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2005年11月15日 (火)

親鸞の謎

親鸞にとって、法然という人物は理想的人格だったのだろう。歎異抄によれば、弟子が「南無阿弥陀仏」と唱えた時、喜びがないのだが、と問うと、私もだ、と答えたという。では、なぜ、この教えなのかというと、師・法然に教えられたからだと、親鸞は答えた。
長く、この部分が分からなかった。宗教というものは、何かしらの体験から始まるのではないか。その体験がないというのは、宗教にとって致命的欠陥ではないのか。聖書では、イエスに出会った人が、キリストに会ったと言い広める。その言葉を頼りに、実際、イエスに会い、彼がキリストであったと分かった、という記事が出ている。
これが宗教的体験なのだとすれば、親鸞の場合には、念仏の意義をかくも強調しているのに対して、その効果・体験というものが、余りにもあいまいではないか、というのが私の感想であった。念仏唱えて、本当に救われるのか、そういう疑問が出ても、当然ではないか。しかし、彼は、「南無阿弥陀仏」を信じたというよりも、法然を信じたのではないか。法然の人格を信じたのではないか。法然の中に、「キリスト」を見出したのではないか。そう考えれば、納得できるのである。

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コメント

あの世に於いて往生することが、念仏の最大の目標だとすれば、この現世にて様々な効能があることは有り得ないと思います。全ての宗教的効果が、現世に於いてでなくてはならないとお考えなのでしょうか?それはやや浄土教の本質を見誤っていると思います。

それから、法然にキリストを見出したという説は管理人様の個人的意見だと思いますが、これもまた、法然上人を三位一体の神の権化と見なくてはならず、ちょっと難しいのではないか?と思います。もちろん、メタファーだと考えればいいのかもしれませんけれども。

投稿: ワンクリック | 2005年11月16日 (水) 07時47分

カール・バルトという神学者は、親鸞の教えとキリスト教とを比較していて、浄土真宗は日本のプロテスタンティズムといっているという話を聞いたことがあります。よく比較されるのです。そこで比較してみて、どうなのかな、と思った次第です。現世での宗教的効能の比較なのですが、キリスト教の場合の救いは二段階(現世と来世)なのですが、親鸞の場合には、現世での救い(宗教的体験)というものはないのかな、ということです。

法然にキリストを見出したという個所は、もちろん、たとえです。しかし、キリストはイエスというのはキリスト教の信仰なのであって、分離することは可能と思います。分離した場合の言い方として、親鸞の心を推し量って、そう言ったまでのことですが、誤解を生む発言であったかも知れません。

投稿: | 2005年11月16日 (水) 09時55分

ザビエルが初めて日本に来た時、神が大日と訳されたといいます。大日とは大日如来のことで空海の真言宗・密教の中では「神」のような存在です。仏教の新しい一派の到来ということで、鹿児島では当初、歓迎したようですが、その後、教えが、どうも違うということが分かり、ザビエル側で、神をデウスと訳したようです。その後、キリシタンの歴史では、神をデウスといいます。
しかし、このことは、キリスト教の教えと密教の教えが類似していることを暗示しているのではないでしょうか。
プロテスタントは浄土真宗、カトリックは密教、お互いに似ています。比較をすると面白いと思います。

投稿: | 2005年11月17日 (木) 14時54分

> 管理人様

ワンクリックさんから、仏教との対比を管理人様が始められた旨を拝聴して参りました。

さて、ご指摘の件ですが「どこが似ている」かを明示していただきたいと思いますが、それは管理人様のお答えにお任せするとして、拙僧の管見を申し上げれば、カール=バルトについては、その個人的意見だということで判断を保留します。なるほど、似ていると見ることは自由ですが、果たしてこの場合のプロテスタントとは何を意味しているのか、概念規定を明示していただきたいです。

それから、「大日」という「訳語」の問題ですが、従来の文化で理解できるように訳語を考えるのは、訳出文化の常套手段です。例えば、それまでの中国に「ブッダ」という概念がなかったために、インドから来た経典の訳出にブッダは「大仙」とか「覚仙」とかいう表現が用いられました。要するに「仙人」の一人として考えられたわけです。しかし、仙人とブッダは根本的に目指すところが違います。前者は不老長寿を後者は苦からの解脱です。その後は自ずと別の訳が使われるようになりました。つまり、当初こそ「似ている」ものとして受容しよう、あるいは受容させようとしたのが、さまざまな問題から「似て非なる」ものに改まったと見るべきではないか?と思います。

