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2005年11月19日 (土)

怖い話

怖い話というと、昔であれば、お化けの話。今では、地球外の微生物が人体に侵入して、人間の形を変形させてしまう映画が結構、怖い。米国の美人女優ドリュー・バリモアが無残にも怖い顔に変形してしまった映画もあり、怖い話だ。

お化け系の怖い話は、死者が実は生きている、ということが核心かも知れないが、今、誰が、そんなことを信じているだろうか。

死者は、どこにいるのか。復古神道の大成者で、あの世の研究でも知られる平田篤胤の「霊能真柱」は、日本人は死後、霊魂が国土にとどまると記されている。死者は生者の近くにいる。

死とは、魂が肉体を離れることをいい、その時、死者は見えなくなるが、存在しなくなるというのではない。生者の近くに、生者らとは別の形で存在する。現代人が馬鹿にしている観念かも知れないが、これを前提にしなければ理解できない行為も多い。

葬式は純粋に理論的に考えれば死者のためのもの。死者の実在を前提に、その存在のあり方に対する生者の義務でもある供養の必要を、生者のためではなくて、死者のために主張する葬式が正しく、その解釈はすっきりしている。

しかし、ここで問題なのは、死後の霊魂の存在は、仏教としてはおかしいという指摘。遠い昔、織田信長の面前で仏教僧侶とキリシタン宣教師との間で争われた。

人間は死後、見えなくなったが、実は存在していることを理解させるために、お化けなどで、死者が見える形をとって現われたのだろうか。怨念の表現としてのお化けの根底には、この事実が洞察される。

しかし、死者が別の形で生きているかどうかは誰にも分からないことだ。科学的に証明できる問題でもないだろう。そんなことを問わないのも、一つの見識であろう。

逆に、死者の死後の実在と、その存在のあり方などを問わず、葬式などの死者儀礼は実は生者のためなのだ、という転換解釈も可能だ。死者が生者に及ぼしている影響を考えた時、その中で、死者が別の形で生きているということについては合理的に理解される。

実は、生者は、いろいろな意味で死者に縛られている。死者とは、生者による未来の想像、あるいは妄想の世界にいるのではなく、過去の事実の世界に固定されて存在しているという意味では「確実」な存在である。この死者に向き合い、死者と正しく接続することの中にこそ、未来は開けてくるのだ。これが宗教の使命なのだろうか。

死者は生きている。生者が死者を思うことの中に生きている。その中に未来が開けてくる。

さて、では死者は自身として、死後、何らかのかたちで存在しているのだろうか、それとも存在していないのだろうか。まあ、こんなことをあえて問題にせずとも、死者たちとのつきあいは普通に続いている。

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