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2005年12月 5日 (月)

南無

南無という言葉がある。日本仏教では、南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経という言葉があり、われわれにはなじみ深い。その「南無」である。井上洋治というカトリック神父が、この言葉に興味を覚えて、『南無の心に生きる』(筑摩書房)という本を出している。「南無アッバ」という言葉も作っている。もちろん、神父の造語である。アッバとはイエスの祈りの冒頭の言葉で、父(なる神)を指している。

さて、南無とは、どういう意味なのだろう。この言葉はサンスクリット語に由来し、その意味は「帰命」、「帰依」、「信従」を意味するのだという。だから、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏に帰依する、南無妙法蓮華経は妙法蓮華経(法華経)に帰依するという意味になる。ところで、阿弥陀仏は文字通り仏であり、悟った人という意味である。だから、人格である。しかし、一方、南無妙法蓮華経は一つのお経である。

部外者が思うに、帰依すると言った場合には、やはり「人格」に帰依したい。その意味では、南無阿弥陀仏の方に共感する。南無妙法蓮華経をキリスト教的に翻訳すれば、「南無ガラテヤ書」であろうか。ルターのガラテヤ書偏愛と、彼が、ヤコブ書を「わらの書簡」と言ったことを思う。もちろん、こう唱えることで、信仰の純粋性、その正統さをアピールすることは出来るが、同時に、それは論争的なものが背景にあると容易に連想させる。南無妙法蓮華経にも、法華経第一という価値観、その信仰の表明があるのだろう。

南無は素晴らしい言葉と思う。キリスト教信仰の中で、「南無アッバ」を唱えようか。いや、私は、まだ、そこまでいっていない。「南無イエス」はだめである。イエスは人なのだから。「南無キリスト」もだめだ。キリストは一般名詞で、救世主を信じると言ったって、そこでは、救世主が特定されていないのである。やはり、イエス・キリストという名前に帰依するというのが、一番ふさわしい。だから「南無イエス・キリスト」なのである。

今、普通に「イエス・キリスト」というけれど、本来の意味を考えたら、とんでもないことである。これはキリスト教信仰の中でのみ唱えられる信仰の言葉だからである。この信仰に帰依するということで、「南無イエス・キリスト」なのだ。キリスト教徒でない者たちが、イエス・キリストなどと言う必要はないのである。まして、キリストなどという言葉を使う必要はない。あの人の名はイエス、それで十分である。

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コメント

「南無アッバ」とはイエスの信仰である。それは、果たして、われわれの信仰になるのだろうか。ならないのではないかと、私は思う。「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14・6)とある。われわれの信仰は「南無イエス・キリスト」で、それ以上ではないと思う。「南無イエス・キリスト」で、イエスにつながり、そのつながりは、イエスの「南無アッバ」信仰によって、父につながっている、そういう構造なのだと思う。イエスを媒介にしないで、われわれは直接、父である神に行くことはできないのだから。

投稿: | 2005年12月 6日 (火) 01時13分

「信仰の入口は確かにそうでしようね。しかし、イエスは、この入口をくぐった人を友と呼んでいる。そこでは上下関係ではなく、対等関係になっている。だから、南無アッバの可能性もなくはない、と」
「信仰の最終目的がアッバに向けられている、という意味では、そうですね。それにイエス媒介といっても、文字的に媒介しているのではなく、霊的に媒介している。そこではイエスに対する、ある意味での解釈が行われている。そういうことを含めての南無アッバなのでしょうね。とにかく、われわれ人間に見えるのはイエスであり、聖霊である。この道をたどっていく、その終点がアッバなんだ。それは、三位一体なのだから、南無イエス・キリストにも含まれている、とは思うのですけど。三位一体をアッバに一元化することもいいと思いますが、信仰の媒介を説かなくてはいけない世界が、われわれの周囲に広がっています」

投稿: | 2005年12月 6日 (火) 07時35分

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