また、キリスト教と密教・浄土教の類似点ですが、キリスト教の「一神」に対する信仰が密教の「毘盧遮那仏」浄土教の「阿弥陀仏」という信仰に似ていると見られたのだと思います。そして、これはただの宗教学的分類の「一神教」「多神教」という分類レベルで似ているという程度であり、それで似ていると主張されても・・・むしろ、似ていると見るために似ていない部分が見えなくなる弊害を危惧する拙僧でございます。

もちろん、比較されるのは自由です。もし、今後比較されたログをアップされた場合にはまた問題点を指摘したいと思います。

それでは失礼いたします。長文のレス、大変に失礼いたしました。合掌。

投稿: tenjin95 | 2005年11月17日 (木) 16時28分

さて、なんとお答えしましょうか。
類似点は、灌頂と洗礼、即身成仏と新生、を考えていました。また、念仏と信仰義認の心の持ち方、です。プロテスタントの意味とは、信仰義認の信仰という意味です。内村鑑三は、仰贍(ぎょうせん)という言葉を使っていました。

ザビエルの宗教が仏教でないことは、すぐに判明して、まぎらわしい訳語を変えたわけです。「似て非なる」ものという認識によるものでした。

それから、仏教が、どうして真言宗・浄土真宗において「一神教」的なのか、という点は、分かりません。釈迦の教えは一神教的ではない、のではないですか。司馬遼太郎さんも繰り返し、釈迦の教えと現在の仏教の教えの違いを指摘していると思います。

投稿: | 2005年11月17日 (木) 17時17分

> 管理人様

迅速なレス、ありがとうございます。
さて、密教とカトリックの類似点ですが、「灌頂と洗礼、即身成仏と新生、を考えていました。」とのことですが、「潅頂」は古代インドで行われた王の即位の儀式でした。それを仏教が採用したものです。なお、灌頂には多くの種類があります。「投華得仏」という仏縁を結ばせる儀式や、流水の中に卒塔婆を流して海まで至ることを願う「流れ灌頂」などがあります。また、

「念仏と信仰義認の心の持ち方、です。プロテスタントの意味とは、信仰義認の信仰という意味です。」のことですが、「信仰義認」を良く知らなかったので調べたのですが、行為の伴わない信仰によって神が人を「義」とする意味だそうですが、浄土真宗の開祖親鸞聖人は「つしんで往相の廻向を案ずるに、大行あり、大信あり。」(『教行信証』「行巻」)とされて、この大行こそ念仏行に他ならないとされますが、ルターが主張するようなラディカルな信仰一元主義ではないことを注意されるべきだと思います。

それから、この箇所ですが、「ザビエルの宗教が仏教でないことは、すぐに判明して、まぎらわしい訳語を変えたわけです。「似て非なる」ものという認識によるものでした。」ということで、「似て非なる」という共通認識を得たことは非常に有意義でした。そうです。似ているかもしれませんが、問題は「非なる」方なのです。

最後に、「仏教が、どうして真言宗・浄土真宗において「一神教」的なのか、という点は、分かりません。」とのことですが、管理人様なりの答えを見付けられることを期待します。拙僧のブログではすでに回答を出しておりますが、簡単に言えば、「仏教=釈尊の教えのみ」というのは南方仏教系ですね。北方仏教(大乗仏教)では、釈尊の理念だけを採って、内容を変えたのでした。つまり、救済のために必要な教義を付け加えたと観るべきでしょう。その過程で一神教的な信仰体系も生まれたとできます。

投稿: tenjin95 | 2005年11月17日 (木) 21時41分

司馬遼太郎著『空海の風景改版下』(中公文庫)には、「仏教のなかでは密教独特のものである灌頂は、ユダヤ教やキリスト教の洗礼と根を同じくするであろう」(96頁)とあります。空海が長安で、景教を学んだという個所を期待したのですが、それはありませんでした。もちろん、景教については書いています。

