

今の小泉人気というものも
それと無関係ではないかも知れない

日本は今、
新たに父を求めているようだ

父はどこにいるのか
戦死した父は九段の靖国神社に眠っている、と言う人がいる

そう言われれば、そうでもあるが
実感の中で、そう思ったことはない

しかし、そういう人たちと
それは戦前回帰につながる思想と反対する人たちがいる

父は必要、しかし、靖国の父を超える父を探さなければ
国際社会に生きる日本としては、今、ちと、まずいんじゃあないだろうか

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2005年11月14日 (月)

イエス観

「史的イエス」と「信仰のキリスト」の関係が関心を集めていた時期があった。史的イエスに対する関心は、どこか既存の教会に対する反発と裏腹になっていると思う。今も、史的イエスに対する関心が続いている。
私は、この議論に入る動機を余り持たなかったが、今でも、そうである。
異言体験のない私はペンテコステ教会の信徒ではないが、その主張には共感するところが多い。異言を伴わない聖霊体験もある、という主張を、私はしたい。あの聖霊降臨日の体験があってから、教会がスタートするのであるから、その原点に帰ることを全教会に訴えている限りでは、ペンテコステ教会の信徒でなくとも、全信徒たちが同感するのではないか。実は、この原点を忘れている教会と信徒が多いからである。そして、聖書は、この体験の中で生まれていくのであるのであれば、その制約を払ったところで、イエスという人物の実像を探ろうとする努力は、聖書の外に、その人物の姿を探ろうとする努力を意味するし、難しいと思う。
それに、そのようなイエスを知ったところで、余り意味がないのではないか。なぜなら、人生のむなしさ、死の不条理の解決など、人の実存の問題の解決が重要だからだ。史的イエスには、私の実存の解決となるものを持っていないのではないか。解決は聖霊であって、史的イエスではない。探求されている、対象化できる史的イエスは、われわれに決断を迫ってくるキリストではない。もし、史的イエスが決断を迫るような存在となるのであれば、それは、どこかで「信仰のキリスト」に性格が変化しているからではないだろうか。

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諸教団の魅力

これは仏教でもキリスト教でも同じと思うが、教団人としては、他の諸教団の魅力という誘惑を感じることはないであろうか。その時、内心でゆれ動く信仰心に対して、どう処理しているのだろうか。
わがうちに、諸教団の魅力に目移りする感情があることを思うにつれて、われわれのうちには、所属教団というものによって自己限定されることに甘んじられない何者かがいるのではないだろうか。
教団には人間の作る部分もあるのだから、その限りでは相対的部分もあるはずである。しかし、歴史の中で、どこかで絶対化が起きる。それは間違いだから、批判勢力が生まれる。その声を聴いて、誠実に対応することが教団の健全化のために大切なのだが、その過程をおろそかにしてしまう。やがて教団が分裂する。こうして中世が終わったのであれば、その限りでは、これを是としなければならないであろう。そして、断片化した諸教団が誕生する。元来は一つであったのだから、この断片化した教団のどれもに魅力を感じるのは当然なのだ、と言えるのであろうか。

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近代日本の終焉序曲

日露戦争の勝利あたりから日本はおかしくなったと、司馬遼太郎さんは『この国のかたち 1』で言うのですが、そのあたりのことを調べた新書が出ています。『日露戦争 勝利のあとの誤算』(黒岩比佐子著、文春新書)です。近代日本の終焉序曲を描いたものでしょう。司馬さんに触発され、司馬さんの衣鉢を継ぐ方の一人を激励したいという意味を込めて、購入しました。

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教団の必要

宗教が、その真理を時空を超えて運ぶためには、やはり時空の中での教団が必要であろう。ただ、その教団をどう理解するかが問題である。多様雑多なものを運ぶ教団の中にあっては、その雑多なものを選択すればよい。その選択が体質的に難しい人たちは、余り選択の余地を残さない本質的なものを明示し、それで形成されている教団を選ぶがよい。教団は、その中の真理に関しては人の生の目的かも知れないが、同時に、その周辺部分に関しては手段でもあるので、教団を目的化して絶対服従を誓うなどという態度で信徒たちが対応していては、逆に、そんな対応が難しくなる場面も出てくることもあるだろう。教団のおける相対部分は手段化して考えないと、偶像崇拝という過ちを犯すことになるかも知れないのである。

