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2005年12月12日 (月)

寅さんの解釈

渥美清さん主演の映画「男はつらいよ」のロングランは驚異的で、昭和48年、ある雑誌(11月号)に「フーテンの寅さん」という表題でエッセーを書いた時には、思いも及ばなかったことです。当時は全国的な大学紛争も終わりはしたものの、その後遺症は続いていて、エッセーは冒頭「今の日本に希望はあるか-」という問いかけで始め、結論部分にこう書きました。

僕は日本の希望の一つに「フーテンの寅さん」をあげたい。この映画、有楽町あたりのちょっと上品な映画館には縁がなく、新宿とか浅草とか、「ねえちゃん、あんちゃん」のたむろしている映画街に、ヤクザ映画、ポルノ映画と肩をならべて上映された。ただこのことだけで、世の良俗の守護神でおわします「責任倫理的」人間は現代日本の傑作映画の一つの傍らを通り過ぎてしまったことだろう。あたかも、強盗に襲われた旅人に目をそむけた祭司、レビ人のように。
「寅さん」の人気は今や怪物並み、かつての「君の名は」に匹敵するらしい。その理由の一つは寅さんの、小説『坊ちゃん』を思わせる気っ風のよさと、映画「ジバゴ」にも及びそうな情の深さにあるだろう。しかも同時にコッケイときているから、ますますいい。この感動、いつまでも失いたくない。

この映画が渥美さんの死に至るまでシリーズとしての製作が続き、日本人に歓迎されたことには大きな意味があると思います。映画は宗教宣伝とは無関係ですが、あえて、宗教的解釈をほどこすこともできそうです。

『カトリックと創価学会』(南山宗教文化研究所編、第三文明社、1996年)という本があります。これは1995年の9月13、14日の両日、南山宗教文化研究所と創価学会の東洋宗教研究所との間で行われたシンポジウムの公式発表論文やレスポンス、自由討議の内容を一冊の本にまとめたものです。異なる宗教間の「対話」について教えられました。

その中に、こんな言葉があります。「現代の諸宗教の世界において伝統の教えを生かそうとするならば、キリスト教の宗教を述べ伝える際に、非キリスト教の真理をキリストの教えの『前段階』として認め、仏教を述べ伝える際にはキリスト教の真理を釈尊の教えの『前段階』として認める必要があると思います」(27頁)。互いの宗教の中に真理の輝きを認めるということは大切なことで、それが対話の前提ではないかということです。

そこで、寅さんの意味についてです。そこには、アウトサイダー、捨てられた者、同伴者といったモチーフがあり、これはキリスト教の中にもあるのです。風の如くやってきて、また風の如く去っていく寅さん。その風とは、人が実感の中で捉える神、聖霊を指しているようでもあります。

また、もう一つのロングランに「水戸黄門」がありますが、そこでは、黄門さまの旅姿に、神が人になるという「謙卑」、やがて黄門さまの真実の姿が現れて裁きが行われる場面では、「啓示」における真実の解決と、キリスト教の伝えるところと非常に類似しています。

仏教では、どうなのでしょうか。寅さんについても、また水戸黄門についても、仏教的解釈というものがあるのではないでしょうか。われわれが、常に接していて飽きないもの、そこに宗教の真髄が隠されているのではないでしょうか。寅さんに、また黄門さまに宗教的真理は輝いていると思われます。

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