ラディカルな信仰一元主義は確かに「行為はどうでもいい」と誤解された面もあります。しかし、行為を救いの条件にしていいのかどうか、となると、だめだ、というのです。少し、行為も必要じゃないか、ということで、混ぜると、半ペラギウスだと言って批判します。ペラギウスは人の名ですが、信仰義認の逆で、行為で救われるという行為義認の代名詞みたいになっています。プロテスタントがカトリックを批判したのは、この点です。しかし、最近はカトリックも、いや自分たちは、半ペラギウスではなくて、信仰義認だといっています。公式には、そうですが、まだ、あいまいかも知れません。神人協力というのは半ペラギウスの言葉でしょうが、そういう言葉も聞かれますので。

北方仏教(大乗仏教)の「いろは」の問題を出したのですね。南方仏教系からしては、北方仏教は、どう見えるか。

投稿: | 2005年11月18日 (金) 07時39分

> 管理人様

レスありがとうございます。

司馬遼太郎氏は、残念ながら仏教学者ではありません。文学者です。無論、その見地には尊重すべきものがありますが、さりとてそれを前面に押し出されての反論は、あまり適切ではないかと思われます。少なくとも「原典」を挙げてください。

それから、結局信仰義認の問題と念仏の問題はどう決着されたのですか?そのお答えを拝受いたしたく存じます。なお、行を離れて信仰はない、これは仏教諸宗派の変わらざるところでありましょう。

南方仏教者から見れば、当然「戒律」を曲げてしまった北方仏教系は異端に見えるようです。さりとて、種明かしをすれば、南方仏教もブッダは釈尊1人であるという「一仏論的信仰」になっておりますし、その点では阿弥陀信仰と「外形」はそんなに変わりません。

しかし、北方仏教は仏教ではないのか?という点については、拙僧は「仏教である」といたしましょう。理由は拙ブログからご参照ください。

投稿: tenjin95 | 2005年11月18日 (金) 12時48分

「原典」ですか、司馬さんに聞かないと分からないし、司馬さんはもう、この世にいないし、ということです。
それに「あろう」ですから、司馬さんの想像かも知れないし、そのへんは分かりません。私は仏教学者ではないし、清沢氏の本は面白そうだとは思いますが、読んでいません。

信仰義認というのは、親鸞の教えの「絶対他力」(「他力本願」)に類似しているということで、これはバルトでなくとも、誰でも承認することと思います。あらゆる自力のはからい「自力」を捨てて、阿弥陀仏の本願力を信じることによってのみ救われるというのが絶対他力の意味と思います。「行を離れて信仰はない」と言われますが、その「行」が自力であれば、親鸞の教えとは違うのではないでしょうか。もちろん、信仰による行為の重要性を否定するのではないのですが、まずは、「自力ではない」という門から入ることが、親鸞の教えではないかと思います。そこで、救いの条件としての念仏さえも自力ではないという意味が「自然法爾」の教えとすれば、信仰も救いの条件ではないという考えがプロテスタントの一部にもあり、「自然法爾」に対応する考え方に思えます。

投稿: | 2005年11月18日 (金) 15時30分

> 管理人様

レスありがとうございます。
拙僧は端くれながらも仏教学者です。さて、もちろん司馬氏の原典を示せと言っているのではなくて、仏教の原典を示して欲しいと言っているのです。空海なら空海、密教なら密教、親鸞聖人なら親鸞聖人、管理人様もログ本文のようなことを指摘されるのであれば、当然にこれらの原文をお読みになっているはずです。それを示して欲しいという意味でした。司馬氏の個人的見解は、尊重はしますが正直「どうでも良い」です。

なお、拙僧が別のコメントで親鸞聖人の「つしんで往相の廻向を案ずるに、大行あり、大信あり。」(『教行信証』「行巻」)を引用して申し上げたように、親鸞聖人が往相=浄土に赴くためには「一切の行をしなくても良い」などと言ってはおりません。そうではなく、自らの力で救おうと思わずに計らいを捨てて阿弥陀仏にお任せして念仏をしなさいと言ったのです。管理人様のご意見は俗流の「他力本願」に過ぎず、単なる依存主義として解釈されているようですが、残念ながらそれは明確に違います。

「自然法爾」についてはまた後ほど解説いたします。

投稿: tenjin95 | 2005年11月18日 (金) 17時33分

> 管理人様

「自然法爾」についてですが、つい先日出たばかりの阿満利麿先生の『法然の衝撃』(ちくま学芸文庫)には「誤読された「自然法爾」章」という一項があります。

そこから引用します。

「もともと、専修念仏においては、阿弥陀仏の誓願をひたすらたのむことがもっとも肝心な点である。念仏の行者は自分のはからいを捨てねばならない。わがはからいをすてることが重要だという点では、老子や荘子が主張する、人為を離れて自然のままに生きよ、ということと一見似ている。だがこれからみるおうに、親鸞の「自然法爾」章は、運命論であったり、人為を排した自然やなりゆきを重視する人生論を決して意味してはいない。ましてや、すべてをそのままに受け入れるという、現状の絶対肯定論であるわけがない。」(前掲同著161~162頁)