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正・反・脱の思想

ヘーゲルの弁証法思想は正・反・合といわれる。しかし、正・反・脱の新しい考えを提示している人がいる。笠原芳光氏である。その思想は、『イエスとはなにか』(笠原芳光、佐藤研編、春秋社、2005年)の30-31頁に詳しく語られている。要約すると、こういうことを言っておられる。
ヘーゲルの弁証法は正反合で語られている。しかし、イエスは「反」ではなく、「脱」である。「反」のあとに来ている「合」は、新しい「正」としての制度・組織を意味している。しかし、イエスは、そのような「合」ではなく、「脱」である。その論旨は明快である。
「脱」は「反」を生まない。その意味で、イエスはソーシャリストではなく、アナーキストであった。ソーシャリストは、「正」の立場をつくる。自分が権力を持ち、独裁国家を作る。
なぜ、この思想に関心を持つのかといえば、宗教と教団の関係に関して考えさせられるからである。教祖がいる。そして教団ができる。その思想が伝えられる。それは当然、歴史を形成する。その中では、やはり正反合の歴史形成をしていくのであろう。だが、その教団の中には、信徒の生きている環境社会とはほとんど意味のない、遠い国で作られたものたちがいて、信徒たちを、その中で形成しようとしている。これは、どんな教団でも同じであろう。その時、そのような遠い国の歴史的・信仰的「遺物」を取り除くことが出来れば、あるいは信仰にとって最も肝心な要素を、自分たちの周囲にある要素を集めて再構成できるのではないだろうか。この実験が、日本では無教会、あるいは内村鑑三という人物によって行われたのではないだろうか。内村が今も、注目される理由は、このへんにあるのではないだろうか。
笠原氏は、自分の生き方の中で、この正反脱の思想を紹介しているのだろう。イエスに従うことは、キリスト教会が信徒に求めていることだが、イエスの生き方は、では、どうなのか、そう問い返した時、信徒たちは笠原氏の問題提起に回答しなければならないであろう。
なお、笠原氏は、『イエスとはなにか』の中で、こういっておられる。
「キリスト教の歴史はカトリック、プロテスタント、無教会…というように正反合の連続なんです」(31頁)。
この個所からは無教会が「合」と読めるが、違うのではないか。無教会は意識的にはプロテスタントであり、「正」と同じ性質になる考えはないのではないか。

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2005年11月13日 (日)

『鈴二つ』

新保祐司氏の近著に『鈴二つ』(構想社)がありますが、その中に、ベルジャーエフの「新しい中世」についての言及があります。

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2005年11月12日 (土)

あいまいな日本語

「ありがとう」の意味を込めて
「すいません」という日本人

「すいません」とは、まずは謝罪の言葉なのだが
感謝の意味でも使われる

何も謝る必要はないのだが
人間関係の潤滑油として、よく使う

「ありがとう」では、自分が偉そうに見えるので
「すいません」と言って、自分を下手に置く

こんな配慮は
日本人でないと、分からない

感謝の意とは知らずに、謝罪ばかりしている日本人を見て
外国人は、マゾ的人間国家と錯覚するかも知れない

あんたがたは、そんなに打たれたいのか
それに快感を覚えるのか

しかし、「すいません」を、まともに謝罪ととられては
「ちょっと、待ってくれ」と言いたくもなるだろう

謝罪は日本人にとっては容易なことだが
それは感謝の意味においてである

朝のコーヒーを一杯飲もうと、店に行けば
最近は接客マナーが徹底していて

「ありがとう」とは必ず言うが
「すいません」とは、聞いたことがない

「ありがとう」と言った方がいいかも知れないが
口をついて出てくる言葉は「すいません」

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違法

違法とは、やってはいけないことだが
あえて、それを行う確信犯がいる

昭和40年代の学園紛争の時
そんな声を聞いた覚えがある

「合法の中では真理は伝わらない
だから違法の宣伝性を利用するのだ」

一時、それは奏効したが
空中で、くだけ散った

合法性は必ずしも真理ではない
しかし、遵法は時に隣人への愛の証しにもなる

ガンジーはあえて違法を行い
インド独立をなし遂げたけれども

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貯金運動

貯金は自分のためと思っている人が多いだろう。私も、そうであった。しかし、そうでなくともよい。
たとえば、二宮金次郎のミニチュアを作り、それを貯金箱にする。それを見るたびに、彼の生活と実践を少しでも思えば、ミニチュアを作るだけでも意味のあることだ。次には、それを使って貯金をする。その貯金を自分のためにではなく、社会福祉のために使う。たったこれだけである。誰にでも出来ることだ。こんな実践が、自分の生活を底辺から変革していく力になるのではないだろうか。

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偉人の母

千円札の顔になった野口英世には、これまで本とか映画などで何度も考える機会があった。偉い人だったと思う。しかし、母も偉かったと思う。困難な家庭を支え続けた、あの母がいなかったら、野口英世という人物はいなかったと思う。千円札の顔になったということは、野口英世に見習えという意味も込められているのかも知れないが、彼のような人物が出る土壌としての、彼の母のような精神的自立の人が、まず多くなること、それが普通になること、そんなふうにこの国の風土を変えていかねばならないだろう。

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二宮金次郎

6年間、お世話になった小学校の校舎が改築されて、以前とは違ったものになった。しかし、残ったものが一つある。二宮金次郎の銅像である。薪を背負い、少し前かがみになって、本を読んでいる、あの銅像である。
小学校に、あの銅像があるということの意味を考えてみた。一つは、教育というものは自発的なものということである。共同生活や集団教育も大切だが、教育の基本は自発的なものだと思う。それから、破綻しつつある生活の復興のシンボルとしての意味だ。これらは今日の私の課題でもある。小学校という人生の初期段階で、あの銅像とめぐり合ったのは幸せであった。一生、あの銅像の意味を考えていきたい。そのためには、各家庭になければならない。過日、横浜・中華街に行ったが、ミニチュアの中国産の像が、縁起物として多く、売られていた。あの二宮金次郎の銅像のミニチュア版が売られたら、きっと買うであろう。それにしても、ないのが不思議だ。こんな発想はだれもしないのだろうか。

