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2005年12月11日 (日)

永遠の哲学

 哲学を、どのように勉強するか。それは、自分で一人の哲学者を選ぶところから始まる。そして、その哲学者を中心とした対話を続けていくことである。その中に哲学の楽しみが、やがて現れてくる。 哲学というのは、人生最大のテーマについて思考実験をすること、考えること、考え続けることである。それは、人生におけるさまざまな判断、決断、決定のために意義がある。
 哲学者とは愛智者である。そして、愛智者とは、真理を求める人、真理を呼吸する者である。真理は愛智者のもとに来たり、そして離れていく。インスピレーションとともに真理は愛智者を訪れ、そして、愛智者が真理を表現することによって、真理は多くの人々によって共有されるものとなる。人は真理によって生きる。
 どんな哲学がよいかと言うなら、それは各人が決めることである。私の推薦は「永遠の哲学」である。すなわち、中世スコラ学であり、なかんずくトマス哲学である。これはアリストテリコ・トミズムとも言われる。一般的に、トマスよりアウグスチヌスの方が関心が高い。トマスは教会の御用哲学のようにみなされ、教会の信仰の前提がないと、なかなか読めないからである。しかし、われわれ東洋人が、この点で理解を示すことができれば、西洋文明に対する価値あるメッセージを発信できるはずである。
 ところで、アリストテレスは近世の初め、受難にあった。自然科学の挑戦を受け、その不備が指摘されたからである。この窮地からアリストテレスを救わなければならないが、どうするか。ここで、神学、哲学、科学の関係を考えよう。
 「永遠の哲学」という言葉はある。しかし、「永遠の科学」といった言葉はない。科学は発展するからである。アリストテレスの科学が古くなっても、それによって彼の哲学が古くなってしまうということではない。アリストテレスの「権威」がトマスを媒介として教会に結びつき、その結果、彼において変化すべき、科学的知識の領域が権威的に固定されてしまった。ここに問題があった。科学的知識に権威といったものはない。従ってアリストテレスの科学的知識を権威化したのは間違いであった。科学的知識というものは本来、そのような性質のものではないのである。
 もちろん、アリストテレスもトマスも、権威化されて、鸚鵡返しのように繰り返すのは、哲学精神ではない。そのような態度があったので、中世哲学に対するラッセルの批判があったのだろう。また、現代人であれば、実存哲学を考慮しないではいられない。それらを傍らに置きつつ、自ら思索していけば、この「永遠の哲学」は真実の満足を与えてくれるであろう。それはまた、「新しき中世」の哲学でもあろう。

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