「阿弥陀仏の誓願によって実現する凡夫の往生の様子が、「自然」であり、「法爾」なのである。凡夫が浄土に往生することは、凡夫の側の一切のはからいとは関係なく、もっぱら阿弥陀仏の誓願のはたらきによる。それゆえに、凡夫からすれば、往生は、「おのずからしからしむ」というしかない。このような凡夫の往生のあり方が、「自然」であり「法爾」なのである。」(前掲同著165頁)

「阿弥陀仏をおいて、凡夫が仏になる手段はない。凡夫は、阿弥陀仏の本願を信じ、その名を称することによって仏となるのだ。」(前掲同著166頁)

以上の引用からお分かりいただけましたでしょうか?「救いの条件としての念仏さえも自力ではないという意味が「自然法爾」の教え」ではあるかもしれません、しかし、そもそも、問題は「行があるかないか」でした。行はあるのです。また、ログ本文中の念仏唱えて救われるかどうかですが、経典中にて保証されている阿弥陀仏の救済を信じることがまず問題であり、そこから念仏の救済があるのです。

投稿: tenjin95 | 2005年11月18日 (金) 20時38分

長い引用、ありがとうございます。『法然の衝撃』は書店で見つけ、買おうかな、と思っていました。なかなか、しっかりした文章で感銘を受けました。

さて、私の方では、比較を考えていました。やっぱり、カルビン主義に似ているな、ということです。カルビン主義にはプロテスタントの徹底という自負もあり、バルトも広い意味のカルビン派ですから、こういう説明には、共鳴するところがあったと思います。もちろん、比較の中で考えているのです。私は、カルビン派とは論争関係にあったウェスレーの考え方に共鳴を覚えます。

たとえば、大衆伝道者のビリー・グラハムという米国人が、以前、何度も日本に来て、伝道集会をしています。最後に、信じるという決心を募るのです。しかし、カルビン派の教会の中には、そういう「決心を募る」ことに対抗があったのです。なぜなら、神の予定によって救われる人は必ず救われ、決心という「信仰」が救いの条件(それは行為であり、人の業績である)ではない、救いの条件・原因は神の予定にある、ということからです。この決心に対する抵抗の気持ちが「自然法爾」に相当するように思います。それはそれでいいのですが、では決心には意味がないのか、ということで、私はそうは思わないのです。決心は換言すれば信仰です。決心の、その時に、自分の方に、何事か変化はないのか、という点が大切なのです。私の方は変化はある、と考えています。それは重大な変化であり、牧師の中には、「天国の前味」と表現した人もいます。信仰には、現世で、それに応じた「結果」があるのだ、ということです。信仰は、そちらでは念仏ということです。最初の親鸞に対する問題提起というのは、この点の比較からでした。

それから、行と信とは、定義を確認しなければ意味ないことです。私は仏教徒ではないのですから。こちらで考える時、行は行為、信は信仰ととらえてしまうと、この二つは、救いのためには、対立していると考えるのです。行は、自分の努力の範囲内のこと、信は、その限界にいて、ただお願いするしかないという境地。永遠の生命は、自分の努力によるのではなくて、ただ神にお願いすることを通してのみ得られるのだというのがキリスト教の福音と思います。救いに行を排除するのは、功績という考え方を排除することを意味しています。これは歴史的には、アウグスチヌスとペラギウスの論争で決着し、その後、正統信仰となっていて、この点をあいまいにすると異端になります。ルターの信仰義認も、この点を確認するものでした。彼は中世のキリスト教に反抗したので、その教会は、信仰義認ではないだろうと思われるのですが、その中心的神学者のトマス・アクィナスも、最初は、信と行のまざった神人協力の立場であったらしいのですが、アウグスチヌスを学んだのち、信仰義認に転換したとのことです。

