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2005年11月14日 (月)

イエス観

「史的イエス」と「信仰のキリスト」の関係が関心を集めていた時期があった。史的イエスに対する関心は、どこか既存の教会に対する反発と裏腹になっていると思う。今も、史的イエスに対する関心が続いている。
私は、この議論に入る動機を余り持たなかったが、今でも、そうである。
異言体験のない私はペンテコステ教会の信徒ではないが、その主張には共感するところが多い。異言を伴わない聖霊体験もある、という主張を、私はしたい。あの聖霊降臨日の体験があってから、教会がスタートするのであるから、その原点に帰ることを全教会に訴えている限りでは、ペンテコステ教会の信徒でなくとも、全信徒たちが同感するのではないか。実は、この原点を忘れている教会と信徒が多いからである。そして、聖書は、この体験の中で生まれていくのであるのであれば、その制約を払ったところで、イエスという人物の実像を探ろうとする努力は、聖書の外に、その人物の姿を探ろうとする努力を意味するし、難しいと思う。
それに、そのようなイエスを知ったところで、余り意味がないのではないか。なぜなら、人生のむなしさ、死の不条理の解決など、人の実存の問題の解決が重要だからだ。史的イエスには、私の実存の解決となるものを持っていないのではないか。解決は聖霊であって、史的イエスではない。探求されている、対象化できる史的イエスは、われわれに決断を迫ってくるキリストではない。もし、史的イエスが決断を迫るような存在となるのであれば、それは、どこかで「信仰のキリスト」に性格が変化しているからではないだろうか。

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