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2005年12月 5日 (月)

活動と観照

「中世人の生活は、人生は意味があるという確乎とした信念によって貫かれていた。すなわち、人間は至福なる直観をもって神とあいまみえるべきものである、との信念がそれであった──ランツベルクは中世的世界の叙述をこのように進めている。時間のうちなる生命とは変化・運動のことであるが、そもそも、自らのうちにそのまったき意味を有していないものにしてはじめて、動くのである。では、もしもわれわれが自らの意味をまったく自己のうちに有し、より高い善への予感によって動かされているのでなかったならば、どうしてわれわれが動くことがあるだろうか。また、休息・静止というものがなかったならば運動もなかったであろう。けだし静止こそは運動の能動因であり目的因であるから───つまりそれは運動を呼びおこすと同時に、運動がそこへと行きつくべき終点である。しかるに、静止は、その法則が成就された場合には永遠の静止となる。ここからして内的生活は必然的に永久の静止へと向かって動き、そこにおいて自らの意味を見出す。この永遠の休息が幸いなる直観にほかならないことを悟るためには、われわれがなにか意味あるもの──人間であれ神であれ──を、愛のまなざしをもってみつめるとき、そのときわれわれはこの上なく幸福で完全、かつ静かな時を経験するということに着目すればよい(この経験は有限ではあるが、生き生きとしたものである)。人間の最高の可能性は活動的生活のうちにではなく、むしろ観照の生活のうちに秘められている。この点において東洋、古代、中世は一致しており、これにたいして近代世界はプロテスタンティズムの影響の下に、運動をそれ自体で目的と見なす傾向を示している。」
 (「崩れゆく壁」J・エスタライヒャー著、春秋社、218-219頁、パウル・ランツベルクの項)

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