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2005年11月24日 (木)

奇跡論議

「聖書には荒唐無稽な物語がありますな。特に奇跡なんか、そうです。人が水の上を歩いたとか、水がブドウ酒になったとか、こんな話、信じられますかいな」

「そうですね。それをどう読むかですね」

「では、あなた、どう読んでいるんですか」

「まず、奇跡の意味が伝われば、それでいいという読み方がありますね。意味のことをケリュグマなんて、格好つけて言いますね。それだと、奇跡が起きたことが事実でなくても、その意味が大切、それで十分だという理解ですね」

「うん、それなら分かるかも知れないな。奇跡は実は起きなかったということで、科学とも抵触しないと、私は歓迎です」

「しかし、反論もあるんです。意味が大切で、事実はどうでもいいとなると、聖書は<間違い>で、信用できないという議論が出てくる。そこで、それはまずい、それを封じようという議論が出てくるんです」

「ほう、そうなると、奇跡は実際、起きたことになるんですな。当然、批判の嵐となるでしょうな。こんな非科学的なことを信じる現代人がいるなんて、私にはとうてい理解できませんな」

「しかし、そう言う人の中には科学的な頭脳の人もいますよ」

「へえ、どういう頭なのかなあ」

「奇跡は歴史的な事実だったと主張することで、聖書は誤りないという主張を裏書したいんです。それによって、聖書の信頼性を救おうとするんです。そんな解釈をする科学的な頭脳の人もいますよ」

「ちょっと、普通では考えられない解釈ですけどね」

「実は,一つの逃げ道があるんですよ。それは、<流れる時は繰り返さない>ということで、解決しようとするんです。科学とは因果関係を明確にし、繰り返しが起きるから、人は科学を信用するんです。しかし、それでも、完全に繰り返しが起きるとは言えない。それは、時間の流れは繰り返さないからです。厳密に言ったら、科学の法則と言っても高い蓋然性のことで、必然性ではない」

「そりゃ、そうかも知れない」

「であれば、奇跡は歴史的事実と言う命題が成り立つかも知れない。もっとも、奇跡は事実、起きたと言ったところで、それは、かつてのこと、昔のことであり、今のことではありませんよ。『奇跡は歴史的事実』と言っている人たちが、その主張を重荷に感じていないのは、そのような時間は終わってしまった、だから今は奇跡は起きないと考えているからです。ここで、普通の人の頭になるんです。時間は繰り返さないのだから、言って見れば、彼らもまた合理的解釈の主です。だから、今だって奇跡はあるんだと言ったら、彼らは、びっくりするかも知れないのです。実際、彼らの周囲の人たちが、今も奇跡はあるぞ、と言い始めたということで、最近、ちょっと、議論があるんですな」

「さて、ところで、あなたは、どんな解釈?」

「意味は大切。これは第一。そのあとは、柔軟に考えたらいい。奇跡は歴史的な事実だと言いたい気持ちも分かるけれど、まあ証明は出来ませんね。逆に奇跡は歴史的な事実ではないから、聖書には間違いがある、というのは、少し言い過ぎかな。まあ、聖書には間違いがある、という命題にはセンシティブな人たちがいますよ。気持ちが分からないでもないけどね」

「奇跡の意味ねえ。私には、そちらの方こそ、何言っているのか、よく分かりませんな」

「聖書は所詮、あなたにとっては無意味な書なんですよ、きっと。けれど、奇跡物語なんかではなくて、読んでいると、ぐさっと心に付き刺さる部分もありますよ」

「うん、それは分かるなあ」

「そんな読み方でもいいとは思いますけどね」

「まあ、聖書も論語なんかと同じ、教訓の書として読むことにしようか」

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