投稿: | 2005年11月19日 (土) 06時49分

> 管理人様

良く分からない人の名前などを引っ張ってこられたので、拙僧には追いかねます。ということで、分かるところだけ回答します。

> こちらで考える時、行は行為、信は信仰ととらえてしまうと、この二つは、救いのためには、対立していると考えるのです。

仏教では「行為」と「行」は区別されます。「行為」は「~の為」ですのではからいがあり、「行」ははからいがありません。ここで「行」という場合には他力的な行です。仏教ではそのような「行い」もあるのです。キリスト教的な考え方では理解できないかもしれません。ですので、一方的なキリスト教的な考えを当て嵌める前に、「違い」を正しく捉えていただきたく存じます。

> 行は、自分の努力の範囲内のこと、信は、その限界にいて、ただお願いするしかないという境地。

明確に「自-他」と分別されておりますが、これもまた相対的であり、絶対他力では自己の行が全て阿弥陀仏によって包摂されていきます。ですから「信行一如」なのです。

> なぜなら、神の予定によって救われる人は必ず救われ、決心という「信仰」が救いの条件(それは行為であり、人の業績である)ではない、救いの条件・原因は神の予定にある、ということからです。この決心に対する抵抗の気持ちが「自然法爾」に相当するように思います。

前後しましたが、絶対他力道では救われるかどうかは、阿弥陀の予定(逆にいえば阿弥陀仏の予定では全員浄土に運ばれる)ではなく、あくまでもこの予定を信じる我々にあります。我々が信じて念仏すれば、それで往生決定なのです。なお、「決心に対する抵抗の気持ち」が「自然法爾」ではないか?とのことですが、それを思わせた「出典」はどこでしょうか?お示し下さい。また、決心による変化があるのではないか?とのお考えですが、これはややもすると「現世中心主義」に見えます。そして、管理人様はそうお考えのようですが、専修念仏では違います。そもそも出発点や体系が異なっているのですから、それを強引に合わせる必要は無いと思います。

なお、「法然にキリストを見た」という考え方ですが、これは宗教学的にいうところの「人神」説です。しかし、法然上人を始めとする浄土宗系の方々は人神を「善知識」という宗教的カリスマだとしました。そして、「善知識は不要」という考え方を前面に押し出すことで、この世での善行の一切を否定し、ただ念仏行だけを肯定するという専修念仏を主張しました。そして、この「善知識は不要」という考え方に従い、親鸞聖人は実子であった善鸞(この者は自らが善知識であると主張した)を義絶し、後の蓮如上人も善知識頼みをしていた門徒を破し、その主張を行っていた仏光寺派という一派を壊滅状態にするなど、異端中の異端として考えられておりました。つまり、管理人様ご指摘のようなお考えは、とてもではないですが親鸞聖人や法然上人のお考えをなぞっているとは言えず、異端的であります。

この辺は、さすがに問題がありますので改善された方がよろしいのではないでしょうか?確かに個人的見解であることは分かりますが、それにも限度があると思いますけれども・・・

投稿: tenjin95 | 2005年11月20日 (日) 07時51分

詳細なコメントをいただきましたが、当方では、比較の中での一般的、普通の感想を記しているだけであり、残念ながら、学問的にこまかく検証していく知識は持ち合わせていません。

>なお、「決心に対する抵抗の気持ち」が「自然法爾」ではないか?とのことですが、それを思わせた「出典」
>はどこでしょうか?お示し下さい。

これも仏教とキリスト教との比較の中での当方の感想です。キリスト教の中で、カルビン主義とアルミ二アン主義との論争があり、そこで、カルビン主義側からの主張に「自然法爾」的要素をかすかに感じたということです。もちろん阿弥陀とヤーウェとは違うし、予定の理解も違います。キリスト教では予定は絶対なのです。救いの根拠は救いの手段にあるのか、それとも予定にあるか。そちらでは本願といいますが。それら前提の違いを考えた時、たとえば、『ウェスレアン=アルミ二アン神学の基礎』という古い本で紹介されているキリスト教の神学論争の中で、カルビン主義と浄土真宗との類似を説明しても、余り意味ないと思います。しかし、宗教同士、どこか同じような発想があるなあ、という感想を持ったという次第です。

「決心による変化」と「現世中心主義」については、その変化を経た信徒たちの主であるイエス・キリストは「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ福音書18・36)といっていますから、教会は現世中心主義になることはなく、その疑いは杞憂と思います。