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アイ・ラブ・ユー

以前、NHKのラジオ深夜便で、臨床心理学者の河合隼雄さんが、米国人のよく言う「アイ・ラブ・ユー」の意味を明かしてくれました。「それを言わないと、離婚に発展するかも知れない」と。ほんとにそうなの、って感じで聞いていました。日本人としては、その言葉はなかなか恥ずかしくて言えないのですが、米国では、逆に言わないと、大変なことになるようです。これが米国で離婚の多い理由なのだそうです。家庭というものを、男女二人の愛情で維持している現実を見て、日本はとうてい、そこまではいかないと思いました。しかし、ラブには、エロス、フィリア、アガペと、内容の違いがあります。米国人たちがアガペの意味で使っているのであれば、離婚は絶対ないでしょうが、それがあるということは違う意味で使っているのでしょう。戦後、米国が何かと基準になっている日本ですが、ほどほどに、というところでしょうか。

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2005年11月11日 (金)

もう一つの見方

救いが人生の目的なら、
いとも簡単に手に入れられる

南無阿弥陀仏の一言、
そして「信ぜよ、さらば救われん」

宗教の目的が、そこで終われば、
果たして、信者に目的喪失の病気は起きないか

しかし、イエスは言われた
「あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい」
(マタイ5・48)

父なる神は無限である
その完全を目指す努力には終わりがない

完全になれ、とは
自己実現への招き

そこに、終わりなき
宗教の目標がある

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回転の空しさ

同じ所を何回も
ぐるぐる回って飽きない人たちがいる

そんな人たちにとって文明の進歩とは
回転の速度が増し加わるだけのこと

立ち止まり、「人生の目的は?」などと反省でもしたら
たちどころに地獄にでも落ちると思っているのだ

しかし、地獄の入り口らしき所から
別の細い登り坂が続いている

そこでは、身を低くして、ゆっくりとしか進めないが
光と共に展望のある景色が少しずつ、眼前に広がってくる

その景色の情報をいくらか伝えると
忙しく回転している人たちも喜ぶのだ

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現代の贅沢

一日中、狭い部屋に一人いて
楽しいと思う人がいる

しかし、逆に
辛いと思う人もいる

辛いと思う人のためなのだろうか
時代は激変した

「繋ぐ」をキーワードに
インターネット時代になり

生活は便利になり
楽しみも増えた

しかし同時に忙しさは倍増
ストレスも多い

外に行かず、誰にも会わず
心中の楽しみを満喫する

それは現代の最高の贅沢
しかし誰もそれを贅沢とは思わない

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国立戦没者追悼施設

やはり、靖国神社とは別に、国立の戦没者追悼施設を作った方がよいような気がします。その時、無宗教と言われていますが、死者の追悼という、宗教的行為そのもののような行事を無宗教でやるというのは、どんな意味があるのでしょうか。政教分離の原則に従い、というのが、無宗教の理由なのでしょうが、無宗教=無神論=宗教締め出し、といった理解をするのであれば、それは誤解ではないでしょうか。無宗教というよりも、無宗派といった方が誤解がないのではないでしょうか。国教禁止という憲法原則は、一つの宗教、一つの宗派を国家護持しないという意味で、戦没者追悼施設からあらゆる宗教を締め出すというのは、感覚的におかしなものを感じます。むしろ、宗教・宗派・無宗教すべてを包含して、という意味の方がふさわしいような気がしています。そうすれば、首相も天皇も外国の国賓の方々も、みな、心置きなく、戦没者を思うひと時を持つことができると思います。
この問題は、日本が近代から離れることを意味します。現代は近代ではないのだ、その時、近代の延長上にあるような誤解を与えるのが、首相の靖国神社参拝なのでしょう。

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信念の形成

どんな逆境にあっても
生き抜いていける力が欲しいと思った

そのためには信念の形成が必要だ
では、信念とは何か

あこがれの、強い、理想的な自分になるための
魔法のような技術なのだろうか

省みるに、心の中と、心の外は無関係ではない
見る世界と、それを見る主体が共にある

実在は見る世界と思いがちだが
見る主体にも目を向けよう

私の周囲に歴史があり、世界がある
その中での私とは何か

その自己理解の深まりが、同時に
信念の形成をもたらすのではないか

信念の樹は歴史の中に、また世界の中に、既に広がっている
その樹に、どう結びつくかが信念の形成の意味でもあろう

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神学大全

創文社からトマス・アクィナス『神学大全』の翻訳が続いている。プロテスタント的視点からは宗教改革の対極にいる思想的巨人のイメージがあり、興味を持ちにくいのだが、彼はイデオロギーを固持する頑固な人物ではなかった。反論、異論を丁寧に取り上げて、それに対して自分の主張を述べるといった、手続き的にはむしろ民主的な人であった。ただ、16世紀後の混乱の中で、対抗宗教改革イデオロギーの原点に位置し、後継者たちも、そのように取り上げていったのだ。『神学大全44 聖体の秘跡(執行)』の版元の説明文には、「犠牲としてのミサという問題を考察するにあたり取り上げる三つの異論には、16世紀の宗教改革者たちの議論が基本的にすべて含まれている」とある。今、プロテスタント信仰ではトマスをどう読むのか、この部分が展開していくならば、教会相互理解は一層深まるだろう。

