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2005年11月19日 (土)

仏教との対話

大学紛争の起きる少し前、私は大学の後輩の一人Y君と、京都大学キリスト教学科のM教授の家を訪ねた。Y君は無教会の矢内原集会に出ていたというが、その後、クエーカー教徒になった。
M教授は私にとっては未知の人だったが、Y君に連れられて百万遍の家を訪ねた。二階に通され、周囲が本棚で囲まれ、本がびっしりと並んでいたのに驚いた。雑談の中で、京都は仏教寺院が多いですねえ、と感想を語ると、教授は、ドイツの神学者の研究をしていたが、仏教との対話の必要性を真剣な面持ちで説いた。私は少し違和感があった。当時は仏教に関心はなかった。しかし、今、その対話重視の意味が分かってきた。
キリスト教は、今でも外国の宗教のようなものである。西洋から、米国から来たキリスト教の宣教活動の中で信徒となって、その教派の歴史の中で思考しようとする。そうすると、われわれの生きている日本という環境との接点が次第になくなっていき、生活が浮き上がってしまう。そんな反省は切実である。
この点で、宣教師と対立した内村鑑三は今でも大いに意味を持っている。キリスト教書は売れないというが、当然だ。遠い外国で起きたことに目を向けていて、日本人に語っていないからだ。日本人に意味ないことを語っても、誰も見向きもしないだろう。遠藤周作は、日本人に合ったキリスト教を求めたが、当然のことである。遠藤の衣鉢を継ぐ人は、この点をしかと考えねばならないだろう。

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