「法然にキリストを見た」という言い方については、最初のコメントの中に質問があり、「もちろん、たとえです」と言っています。どこを見たかといえば、歎異抄の中の、あの有名な個所です。

「念仏は本当に浄土に生れる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄に堕ちたとしても、決して後悔はいたしません」(浄土真宗教学研究所編纂、本願寺出版社発行)

その個所における親鸞の心を推し量ったまでです。これは以前、指摘して、誤解を生む発言であったかも知れない、とも言いました。「人神」説云々は初めて教えていただきました。論旨は了解しましたが、外野席から、あの歎異抄の個所を読んだ感想がそもそもの始まりです。「善知識不要」の処置は、逆にそのような意識が教団にあったことを教えています。そんな意識と、親鸞の法然に対する思いとの関係は、どうか。すでに研究されている人がいるかも知れませんが。

投稿: | 2005年11月20日 (日) 19時26分

> 管理人様

レスありがとうございます。
さて、「それら前提の違いを考えた時、たとえば、『ウェスレアン=アルミ二アン神学の基礎』という古い本で紹介されているキリスト教の神学論争の中で、カルビン主義と浄土真宗との類似を説明しても、余り意味ないと思います。」とのことですが、まさに仰るとおりであります。

それから、教会は現世中心主義ではないかもしれません。しかし、管理人様の「宗教というものは、何かしらの体験から始まるのではないか。その体験がないというのは、宗教にとって致命的欠陥ではないのか。」というご指摘はどうなのでしょう?これは現世での体験を前提されているのではないでしょうか?

同じ『歎異抄』の第8項には、「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることもあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。」(金子大栄校注、岩波文庫本、50頁)とありまして、師弟の約束の否定しております。確かに、当時から善知識を尊重する考え方があったわけですが、それを法然・親鸞・蓮如などはみな、否定しました。いまさらに管理人様がその異端の道を踏む必要はないかと思われます。

また、ご指摘の『歎異抄』の「法然上人に瞞されて」のくだりは、あくまでも弥陀の本願はひとによって念仏されることではないから、自ら弥陀の本願を信じて念仏したのであれば、その行き先が地獄であっても、そこが浄土だということなのです。そして、ここには念仏以外にすがりようのない、自らの無能さを「凡夫」として自覚している親鸞聖人の深い反省があることを留意されるべきです。もはや、どうしようもないのです。「他の何かの修行・善行が出来るかも」というような道が全く無い者の悲嘆を表層的に解釈してはなりません。

投稿: tenjin95 | 2005年11月21日 (月) 09時09分

体験に関する、ご質問がありましたが、もちろん、現世での体験です。現世における来世の体験です。言い方としては矛盾ではありますが、私の知っている、ある牧師は「天国の前味」という言葉を使っていました。W・ジェームズの『宗教的経験の諸相』には多くの宗教体験が紹介されています。
親鸞の他力浄土門の教えというものは「次の世でさとりを開く」ということですから、現世のさとりには否定的と思います。実際、歎異抄でも、この世でさとりを開くことに関して、「もってのほか」と言っています。宗教心理学に何かの材料を提供することはない、と言っているようでもあります。この点では、キリスト教は、即身成仏を説く真言密教の方に類似しているように思います。しかし、絶対他力の考え方はキリスト教正統信仰と全く同じと思います。

「管理人様がその異端の道を踏む必要はないかと思われます」とありますが、私は門徒ではありませんので、異端も正統もないでしょう。逆に、ここで正統になれば、門徒にならねばならないでしょう。その意味では、異端でよいです。歎異抄成立の経緯を考えれば、異端にも役割があると思います。ただ、私の方では、あえて言えば、「絶対他力による即身成仏」派なので、歎異抄の中では当然、異端でしょう。

投稿: | 2005年11月21日 (月) 19時50分

> 管理人様

レスありがとうございます。
前半の部分については、浄土真宗とキリスト教が根本的に違うということを言明されたと見えますので、まずは拙僧が管理人様に自覚していただきたかったことが実現しました。なによりであります。

それから、後者については異端-正統という宗教的タームで申し上げた拙僧が悪かったのですが、管理人様の回答はまるで「部外者であれば誤読しても良い」と見えます。そうであってはなりません。拙僧がいいたいのは、明確に管理人様が浄土真宗の理解を間違っていることであり、それを指摘されてもこのようなログを残していくことの問題なのです。なるほど、管理人様は門徒ではない、それは当然です。もし門徒であれば必ず破門されております。しかるに、拙僧も禅宗坊主であり、門徒ではありません。しかし、他の教義の理解は真摯に正確に行いたいと願っております。そうでなければ正確に比較することが出来ないからです。

