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2005年11月29日 (火)

狭い道

信仰の選択とは、自力救済に見切りをつけて、降参、白旗を掲げる、という意味でもありますね。それは人生の敗北者、負け組みになる、と世間ではとらえているかも知れないですね。人生の競争場からの逃避であれば、少し恥ずかしい気持ちが働きますね。弱い者が信仰とか宗教に走るのであって、これからの、もっと厳しくなる競争社会では勧めるわけにはいかない、と思っている人もいるかも知れませんね。

まあ、そうかも知れません。「福音を恥としない」といったパウロの心境を思い、その意識、分からないわけではありません。しかし、自力救済を主張する気はさらさらありません。それに、人間は何かに頼らなくては生きていけないということが分かれば、神に頼ったらいいじゃあないかと思いますよ。虚心に世界を眺めれば、先進国の指導者で信仰を持つ人は少なくありませんし、恥ずかしいことでもないと思いますけど。

最近は仏教者の活躍がめざましいですね。彼らは人生の負け組みなんて思っていないでしょうね。

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コメント

仏教者は、人生に於いて勝ち組に入ろうとも負け組に入ろうともしないのが本来の生き方である。もちろん、往々にしてそのような生き方が出来てないものが多いが。

なお、先進国の指導者に信仰を持つ者が少なくないことを、信仰を求める理由にしようということは、「権威主義」に陥る可能性がある。その辺を含めて、是非に岡本浩一『権威主義の正体』(PHP新書)を見るべきだろう。

投稿: tenjin95 | 2006年3月20日 (月) 12時08分

信仰というのは、他人のためではなくて、自分のためであり、自分の中で分かっていなければ意味がありません。信仰の強制なんてできません。歴史的中世であればいざ知らず、現代では信仰の強制は憲法違反です。中には、靖国神社の問題など、難しい問題もありますけれど。

投稿: | 2006年3月20日 (月) 13時19分

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