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2005年11月27日 (日)

クリスマスの悲劇

クリスマスというのは、イエスの誕生を祝う日ということで、今では全世界的な広がりを持つ年末の行事になっています。イエスは、のちキリストと言われるようになり、宗教的信仰の対象となりました。

イエスの誕生物語は新約聖書に書かれています。それだけ読むと、そこには、別に悲劇があるわけではありません。

しかし、聖書には、イエスの誕生に関係して、時の権力者ヘロデ王が、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とも書かれています。イエスを抹殺するために、多くの子供たちが犠牲者となったのです。

虐殺された子供たちに、そのような結果に至る何かの罪があるわけはありません。ただ、やがて世界史の中で大きな意味を持つようになるイエスの誕生の陰で、このようなむごたらしい事件があったのです。この二つを関係づけて考えることは、クリスマスを客観的に考えるには必要かと思います。

恐らく、この子どもの虐殺の方が、当時の大ニュースで、イエス誕生などは誰も気づかなかったのではないでしょうか。

犠牲というのは何かしら悲劇的なものと思います。自業自得という言葉がありますが、自分が悪いことをして、悲劇的結果を招くことは、犠牲とは言わないと思います。自分は悪いことをしていないのに、悪いことをした結果が自分にふりかかってくる、その理由を問うていく時に、何かの犠牲になったという理解が生まれるかも知れません。クリスマス物語を読んでいて、あの虐殺された子供たちと、嘆く母の記述に関連して、そんなことを連想します。

世界史は、そして、一般のニュースは、クリスマス(イエスの誕生物語)などは伝えないのです。これは聖書だから伝えているのです。社会ネタとしては、子供の虐殺の方が比較できないくらいの大ニュースです。この比較の中で、クリスマスを考えることも大切です。

同時に、自分の身に悲劇がやってきた時、その理由が自分の方にないなら、何か大きな価値が誕生するための犠牲という見方も出来るのではないでしょうか。

幸いな日々を送っている時、その陰で犠牲になっていた人たちがいたことを忘れたくありません。20世紀を回顧する時、20世紀という時代は、何とまあ、大変な悲劇的な時代であったなあ、と痛感しています。それは「新しい日」の生まれる犠牲のようでもありました。

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