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2005年12月12日 (月)

資本主義のこと

禁欲的プロテスタンティズムが資本主義の形成に貢献したと、ウェーバーはいう。その主体は特にカルバン主義の教会で、二重予定論まで持ち出している。そこに救いの確証の問題があったという。不思議な論理である。救いは、そんなに難しいのだろうか。世俗内での出世が条件なのだろうか。そうではないと思う。

別の観点があったのではないだろうか。近世は、中世の否定を貫徹しなければならない。その時、世俗的勢力としてはカトリックがあり、次に、ドイツの領主勢力と結びついたルター派があった。しかし、カルバンの改革派教会では、そんな世俗的勢力はなかった。しかし、彼らは、ルター派を中途半端な改革として否定していたから、宗教改革の大義は自分たちにあると考えていた。しかし、世俗内勢力が弱く、その勢力がないと、いつか旧勢力に潰されてしまう。その危機意識が強かったのではないだろうか。こうして、近世社会を引っ張っていったのではないだろうか。それは世俗内勢力の増大を是認するものであり、こうして宗教的な人生目的が、それに結びつくことを許したのではないか。私としては、こう考えたほうが分かりやすい。そして、この勢力は今、歴史的には米国という国を形成している。もちろん、今も、こんな「行為義認」を信奉していたら、それはキリスト教としては問題であろうと思うけれど。

要するに、近世を開いた人たちによれば、資本主義での勝者、競争社会での勝ち組が、やがて魂の救いを獲得できるのだ、ということになるのだが、そんなことはないと思う。

救いというものは苦行とか、行いによるのではないから。絶対他力という救いの道は、すべての人に開かれていて、容易に手に入れられるものではないだろうか。

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コメント

私は、カルビン主義の教会員たちがすべて、このように確証を求めて世俗内職業に邁進していったとは思っていない。その姿勢というのは、「行為義認」であり、宗教改革の原点からはずれているからである。この一線は、ルターの改革をなお徹底させるとしたカルビン主義の教会としては固く守られたのである。とすれば、資本主義形成に結びつく職業倫理を考えた「行為義認」のキリスト者たちは、カルビン主義教会の中にいた偽装キリスト者たちであったかも知れない。

投稿: | 2005年12月14日 (水) 19時28分

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