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2005年11月10日 (木)

親の願い

子供は親の所有じゅないが
親がいなけりゃ、子もいない

別の人格同士でも
遺伝子効果は気味悪い

親の願いはただ一つ
子よ、ただ幸せであれ

お前の不幸は
見てられぬ

義理・人情を押しのけて
自分を通した親不孝

それでもいいよ、幸せが
死ぬ時、頼りになるならば

一人であの世に行く時に
何がお前を助けるか

親は長くはいないのだ
みな、一寸先の闇を行く

みんな、そのこと知っている
みんな、そのこと忘れてる

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司馬さんとの対話

書店に司馬遼太郎という作家の本が並んでいる。日本はあと10年くらいは司馬さんと対話していくような気がする。
僕が司馬さんを知ったのは比較的遅く、その点では残念であった。竜馬を読んだのもつい最近のことだが、面白かった。若いころは西洋に目が向いていて、日本に興味がなかった。そんな人が多いのではないだろうか。日本の歴史にも興味がなかった。司馬さんは、日本は面白いぞ、日本の歴史も面白いぞ、と教えてくれた。確かに、その通りであった。しかし、別の作家の場合、その興味が湧いたかどうか分からない。それにしても、司馬さんは、見てきたように書いているのだが、他の作家では、ちょっと真似ができないだろう。
今は西洋と日本を比較しながら、考えていけばいいのだと思っている。当分、そうなるだろう。それにしても、日本人は歴史好きでありながら、隣国から歴史意識を問われるとは、残念だ。歴史意識ではなくて、歴史観がないのかも知れない。日本の歴史全体をどういう歴史観で解釈していくのか、それが問われているのかも知れない。

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犠牲

犠牲とは
他者の自己実現のために
自らを手段と化すことをいう

だから、他者に自己実現の意志のないところには
犠牲もまたない

そんな他者はいない
とは言えないようにも思える

自己実現のことを
別の言葉で救いともいう

人の生の目的は自己実現
すなわち、救いにある

自己実現は内との関係
救いは外との関係

この両面を見て、はじめて
元来同一の両者は
おのおの健全な姿となる

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現代の性格

われわれは現代に生きている。
日本の現代とは、敗戦後のことであるが、西洋では少し違うらしい。年表によれば、ロシア革命のころから「現代」なのだが、そこにはソ連誕生への期待が込められていたのだろう。今となっては、その時代区分は少し変更した方がよいかも知れない。
ところで、現代と言ったとき、今という意味しか持たないだろう。「現代の性格」といったところで、それは歴史の中で性格づけられてはいない。しかし、「新しき中世」という言葉は、歴史の背景なくして理解できない言葉である。「現代は新しき中世である」といった時、その意味を問われるであろう。
こうして、現代の解明の試みが始まるのである。現代を人類史の中で位置づける試みなくして、現代を正しく生きることは困難ではないだろうか。

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王様気分

僕は決して富んでいるとは思わないが
朝、起きてみると、王様気分だった

今、物の多寡で幸福を計ろうする風潮があるが
王様気分は物では買えない

逆に物がない方が王様気分を得やすいかも知れぬ
もちろん、なかなか国家の政策にはしにくいだろうが

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危険なおせっかい

救われるには、救われたいという動機が必要
その動機づけのための、危険なおせっかいがある

動機は逆境の中で強化されるもの
逆境は、普通は悪といわれる

善のために悪をしよう
悪もまた善の原因なのだから

これは深遠な神の論理
単純な人間が、こう考えれば刑務所行きだ

しかし、こんな論理の破綻に気づかない
囚人もいるかも知れない

人は単純に善を求めればいい
そして、善を主張すればいい

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2005年11月 9日 (水)