『歎異抄』の中では当然異端だと思っておられるのであれば、管理人様の意見を見て誤解される方が出ないようにするためにも、いたずらに他宗派・他宗教への言及は避けるか、より慎重に行われるべきだと思います。

投稿: tenjin95 | 2005年11月22日 (火) 07時34分

自分が納得できるようにかえるのが、捨てるべき自力はからいのこころです。あなたがりかいできるように勝手に解釈するこころ。このこころがある限り阿弥陀さまからの回向はとどきません。永遠に輪廻を繰り返してしまいます。たぶん輪廻はお釈迦さまはいってないとか自分のわかるようにこころが働くとは思いますが、そのこころのためにいまだに人間なのです。
法然さんの人格を信じたのではなく、阿弥陀さまの御本願が本当でこころのなかに回向信が届いたから、法然さんがいわれたことが正しいとわかったのです。これがあなたがいわれる宗教体験で、阿弥陀さまのお救いは生きている間に仏凡一体の境地にはいらせていただくのです。

投稿: みよ | 2015年6月13日 (土) 13時04分

みよさん、コメント、ありがとうございます。最近、このブログを見ることが少なくなり、返事が遅れました。

私は仏教徒ではありません。だから、どんな仏教宗派でも、その主張を正しく解釈する前提を欠いていると思います。その意味では勝手な解釈をしているかも知れません。

その解釈の前提にはキリスト教の信仰があります。キリスト教と仏教を比較して、その中で仏教の主張を理解しようとしているのです。最近は、そういう関心がキリスト教の側でも浸透していると思います。そのような人に、亡くなった井上洋治神父がいます。祈りに「南無アッバ」という呼びかけを採用しています。南無は、南無阿弥陀仏の南無です。しかし、井上神父は、南無の言葉を使っても、阿弥陀仏に呼びかけているのではありません。

仏教に教えられようとしても、仏教徒になるわけではありません。ただ、そうすることで相互理解が深められて、それは大切なことではないかと思います。

キリスト教が恵みを独占しているとは思いません。仏教徒の中にも、大きな恵みをいただいている人が少なくないと思っています。

投稿: | 2015年6月23日 (火) 16時15分

禅宗の僧侶の方からコメントをいただきました。

最近はツイッターの方に気が向いていて、こちらのブログを見ないでいましたので、返事が遅れました。

当方の浄土真宗の理解が間違っていると言われていますが、真宗の信徒ではないのですから、それでいいのではないかと思います。一つの疑問を提起しただけです。

6月20、21日、上智大学でカトリシズムの霊性に関する講演会とシンポジウムがあり、その中で、岩下壮一の『信仰の遺産』の紹介がありました。これは最近、岩波文庫で出ていて、容易に入手できます。岩下は、この本でプロテスタンティズムに対するカトリシズムの反論を展開しています。岩下の前には、こういう本を書いた日本人はいないと思いますが、ただ、キリシタン時代にハビアンの書いた『妙貞問答』というのがあり、こちらは日本の他の宗教に対するキリスト教の批判、弁証になっています。ハビアンは、のちキリスト教信仰を捨て、逆にキリスト教批判の文書を出しています。

大切なのは、宗教に触れて、いろいろと疑問を持った時、それを問うことだと思います。問いがなければ答えもありません。問うことの大切さをソクラテスは語っていると思います。それは、プラトンの本で紹介されていますが、そのような問いと答えの繰り返しの中で真理への理解は深められていくと思います。

昔でしたら、異端、破門ということもありましたが、それらの事件は、その背景の理解なくしては意味がないと思います。今、キリスト教会では教会の一致を求めての取り組みがありますが、それでも、教派ごとの主張がなくなるわけではありません。

宗教はいろいろですが、疑問を持ったことを問うなかでしか、理解、相互理解は深められないと思います。仏教者では、ひろさちやさんがキリスト教のことをよく書かれています。宗教評論家で、自分では一つの宗教の信者であっても、広く他の宗教も論じられる人も必要ではないかと思います。最近は宗教の領域でも有能な人が輩出しているという思いを強く持っています。

投稿: | 2015年6月23日 (火) 20時56分

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