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2005年12月 3日 (土)

根底場働

「根底場働」という日本語に初めて接しました。井上洋治という神父さんが、今年1月に出した新刊『わが師イエスの生涯』の中で、使っています。
井上神父は、古い自著で、アガペーを悲愛と訳した方がよいという提案があったのを覚えています。愛というものが、日本では仏教の中では執着という、悟りを妨げる、あまり芳しくない意味に使われているので、神の愛(アガペー)を愛と訳すと、あるいは誤解を生むかも知れません。仏教的には、愛よりも、むしろ、慈悲といった方が正しい意味に近いと思います。しかし、日本語には悲哀という言葉もあり、発音だけで、「ひあい」というと、これも「悲哀」の意味に誤解されるかも知れません。
では、「根底場働」は、どんな意味なのでしょうか。
「『キリストのからだ』とよばれている『アッバのまなざし』の『根底場働』」(206頁)という個所があります。「キリストのからだ」は教会でしょうか。「アッバのまなざし」は神の愛でしょうか。アッバは、イエスが祈りの時に、神を指した言葉で、父(お父ちゃん)という意味です。要するに、「根底場働」は理性によって対象化できない働き、東方正教会では、理性によっては「神聖な闇」、また西田哲学の「絶対無」に相当するようです。
「この『根底場働』-一般には『神』という言葉でよばれているであろうが-」(206頁)という個所もあり、「神」と同じ意味だと、著者は言っています。
また、この「根底場働」の理解から、イエスの教えは、超越神論でもなく、汎神論でもなく、正確には汎在神論であると著者は言うのです。要するに、超越神論では、神は人とは違うという面は言えるのだが、別の面、近さが言われていない、しかし、汎神論では、神と被造物との違いがはっきり言えていない、その二つを言わなければいけない、ということでしょう。しかし、これは「存在の類比」という中世の言葉が指摘してきたところと思います。肯定神学でもなく、否定神学でもなく、その両方を言いつつ、その一つから離れる、それが「存在の類比」の考え方ではなかったでしょうか。であれば、井上神父の、汎在神論の主張にも理解できるものがあります。神は超越だけではなく、我々に近い存在である。神の霊、聖霊は、われわれの五感ではないにしても、われわれの実存の意識の中に入ってくるからです。

悲愛にしても、根底場働にしても、神父さんの造語です。しかし、その造語に込められた思想の軌跡には教えられるものがあります。

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コメント

『わが師イエスの生涯』では、キリスト教とユダヤ教との違いを明確に述べています。この視点も、面白いと思いました。

最近は、メシアニック・ジューの活動の中で、ユダヤ人の中に、イエスをメシアと認める人たちが出ています。その活動の中で、キリスト教とユダヤ教との同根意識が現れています。そして、ユダヤ人に対する神の恵みが教会・キリスト教徒に移行したとする置換神学の批判も行われています。

古くは、近世の台頭における中世の構成要素分離という問題。中世のギリシャ・ヘブライ混合形態を解消して、キリスト教をヘブライ基盤の中に移すということで純粋性を保持するという企画。

それらに対して、キリスト教とユダヤ教との明確な分離をイエスの言動に置いたということで、当然のことながら、この視点は再び重要と思いました。イエスの言動は、もうユダヤ教との一致の埒外なのでしょう。われわれは、遠く、その違いを打ち出す困難さを想像するだけなのですが。

投稿: | 2005年12月 6日 (火) 15時22分

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