善悪二元論

米国のカウボーイ映画の中で
善悪二元論を知った

この伝統はスターウォーズにも引き継がれ
相変わらずの勧善懲悪のシナリオ

善玉と悪玉とが争い
善玉が勝ってハッピーエンド

一種の爽快感があって
うっとうしいフランス映画より後味がよかった

その十字軍的発想はキリスト教的であろうか
いや、マニ教的なもの、疑似キリスト教的なもの

善玉と悪玉の戦いは光と闇との争いではない
闇は光と争わないし、争えないから

闇とは光のない状態のこと
光があれば、自然に闇は退く

反抗する悪の勢力というのは
浅い見方ではないのか

争っているのは善と善、光と光
残るのは、より大きな善、より強い光

征服ではなくて
対話と説得の方がよい

中世、十字軍の反省から
一つの修道会が生まれた

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サドとマゾ

信仰の中に
サド的要素とマゾ的要素がある

神と共に全能となり
神に絶対服従する

神という項目をなくしたら
サドとなり、マゾとなるだろう

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親孝行

我が子よ、幸福であれ
それが親への最高のプレゼント

親孝行など、お前から受けずともよい
親の望みは、お前の幸福だけなのだ

だから、我が子よ、幸福の鍵を見つけたら
親に相談せずともよい、その鍵を使うべし

そこでためらいがあろうとも
やがて時が、お前の真意を伝えるだろう

お前が幸福になることが
最高の親孝行と思うべし

もしも、お前が地獄に落ちたなら
我が結婚の悔いは終わらない

我が子よ、地獄を恐れよ
いつ、死ぬか分からぬ身よ

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異なる気分

江戸時代は近世である。しかし、西洋で言えば、中世的気分である。両方とも中央集権的で、激動の世紀ではない。西洋では中世から近世への激動の世紀への移行したころ、対抗宗教改革の中で宣教熱が高まり、ザビエルが日本に来た。そこで、その教えを受け入れれば、日本も西洋同様に激動の近世を経験したかも知れないし、気分的には一致したかも知れない。が、あるいは西洋の属国となったかも知れない。和辻哲郎は、戦後、まもなく、この鎖国を批判するような著書『鎖国』を出している。日本は西洋の属国とはならなかったであろう、という。しかし、小さな島国で、西洋近世のような国家群の対立抗争の時代は考えにくい。西洋の近世の気分は、日本では、むしろ明治以降の近代であろう。こうして、敗戦を迎えたが、世界大戦であったため、日本も西洋も同時の経験であった。西洋の近世が長く続いて経験してきたことを、日本では、あるいは明治以降の100年足らずの近代の期間に駆け足で経験してしまったのだろうか。明治元年は1868年、100年後の1968年は、日本では大学紛争たけなわのころである。

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日本の中世

浄土真宗の寺院の住職で、ドイツの近現代史を専攻された学究で、マックス・ウェーバーの研究者でもある野田宣雄氏の著書に『二十一世紀をどう生きるか』(PHP新書)がある。ここでも「新しい中世」という言葉が登場する。しかし、少し違和感があった。著者は、近代資本主義とプロテスタンティズムの関係をウェーバーに即して考えつつ、その終焉を予想している。そして、近代資本主義のあとに、親鸞の生きた時代に似た時代が来ると考えて、それを「新しい中世」という言葉で表現しようとしている。親鸞の生きた時代というのだから、日本の時代区分のことであろう。しかし、私は「新しき中世」を日本の文脈で考えたことがなかった。これまでも、一般的には、そうだったのではないだろうか。
日本の時代区分としては、中世は1192年から始まる鎌倉時代から1573年の室町幕府の滅亡あたりまでで、それ以後の安土桃山時代・江戸時代は近世、明治維新以後が近代で、敗戦後が現代というものだと思う。親鸞は1190年から1262年までの人だから、確かに日本の中世の人である。その時、日本には現在まで続いている仏教教団の革新的人物が多く輩出した。その意味では、西洋同様、宗教的時代であり、その影響が現在まで続いているということでは類似点があるかも知れない。

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「笑い声の中」で

hitomiさんの「MARIA」の中に、こんな個所がありますね。

「笑い声の中を何度もさまよい 僕はやっと気づいた
人の理想の中でかろうじて生きるなら 今は愛を見つめ歩こうと」

この「笑い声」というのは、そのあとの「何度もさまよい」という言葉との関係で考えると、友情と理解にあふれた、元気を与えてくれる笑い声ではなくて、逆に嘲笑なのでしょうね。そこでは、「僕」はあざけられ、またいじめられているように思います。

生きるのが下手になって、異質なものとして、周囲の無理解に囲まれ、つきずきそうになり、それでも、何とか理想を掲げて、かろうじて生きようとしている。

今にも、吹き飛ばされそうな、そんな孤独な、社会から疎外された「僕」が、そこにいますね。なにやら、宮沢賢治の「雨にもまけず」の詩の主人公のような。「かろうじて生きる」もいいですね。われわれの生とは、本当に「かろうじて」といった危ういものです。その中で生を支えてくれるものを見つけた。愛という人生の目標を見出した。そこで生きようと決意した。見つめとは、その対象に集中しようということでしょう。そうしなければ、生きられない、とか。

この詞を思うと、何か、涙が出てきそうです。

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光と闇

我らは闇の下に生きている
と言っても、気づいている人は少ない

頭上の闇はただ予感されるだけ
ときたま、一人になった時に

同じ闇を心の中に感じる
そして、やがて心を食い尽くす

しかし、闇があるのは光がある証拠ではないか
彼方から光が差し込めば闇は勝てない

大きな闇が我らを覆っているのに
どうして光が差さないのだろう

そんなはずはない
そんなことは考えられない

闇の認識の背後に
光の予感があるのだから

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2005年11月 8日 (火)

風に一番強いのは
柳の枝に違いない

どんなに強風吹いたとて
折れることはないだろう

古来、日本の生き方は
そんなものであったのだ

幕府を倒し、明治世を
開拓する間に陰ができ

神国日本と言いながら
固い枝へと変質し

枝のみならず幹までも
ばっさり折れる時が来た

折れた日本は伝統の
融通無碍に立ちかえりたり

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1960年代の風景

1960年という年は賀川豊彦の逝去の年であり、ヨハネス23世が第二バチカン公会議の開催を発表した年である。キリスト教の勢力に何か地盤沈下が観察される年でもあった。

