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2005年12月10日 (土)

無教会主義の意義

「無教会主義的キリスト教が教会史の最後を飾るべきキリスト教の形体であることは或は歴史そのものが流れ終って、教会史がその終りに達する迄、確かめられぬ事柄であるのかも知れない。我々として知り得ることは、キリスト教は既に全世界に宣べ伝えられ、その最後に位置した日本に於てカトリック、プロテスタントと並んで無教会キリスト教が第三の独立の地歩を次第にかためつつあるという客観的な事実である」
(「関根正雄著作集」第二巻21頁)

「事実プロテスタントトが充分実践的に正直に行動すれば、教派の分裂は論理上当然なのである。それが事実上起らないのは、多くは愛の名において折中妥協しているからではなかろうか」
(「関根正雄著作集」第二巻337頁)

矢代静一氏は無教会について、次のような批判をしている。「儒教あるいは武士道が現代人にどんな意味があろう」という点は、私は同感できるのだが、藤原正彦教授は武士道再考を訴えている。
「言うまでもなく、カトリックとは、ギリシャ語で普遍的という意味である。世界宗教だ。一島国である日本の土俗宗教ではない。従って日本的キリスト教というのはあり得ないと、ずっと自分に言いきかせてきた。これは内村鑑三に疑問をもっていたせいかも知れない。それはまず、無教会主義という日本的キリスト教があってよいのかという考えが根本にあったからである。内村の生きていた時代には、たしかに儒教精神や武士道魂が日本人の内奥には棲んでいたことだろう。けれど、内村の儒教的武士道的キリスト教は、当時の一部の知的日本人には共鳴を呼んだかも知れないが、現代の、つまり私がキリスト教と真剣に取組むようになった頃には、儒教並びに武士道を、イエスの生き方と結びつけるのはもう無理だった。つまり、当時の私は、内村が毅然とした人物であることは認めたが、結局のところ無教会主義なるものは、日本的求道者内村個人の聖書読みであり、イエス観にすぎないと自分に言いきかせたものである」
(「螺旋階段の上の神」河出書房新社、206頁)

私は、「日本的キリスト教の試み」というのは大切な視点と思います。遠藤周作氏も共感されると思います。それはおかしな・あやしげな、異端的キリスト教を創造しようという意味ではありません。正統的で日本的、それはありうるのではないでしょうか。矢代氏はカトリック信者でしたが、内村の問題提起は、今も多くの人々を魅了していると思います。

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コメント

初めまして☆トラバさせていただきます。
矢代さんつながりというだけですが…

私自身あまり知らなくて、カトリック、正教会、
聖公会、プロテスタントぐらいしか知りませんでした。
無教会主義について、勉強するいい機会になったと思ってます。

投稿: fortheday | 2005年12月30日 (金) 22時01分

矢代静一さんには、四谷の聖イグナチオ教会で何度か、お見かけしたことがあります。もちろん、会話はしていません。
同じカトリック信徒であっても、武田友寿さんには、内村に関する関心があって、本もあります。武田さんは「季刊創造」の編集長で、ここではプロテスタント、カトリックの作家たちが寄稿していました。
私としては、武田さんが内村に関心を寄せていたことに共感しています。内村と無教会には、日本のキリスト教という点では、なお可能性を秘めていると思っています。

投稿: | 2005年12月31日 (土) 10時40分

矢代静一さんは聖イグナチオ教会に籍があったのだと思います。この教会で、以前、昭和40年代の前半に女優の大空真弓さんの結婚式がありました。最近、大空さんの本が出ていて、家が近いということで、この教会に出ていたことが書かれていました。しかし、ご自身は信者ではなかったようです。

投稿: | 2005年12月31日 (土) 11時25分

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