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2005年11月14日 (月)

正・反・脱の思想

ヘーゲルの弁証法思想は正・反・合といわれる。しかし、正・反・脱の新しい考えを提示している人がいる。笠原芳光氏である。その思想は、『イエスとはなにか』(笠原芳光、佐藤研編、春秋社、2005年)の30-31頁に詳しく語られている。要約すると、こういうことを言っておられる。
ヘーゲルの弁証法は正反合で語られている。しかし、イエスは「反」ではなく、「脱」である。「反」のあとに来ている「合」は、新しい「正」としての制度・組織を意味している。しかし、イエスは、そのような「合」ではなく、「脱」である。その論旨は明快である。
「脱」は「反」を生まない。その意味で、イエスはソーシャリストではなく、アナーキストであった。ソーシャリストは、「正」の立場をつくる。自分が権力を持ち、独裁国家を作る。
なぜ、この思想に関心を持つのかといえば、宗教と教団の関係に関して考えさせられるからである。教祖がいる。そして教団ができる。その思想が伝えられる。それは当然、歴史を形成する。その中では、やはり正反合の歴史形成をしていくのであろう。だが、その教団の中には、信徒の生きている環境社会とはほとんど意味のない、遠い国で作られたものたちがいて、信徒たちを、その中で形成しようとしている。これは、どんな教団でも同じであろう。その時、そのような遠い国の歴史的・信仰的「遺物」を取り除くことが出来れば、あるいは信仰にとって最も肝心な要素を、自分たちの周囲にある要素を集めて再構成できるのではないだろうか。この実験が、日本では無教会、あるいは内村鑑三という人物によって行われたのではないだろうか。内村が今も、注目される理由は、このへんにあるのではないだろうか。
笠原氏は、自分の生き方の中で、この正反脱の思想を紹介しているのだろう。イエスに従うことは、キリスト教会が信徒に求めていることだが、イエスの生き方は、では、どうなのか、そう問い返した時、信徒たちは笠原氏の問題提起に回答しなければならないであろう。
なお、笠原氏は、『イエスとはなにか』の中で、こういっておられる。
「キリスト教の歴史はカトリック、プロテスタント、無教会…というように正反合の連続なんです」(31頁)。
この個所からは無教会が「合」と読めるが、違うのではないか。無教会は意識的にはプロテスタントであり、「正」と同じ性質になる考えはないのではないか。

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コメント

カトリックでもプロテスタントでもない、第三の立場というと、無教会よりもクエーカーかも知れません。自分たちで、そう言っています。しかし、それは合の立場ではない。合の立場は、正と同じ、儀式・組織・制度の立場です。だから、キリスト教の歴史で今、合の立場を模索する時、それはカトリックを中心にするしかない。実際、反の立場の大義「信仰義認」は、既に正の立場も認めているので、合を立ち上げる土台は出来ているのです。しかし、反は反だと言って一貫するのも一つの立場でしょうね。そこでは、合は、合という「新しい」立場ではなくて、以前の正への吸収という意識が強いでしょう。確かに吸収かも知れない、しかし、それでは意味なと思います。そこが思案のしどころでしょうか

投稿: | 2005年11月15日 (火) 12時56分

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