この年代にベンチャーズが登場、パイプラインによる電子的啓示が人々の心を打った。彼らの曲の中には「星への旅路」というものもあり、遥かなる他界への期待があった。アメリカでは、ケネディが大統領となり、新しい時代の息吹が感じられた。しかし、その感じは、大統領暗殺などによって、挫折していく。何か、ボタンの掛け違いが起きたのだろうか、歴史は、変な方向に進んでいった。

62年から65年に第二バチカン公会議が開催され、エキュメニズムが決断された。一つの見える教会の探求であった。21世紀と第三ミレニアム、そして新しい中世、千年王国などの観念と結びつけて、近代の終焉と、新しいキリスト教会の秩序を模索する旅が、このあたりから本格化したのであろうか。

1960年代以降、脱構築という思想が現われた(量義治著『エクレシアの探求』92頁参照)。それは今日の思想形成の最大公約数になっている。それは破壊と建設を共にした言葉だ。その脱構築は無教会の中にもあり、「先生中心」から「集会中心」へ移行していった。それは無教会の新しい生き方を意味している。

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2005年11月 7日 (月)

1961年の地すべり

『神への誠実』の著者、J・A・T・ロビンソンは、こう言っている。
「六十年代の初めには、この精神的前提は消滅し始めた。将来の歴史家は、ほぼ1961年ごろに、一種の地すべりを確認することができるであろう、と私は想像する。そのころまでは状況はかなり不動であり、あるいは、上昇さえしていた。けれども1961年から受洗者は、信仰告白者および按手礼を受けた者の数は急速に減少しはじめた。同じような状況は英国のローマ・カトリック教会においても見られる」(『福音と世界』1969年9月号)
「ほぼ1961年ごろに、一種の地すべりを確認する」とは何か。これは教会の内部のことではあろうが、私の人生が狂い始めたのも、この1961年であった。昭和36年である。もちろん、最初は狂う必要はなかったのである。そこが、私にとっては後悔の残るところである。できたら、昭和36年以前に戻りたいのである。

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昭和30年代

今、日本の映画の一部で、昭和30年代が題材とされているという。懐古の情が世間一般に高まっているのだという。過ぎた歴史を繰り返すことはできないが、なくした大切なものを思うだけでも、よりよい未来の小さな糧になるだろう。当時は共同体意識が、今よりも強かった、ということだ。競争社会の中で、社会の歯車にされている人たちが、人格を主張するためには、共同体的意識、心の交流が必要だ。健全に社会のため、健康な社会のため、失ったものを見つめるのはいい。しかし、なぜ、今、昭和30年代が、人々の心の射程に入ったのだろうか。昭和30年代以降の日本の歴史を、どうしようというのだろうか。

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2005年11月 6日 (日)

脱ニートの試み

まず、自分探しをしよう。その中で、生活の動機を探そう。その動機を大切にしよう。学歴ではなく、職人の道もあることを考えよう。大切なのは生きること、生きる方法を見出すこと。自分に満足のいく生き方をすれば、それでいい。他人の評価など気にする必要はない。また、現代社会はIT社会なのだから、パソコンに慣れることで社会との関係を構築できるかも知れない。

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日常の風景

年老いて 役目果たそう 深夜便

だらしなき 遺伝子除く 望みなく

ゴミ出して 見渡せばなお ゴミの中

生活に 品格求め 無駄はぶく

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昔話

昔、彼は強い人間にあこがれて
ナポレオンの伝記を読んだ

いじめには無頓着で、猛烈に勉強した少年時代が
印象的に語られていた

その強さを欲しいと思った彼は
人間の強さとは何か、と思いめぐらした

そして、人間を
体、心、精神に分けた

その中では、精神が一番の要と思い
自己催眠で強さを得ようと試みた

しかし、うわすべりしていくようで
長くは続かなかった

精神を鍛えるためには、どうすればよいのか
これは今の、いじめられている若者たちの問いでもあるのではないか

自分は、一人でいるのではない
生きている無数の人たち、また死んだ多くの人たちに囲まれている

両親、祖父母、そして先祖たちが、自分とは何かを教えてくれる
彼らの昔話は自己理解を深め、精神を鍛える糧を与えてくれるのだ

昔話は解釈によって、今に蘇り
強さの宿る無意識に働きかけるのだ

明日はIT革命だけからではなく
過去との対話からも開けていくのである

過去を葬る人たちに未来は開けない
21世紀の幕は上がった

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2005年11月 5日 (土)

曙光

物過剰の現代人は病んでいる
自分がどこにいるのか、
そして、どこに行くのか
分からないでいる
しかし魂の癒しを求めて、新しいメロディーを探しつつ
癒しの音楽を見つけて、その中に浸りつつ
時代は次第に新しい様相を帯びてくる
物ではない、心の時代を合言葉にしつつ
きっと明るい明日が来るに違いない

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孤独

孤独は地獄である、地獄の苦しみである
それが分からない人は、まだ孤独を知らない人だ
分かった人は、地獄があることに同意するに違いない
しかし、孤独は天国でもある
権力、金、地位、賞賛の中に天国があるのではない
天国は、孤独の中にあるのだ
これが分からない人は
まだ天国を知らない人である

