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2005年12月28日 (水)

折伏

巨大教団になった創価学会には、もう折伏は必要ないのかも知れない。以前は、この布教姿勢が有名であった。私も10代後半、こんな勧誘を受けたことがある。

宗教教団にとって、教団外の人たちを、どう考えるかは重要な信仰の事柄である。カトリックには「善意の人々」という概念があり、彼らとは協力するのが教会の方針と思う。「善意の人々」はもちろん、カトリック教会の外の人たちなのだが、いつかは救われると考えているのかも知れない。教会の外にも救いあり、ということになる。その他、カルビン系の教会では一般恩寵、ウェスレー系では先行的恩寵など、教団の外の人たちの立場を、ある程度、評価して、うまく付き合おうとしているように見える。もちろん、それが動機で信仰を捏造しているのではなく、信仰的反省が最初にあってのことであろう。

こんなことを言わなければならないのは、聖書の中では救いの条件がはっきりしているからだ。心で信じて義とされ、口で告白して救われる、とある。であれば、この条件を満たしていない大多数の人たちは、救われないことを意味する。救われないという意味は地獄に落ちるという意味である。そのような人たちの中には、もちろん善意の人たちが大勢いる。彼らも、「告白がない」という理由で地獄に落ちるのか。「そうだ」という回答があるかも知れない。その回答を聖書の回答とみなした時、あるいは、それまで保持していた信仰を捨てる決断をする人が出てくるかも知れない。あるいは逆に、何が何でも信仰に入れようと、折伏的攻勢に出るかも知れない。

折伏的人物をキリスト教界に探せば、戦後、何度も来日して、クルセードという大集会を開いた米国の伝道者、ビリー・グラハム氏など典型的人物であろう。彼の意識の中には、「告白のない人物は地獄に落ちる」という危機意識があったのかも知れない。そして、善意の人たちが地獄に落ちるのは、自分の中にある神のかたちに対する大きな挑戦であると感じ、この挑戦を退けるためには大伝道集会を開き続けなくてはならなかった、のかも知れない。そんなグラハム氏の時代も終わりつつある。しかし、あの救いの「条件」を記した聖書は残る。人々は、その前で、折伏に走るのだろうか、それとも別の考えを探して、他宗教とも協調の中で生きるのだろうか。

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