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2005年12月16日 (金)

親鸞の宗教体験

以前、このブログで、歎異抄から親鸞の宗教体験がどんなものか、果たしてあったのかと問題にしたことがありました。最近、梅原猛さんは、著書、小学館文庫『親鸞の告白』で、はっきり、親鸞の宗教体験について書いています。こんな個所があります。

「親鸞は現世往生-現世において阿弥陀仏に救済されたことの喜びを、ひたすら説いている。彼は『死ぬときに阿弥陀仏の来迎を待つなどというのは、信仰が足りないからだ。阿弥陀仏の救いの力を信ずる人はこの世において、すでにゆるぎない信仰を得て、心は深い喜びにひたるのである。そして、その喜びに生きる人は、もはや弥勒と同じ位となり、来迎を待つ必要はない』と述べています」(60頁)

この典拠が、どこなのかは記されていません。

その前後を参照すると、浄土信仰の原点にいる源信においては「極楽往生・死後往生」であったが、法然では、現世救済の喜びが前面に出て、親鸞は、それを徹底し、死後の世界についてはほとんど語っていない、しかし、のちになると(これは現代を含むようです)、ふたたび、死後往生の色彩が強くなった、というのです。これは重要な指摘と思います。

そのあとに、念仏で極楽往生にいけるのなら、早く死にたくなるのだが、死にたい気持ちが起きないのはどうしてか、という唯円の質問に対する親鸞の答え「早く死にたいという気にならないのは煩悩が強いからで、そう思うと、私はますます往生確実だ」に対して、梅原さんは、こういいます。
「詭弁のように思えるかもしれませんが、これはたいへんな論理です」(61頁)

「詭弁のように思えるかもしれません」の部分は分かる気がします。

思うに、宗教体験というのは、現世救済・現世往生という言葉の意味でしょう。親鸞は、その立場であったと、梅原さんは言うのです。

キリスト教では来世救済を否定することはないのですが、同時に現世救済を指すような実現された終末論というものもあり、現世救済と来世救済の両方を、ある意味で肯定しているので、問題ありませんが、浄土真宗における現世往生という視点は、梅原さんの強烈な問題提起であるかも知れません。

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コメント

大学紛争のころ、梅原さんは立命館大学で教えておられたが、そのころ、早稲田大学の大学祭で講演され、私は聞いたことがあった。内容は覚えていない。梅原さんに会ったのは、この1回だけ、いや、もう1回、遠藤周作さんの葬儀で、その姿を見たことがあった。会話はゼロである。その後、何冊か、ご本を読んできた。
梅原さんは哲学者として紹介されてきたが、常に問題提起をされてきた。この点が梅原さんの特徴であり、また哲学者・思想家としての一番大きな義務であるのかも知れない。
現代思想の中に問題を見出し、大胆に問題提起する。あの大学紛争での問題提起とは違った、有効な問題提起の仕方が、ここにあると思う。大学紛争の問題提起には重要な内容があったと思うが、時間の経過とともに風化していったように思う。

投稿: | 2005年12月16日 (金) 17時43分

> 管理人様

現世往生という言葉は親鸞聖人は使われておりません。これは、浄土を観じる修行を取り入れなかった親鸞聖人の誤読ではないか?なんて思います。

天台宗では常に浄土は観じるものとしてありました。恵心僧都源信や法然上人はそういった修行に長けておりましたが、親鸞聖人は自ら「凡夫」であるという自覚が強くそういった「自力行」に対しては、あまり重きを置かなかったとされています。なるほど梅原氏は斯様に仰っておりますが、しかし、これが「現世往生」になるかは、非常に疑問です。

また、「死ぬときに阿弥陀仏の来迎を待つなどというのは、信仰が足りないからだ。」という指摘は、拙僧も検索中ですが、これは当時の浄土系教団で流行していた「臨終正念」を批判した言葉であると見るべきです。これもやはり、「自力行」にあたるためです。

以上、よくよくご検討いただければ幸いです。

投稿: tenjin95 | 2005年12月17日 (土) 08時41分

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