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カオスに抗して

人間の生活は、少しでも気を抜けば、カオス(混乱・無秩序)に陥ってしまうものだと、何かの本に書いてあった。その通りだと思う。カオスに抗する努力の中に生活は成り立つ。こうして生活が成立するのであれば、カオスに抗しての、われわれの努力の彼方には、カオスがあるはずがない。そこには秩序があるはずだ。われわれの生活を正しく秩序づけること、これが生活の目的である。整理整頓はカオスの彼方にいる存在に対する奉仕である。大切な奉仕である。

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2005年11月 4日 (金)

アウグスチヌスの洞察

ローマ帝国の中でキリスト教が公認宗教になったのが313年、国教となったのが392年である。(ニケア・コンスタンティノープル信経の成立は381年であった)。だからアウグスチヌス(354-430)が生まれたのはキリスト教の公認宗教後で、国教になった時は38歳、その後、彼は38年間も生きていた。だから、彼が多くの著作で活躍した時のキリスト教は帝国の国教であった。これは重要なことではないか。彼は、この宗教の外的な枠を壊したくなかったと同時に、その中には不純なものがある、その不可避性にも気づいていたのであろう。見える教会と見えない教会の区別は、この国教の制約の中で生まれた洞察ではないのだろうか。見える教会の相対化の可能性を示す、この洞察が中世を終わらせた宗教改革にはずみを与えたのかも知れない。パウロ、アウグスチヌス、ルター、カルバン、その中に流れる純粋な恩寵論の継承がプロテスタンティズムの核心といえるかも知れない。

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中世社会の弁明

中世社会をコルプス・クリスティアーヌムと言ったり、その社会体制をコンスタンティヌス体制と言ったりする。プロテスタンティズムの雰囲気には、それに対する批判がある。政治と宗教の一体化、それによる腐敗、それは批判に値する。こうして近世・近代が生まれた。
中世の発端は、コンスタンティヌス大帝の回心である。彼は一人の人間ではあったが、同時に皇帝でもあった。こうして、キリスト教は帝国の中で、公認宗教となり、やがては国教となっていった。その過程で、教えが曲げられていった、体質が変化していったというのだが、E・フロムの「キリスト論教義の変遷」は、それを跡付けている。
宗教は布教し、宣教し、信徒を増やしていく。それが命でもある。その信徒の中に、世俗社会で絶大な権力を持つ人がいたら、どうなだろうか。宗教が「すべての人のため」である以上、そのような人も除外できないだろう。事実、宗教界トップの教皇は皇帝の上に位置づけられてしまった。これは教皇と、その共同体の第一義的に求めたことではなかったろうが、教会の意思を超えたところで何かが起き、それが教会に絶大な影響を与える結果となった。やがて帝国はすべてキリスト教の影響下に置かれることになった。これが中世社会であった。
われわれの生きている日本社会の憲法にある政教分離とは国教の禁止を意味している。従って、かつてのローマ帝国にような社会を望むことができない。しかし、それは宗教団体が政治活動をする自由と権利を奪っているのではない。こうして、日本では公明党の活動が認められている。創価学会が国教化を目指しているのであれば、まずは憲法改正から始めなければならない。日本では国教が認められていないのであるから、中世社会にはならないのである。中世社会的なのはむしろ英国である。日本の憲法は英国から移住した米国人の影響によるものなので、英国のような国教的発想は望まないのであろう。
さて、ローマ皇帝といえども一信徒である。その力が、果たして教会の教えを変えることにまで及ぶのであろうか。いや、その教えの純粋さは、中世の歴史の中で、たとえ見えなくとも存続していったのではないか。信徒は信徒なのだから。この点で分かれるのかも知れない。
新しき中世とは、もちろん、どこかでコンスタンティヌス大帝の回心を求めているのではない。ソ連の解体、無神論国家という実験の終わり、そのポスト・モダン社会を、あえて新しき中世という。だから、今の話なのだ。もちろん、中世の言葉を嫌う人たちは「ポスト・モダン」と言うだろう。

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2005年11月 3日 (木)

短絡思考

人間は、壁にぶつかると
誰でも、その原因を探すものだ

しかし、そこで思考の短絡が起きるかも知れない
思い込みに従い、行動する人がいる

それが、どんなにおかしなものか
その時は、当人には分からない

その行動が、時には事件を起こす
しかし、その時は、もう遅く、取り返しがつかない

長い償いの時が
その人を待っている

償いの時に、
その人は、自分の過去に向き合うことになる

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不平等

若くして有名になる人がいる
一生、無名で終わる人もいる

大富豪となる人もいれば
ホームレスになる人もいる

同じ人間なのに
どうして、こうも違うのか

どこに人間の平等があるのか
不平等だらけではないのか

しかし、心に平和があればいい
それ以外、人に何が必要か

その基準で計れば
また、別の不平等が現われる

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進化

天使のしっぽをつかまえること
それが人類の悲願、進化の目標

こうして、コンピューターが生まれた
しかし、コンピューターは天使ではない

コンピューターは天使のしっぽか
いや、悪魔のしっぽかもしれない

悪魔も、以前は天使であった
福と禍は、人類に同時に迫っている

人類が自力で天使になるのであれば
進化論を認めよう

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新しさの要請

新しさは要素の組み合わせにあるのだから
なんとか、なりそうだ

要素そのものの新しさを求められたら
立ち往生するだろう

要素そのものは身近なもの
ありふれたものである

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聖書の読み方

聖書はわれわれに
慰めを与える

しかし、その慰めは
時に間に安住することを許さない

そこに聖書の
あるいは、矛盾がある

信仰義認は聖書の教え
しかし、行いの報酬も聖書は語る

その関係の洞察に
聖書の読み方がある

その読み方で
世紀は割れた

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2005年11月 2日 (水)

