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2005年11月20日 (日)

行為義認の問題

人の救いの条件は信仰なのか、行為なのか、そんな問題で、信仰なのだというのが信仰義認の教えです。しかし、聖書では、いや行為義認なのだという主張を裏付けるようなテキストがあります。しかも、イエスが、そう言っています。マタイ福音書25章31節から46節までに、最後の審判のもようが描かれていて、そこで、裁きの判定に、その人の行為が取り上げられています。だから、行為が救いの条件なのだと、一見、そのように思う人がいても、当然かも知れません。
しかし、そのように受け取るのは正しいでしょうか。そうではありません。最終的には、行為の背後にある、行為の主体のあり方が問われているのです。そのあり方が信仰か、不信仰か、その区別が、外に現れた行為を通して判断され、その行為が裁きの基準になっている、しかし、実は、それを通して行為の主体が、そこで裁かれているのです。そう解釈すべきと思います。イエス在世中には、聖霊降臨もなく、使徒たちの書簡もありませんでした。それらを通して、イエスの言葉は解釈されるべきと思います。
行為義認の人であれば、救われるために、よい行為をしようと思うでしょう。しかし、マタイ福音書によれば、よい行為をした人たちは、いつしたか、とイエスに問うています。よい行為をしたという自覚がないのです。それは、その人たちが行為義認の人たちではないということを表していると思います。
慈愛とか、惻隠の心を持っている人たちが、その心のままに行為する時、それは自分が救われるという目的をもったものでなく、ごく自然なことです。しかし、慈愛とか、惻隠の心を持っていない人からは、そのような行為は出てこないのです。そんな人が、「救いのために、よい行いをしろ」といわれても、出来ないのですが、そのように努力することを行為義認といいます。だから、行為義認を通しては、人は救われないのです。
福音書を読む時に、字面だけで解釈せずに、使徒書などを考えながら解釈する必要があります。

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