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2005年12月 8日 (木)

霊魂の実在

永録12年(1569年)、織田信長の面前で、有名な宗論が行われました。キリシタン側にはフロイスとロレンソ、仏教側には日乗上人が立ち、霊魂の問題を議論したのです。日乗上人は刀を抜いて、「霊魂を見せろ」と叫んだといいます。
キリシタンでは、人の霊魂の実在を認めて、霊魂こそ大切として、その死後の救いを強調していました。しかし、仏教では来世は認めても、霊魂を認めないのです。釈迦は涅槃経の中で霊魂を否定しています。従って、後生はないはずですが、大乗仏教の中では後生を認めています。
「仏教は六道輪廻を説きながら、人間は死ねば四大(地水火風)となって消えるともいう。輪廻する主体は業(カルマ)であって、人間の意識は輪廻にはあずからない。それでは現世でどんなに悪事を働いても来世とは意識の上でのかかわりあいがないのだから、かまわないではないか、という考え方も成り立ち得る。その場合、道徳は根拠を失う。仏説はこれを『断見』と呼んでしりぞけるが、仏説中のもっとも難解な部分である」(『死の日本文学史』中公文庫、376頁)と、著者の村松剛は言います。この「断見」は、どこか「浄土真宗の「本願ぼこり」を思わせます。
この魂の教えは、仏教ではない、別のところから来た、と村松さんは言うのです。
「日本人はそれまで千年以上にわたって仏説にはなじんでいながら、魂の実在についての信条はじっさいには守りつづけて来た。『たま』への古代信仰は、陰陽道の魂魄の理念によって支持、補強されている。仏教もついにこの古い信仰には、手を触れ得なかったのである。霊魂をみとめるキリシタンの教えは、古代いらいのこの日本人の信仰に、論理をあたえたともいえる」(前掲書、378頁)。
このキリシタン時代の最大の知識人と言われる人に不干斎ハビアンがいました。彼は『妙貞問答』という書物を書いて、「魂の存在を前提としなければ後生はない」と主張するのです。仏教でも、源信の浄土教は「厭離穢土、欣求浄土」の思想ですし、法然、親鸞にしても、その教えを受け継いでいるのですから、そこには「魂の存在を前提とした後生の救い」の教えがあると思います。
葬儀などでは、霊魂は、今、一般的に認められているのではないでしょうか。しかし、「釈迦は涅槃経の中で霊魂を否定しています」といいます。釈迦の教えは果たして、どうだったのだろうか、と新しい関心が湧いてきます。

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コメント

「仏教は、霊魂を否定する宗教でした。人間は五つの要素からなっていて、それが散ずれば死である、といった物質的な自然観、人間観をもっていました。ひとにたたるような霊魂はない、という考え方です。しかし、土着の信仰は、そんな考え方を許しません。仏教に先祖の霊魂の供養を求めました。いまだに先祖の供養をしないとたたるといって脅す仏教があるのは、遠き昔、シベリアで発生したシャーマニズムのなごりなのです」(新潮文庫『司馬遼太郎が考えたこと13』、152頁)

投稿: | 2005年12月 8日 (木) 14時13分

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