« 姉歯・元建築士の願い | トップページ | 親鸞のこと »

2005年12月17日 (土)

親鸞の読み方

梅原猛氏が小学館文庫『親鸞の告白』を出しています。書店で容易に入手できます。その中で、峻烈なる問題提起をしています。私としても、これまで考えたこともありませんでした。

「極楽浄土から還ってきた親鸞」という項目があり、二点を指摘しています。

その中で、「親鸞のいう悪は親殺しという悪の中の悪というべきものであるが、『歎異抄』のいう悪人正機説は、悪の捉え方がはなはだ浅薄であるように思われる」(35頁)と書いています。これは分かるような気がします。悪人正機説の「悪人」とは、普通の人なのです。しかし、親鸞の「悪人」とは、普通の人ではなくて、本当の悪人、刑事事件における極悪人のようなもの、そんな人も念仏、それも称仏(口で阿弥陀仏の名を称えること)で極楽往生できると言ったのだ、というのです。たとえば、死刑囚が死刑執行直前に口で南無阿弥陀仏と言えば、それだけで極楽往生間違いなし、そういう意味なんだそうです。被害者の関係者の感情では、加害者を許せないという気持ちは残るでしょうが、教えとしては、そういうものなんだろうと思います。そうでなければ、ありがたくないでしょう。

それから、「二種廻向の説」に関してで、「法然や親鸞は、自らが極楽浄土からかえった還相廻向の人であることを固く信じていた」(36頁)というのです。浄土へ行くことを往相廻向、浄土へ行ったのち、またこの世にかえることを還相廻向といって、「近代真宗学ではほとんど語られない」と、梅原氏は言います。要するに、法然も親鸞も、かつて浄土に行ったことがある、ということです。こういう説には、初めて、お目にかかりました。
要するに、浄土というものを死後の場所と考えていて、人は生まれ変わり・死に変わりしているのだというのです。しかし、浄土を生存している間と考えれば、分かりやすいです。悟りを開いた釈迦が、その教えを広めていく、それは還相廻向でしょうし、悟りを開くまでは往相廻向でしょう。しかし、浄土は死後、行くところ、そして人は生まれ変わり・死に変わりしている、それを言わないのが近代真宗学の問題なのだと、梅原氏は言っています。しかし、死後というのは、生きている人はまだ経験していないわけで、経験していないことが、どうして認識可能なのか、という素朴な問題を感じます。「自分は還相廻向の人」という時には死後の認識の獲得が既に含意されているのですから。

|

« 姉歯・元建築士の願い | トップページ | 親鸞のこと »

コメント

> 管理人様

往還二相については、『教行信証』(特に「証巻」には還相について詳述)にも挙げられておりますが、親鸞聖人85歳の時に記された、『如来二種回向文』では、それが端的に要約されております。

「これは如来の還相回向の御ちかひなり。これは他力の還相の回向なれば、自利利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり。他力には義なきをもって義とすと、大師聖人(法然)は仰せごとありき。よくよくこの選択悲願をこころえたまふべし。」
   『浄土真宗聖典』723頁

投稿: tenjin95 | 2005年12月17日 (土) 18時21分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104898/7662614

この記事へのトラックバック一覧です: 親鸞の読み方:

« 姉歯・元建築士の願い | トップページ | 親鸞のこと »