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2005年12月12日 (月)

神基習合体制

近代日本は、見えない神基習合体制の時代ではなかったろうか。
近代日本とは、もちろん、明治維新から昭和20年までの敗戦の時代を指している。神基習合体制とは、神道とキリスト教との習合した体制という意味である。言ってみれば、ある人たちの解釈する国家神道の本質を指している。もっとも、これは見えない習合であり、それ以前の神仏習合のような、おおっぴらな習合を意味してはいない。もし、おおっぴらな習合であったなら、戦時中、「天皇が偉いか、キリストが偉いか」ということで、治安維持法違反で、牧師たちが詰問されるようなことはなかったろう。
この時代の体制とは明治憲法体制である。明治憲法制定に関して、伊藤博文の残した文章がある。西洋のキリスト教に代わる日本人の精神的軸になるものはないだろうか、それは皇室である、といっている。これは習合に至る示唆である。そして、国家神道体制が生まれた。その本質に関して、ある小説が、主人公の発見の驚きと共に、描いている。堀田善衞氏の『若き日の詩人たちの肖像』である。集英社文庫の下巻の319頁以下に書かれている。平田篤胤が神道の中にキリスト教を引っ張り込んだ、というのである。これは、よく知られた話である。
「近代を超克するというのなら、まず平田篤胤あたりから超克してかからなければならぬだろうと思う。超克どころか、この戦時中の現在こそが、まさにその『近代』の典型か、その結論のようなものではないか、と思う」(324頁)と、主人公は考えた。戦時中、「近代の超克」というテーマで座談会が行われたことを指しているのだろう。卓見ではないだろうか。
国家神道による戦争と、その罪過に、キリスト教会が他の宗教団体とは違って特別に責任があるとは思わないけれど、国家神道に利用されたという指摘は、考えておく必要はあると思う。

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