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2005年11月23日 (水)

中世の標語

中世的標語を思いついた。それは「動中に静あり。そして静中に聖あり」というものである。

「動中に静あり」とは、アリストテレスの自然神学、形而上学の姿勢である。彼の神存在の証明とは、まさに「動中の静」を基本とした理性的な探究そのものである。

第一原因というものは彼にとって、動中の静であった。動は静を目的としており、静を求めているのである。静は法則、あるいは不変なものといってもよい。この探究の働きが理性の最高の働きである。

しかし、人間はそれだけでは満たされないものを持っている。従って、静は聖に支えられなければならない。これは啓示、恩恵の世界である。

そしてトマス・アクィナス風に言えば、聖は静を破壊するのではなくして、強めるのである。聖に支えられない静は、人間にとって耐えられるものではない。

そこにパスカルの気晴らしといったものが登場してくる。普通の人間は修道院の孤独には耐えられない。しかし、聖に支えられのであれば、カルメル会のような観想修道院の禁域の掟に生きることも喜びとなる。

とにかく、この二段階のかかわりの中に、バランスのとれた真理探究の方法が存在している。

われわれはこの二つの真理を同時に、またこの順序で主張しなければならない。中を省いて「動中に聖あり」と言ってはならない。その時、宗教的真理は迷信に陥りやすくなる。

「動中に静あり」という立場は理性の立場、哲学の立場であり、この前提を失ったときには聖なる次元というものは人間に現われてこない。これは、人間の可能性の彼方にある啓示・恩恵の彼岸性という性格の否定ではない。

天からの恩恵の水は、受け皿がなければ、流れ去るだけであって、渇いた喉を潤す水の役割を果たすことはできない。その受け皿の必要を指摘したまでである。

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