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2005年11月28日 (月)

回心の時

回心が救いに重要であることは言うまでもありません。その回心の時が生前であることを、故里脇浅次郎枢機卿は『カトリックの終末論』(聖母文庫)の中で述べています。
同書で、著者は「死の瞬間か死後直に回心の機会を与えられると考える」神学者がわずかに存在する、と指摘して、「しかし、啓示の所与の中には、このような人間の希望的な想像を可能にするような要素は見出せないであろう」といいます。続いて、こう書いています。「とにかく、死期がせまるにつれて人間の判断力は衰え、意識は混濁しがちである。このような状態にある者が、時間を必要とする回心のような自由行為を瞬間的にできるとは、到底考えられない。なお、死後の回心の仮定は回心が当人の生存中に限られるという教会の伝統的な教えと相容れない」(37-38頁)。
回心は時間を必要とするのだろうか、というと、いや瞬間的なものだと、私は思います。それは言ってみれば、天国行きのキップのようなものです。著者は、それが教会の伝統として、生存中の限られている、というのですが、どうでしょうか。カトリック教会は善意の人にも天国行きのキップを提供していると思いますが、では善意の人たちは回心しているのでしょうか。そうではないと思います。であれば、死後の回心を考えるか、生前でも、潜在的な回心をしていたと考えるか、どちらかと思います。死後の回心がないとすれば、生前、潜在的回心をしていたと考えるしかありません。そういう神学者もおりました。しかし、そこでは回心の定義を広げて、明確で限定的な信仰告白を伴わない回心もありうると考えなければなりません。

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