止まり木

人は愛を求め
愛を恐れる

愛は最も慕わしいが故に
得たあとの消滅に恐れを感じている

それでも、はかない愛を止まり木にして
生きる人々あわれ

愛なしには
生きられないのが人間の宿命

やがて永遠なる愛にたどり着く日が
来るのだろうか

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人生の岐路

上を見たら切りがない
下を見ても、ご同様

登るか降るか
ここが思案のしどころだ

師の声響き
降れという

敗北ではないか
安易ではないのか

異論が続き
ためらいも続く

そのうち、脳裏に
ひらめいた

正解は往復運動にあり
登るも降るも同じこと

降るは敗北でも安易でもない
芥川龍之介の「糸」の視線だ

小さな親切運動の中で
下を見ていたら

いつしか、高みに
登っていた

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望郷

日本武尊(やまとたけるのみこと)は
「大和は国のまほろば」との望郷歌を残し

啄木も故郷を想いつつ歌う
「ふるさとの山に向ひて
言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな」
            (歌集「一握の砂」)

さて、僕の故郷はどこにあるのだろうか
遺伝子研究に期待したい

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魔の世界

知らず知らずに、二つの魔の世界に入りこんだ
気づいた時は、時既に遅し

一つは朝一杯のコーヒー
これがないと体の調子がおかしい

コーヒーショップの常連を見ると
この魔にやられているのは一人や二人ではない

もう一つは電子会議室とかいうやつだ
始めたら終わらない

普通の会話であれば
相手の顔を見て、潮時が直ぐに分かる

しかし、パソコン会議室では、そうはいかない
丁寧に応じていると、会話は果てしなく続く

感情が加わると、ますます深みに陥り、やめることができなくなる
会話の相手は一人ではないので、影響も大きい

これらは共に、魔の世界
離れるわけにはいかないので、その中で滅びる覚悟をしよう

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石波茂氏の信仰

元防衛庁長官の石波茂氏(自民党衆議院議員)はクリスチャンだそうです。10月19日、国会祈祷会で、自身、明かしたようです。リバイバル新聞10月30日号で報じられています。自身は4代目、夫人の曽祖父は熊本バンドの金森通倫だそうです。

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「大日」の誤訳

ザビエルが来日した当初、土地の人は、彼の「神」を密教の「大日」と誤訳した。当初、土地の人は仏教の新しい教えが来たと錯覚した。しかし、ザビエル側で、その間違いに気づいて、「デウス」という名前に変えた。これは何を意味しているのだろうか。概念として、「大日」が一番、連想が働いた名前ということであろうし、それは、今でも分かる気がする。「大日」と「デウス」の比較をしてみたら面白かろうと思う。灌頂と洗礼は似た儀式であるし、即身成仏と新生体験など、比較のテーマはあるだろう。空海が長安で、景教の教えに触れたであろうことは、よく言われているのだが、司馬さんの小説では、全く触れていない。ただ、灌頂と洗礼が同じ根を持つだろうという指摘のみであった。

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人生

小学生の時、人生を思った
そこには希望があった

それは自分のものであった
まぎれもなく、そうだった

だが、その時には死があり、
その前で、立ちすくむ人生であった

死とは何か
その本質は孤独であった

中学生となって
その孤独が去った時、死もまた、なくなった

同時に
人生は自分のものでなくなった

人生が、こんなものとは思わなかった
死後の生命を誰も知らないように

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2005年11月 1日 (火)

ゼロ点の発見

ゼロ点とは、プラス領域からマイナス領域の境にあり、一方から他方へ行くには、必ず通過しなければならない点のことである。この重要性に気づいた。

色即是空はプラス領域からマイナス領域への方向づけ、空即是色はマイナス領域からプラス領域への方向づけなのだが、これがきちんと了解されるためには、ゼロ点の発見が必要なのだ。このゼロ点がなければ、二つの領域を分けることが出来ない。従って、色即是空も空即是色も理解できないことになる。

さて、このゼロ点の理解には、別の二通りあるように思う。一つは、理性を主体として見られる世界、自然神学でも把握できる世界と、もう一つは理性を超えるものへの突破口としてのゼロ点であり、こちらは啓示が関係している。

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ニヒリズム

昔、京都大学教授の故西谷啓治氏の著書『ニヒリズム』(創文社)を読んだことがあった。その後、西谷氏はニヒリズムの研究者として紹介されたことがあったと思う。最近は、この言葉を、とんと聞かない。しかし、人間形成の途上では大切な経験と思う。ニートと呼ばれる人たちの出現は、あるいは社会的ニヒリズム現象なのだろうか。ニヒリズムは、以前は個人の問題であったが、個人の問題して取り上げている例を最近は聞かない。

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