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2005年12月11日 (日)

悪について

 悪の問題の解明は人間の最も根源的問題の解明である。性善説と性悪説とがあり、どちらが正しいのかといった問題提起もあろう。
 私はアウグスチヌスに関する本を読んでいて、彼の中に矛盾があるのではないかと思ったことがある。それは彼の中に「善の欠如」という悪の定義があり、そこには悪の積極性といったものが不十分に思えたためである。当時、私はプロテスタントであった。悪に対するアウグスチヌスの説明には何か割り切れないもの、これはキリスト教の教説ではないのではないか、といったものを感じた。この問題は、その後長く私の中で未解決問題として残った。
 後期アウグスチヌスの恩恵論、ペラギウスへの反駁論はプロテスタンチズムに直結する。救われるための人間の功績を完全に否定したのである。このような文脈の中では、アウグスチヌスの「悪についての説明」は不思議な響きとして印象づけられる。
 実は、この不思議な響きの中にこそカトリシズムが存在しているのであろう。であるがゆえに、アウグスチヌスを論じることはエキュメニズムを論じることに繋がる。アウグスチヌスはプロテスタントの教父であると共にカトリックの教父でもあるのだから。
 カール・バルトは「聖霊とキリスト教生活」の中で、アウグスチヌスの中に自然的価値の残存があり、これはトマス・アクィナスの中にも受け継がれているとして、この両者を批判している。この個所は、実は非常に重要に思う。ていねいに一歩一歩、理解を深めていかねばならない所である。もし、この批判が救いに関して言われるのであれば、カトリック教会もバルトと同じように、アウグスチヌスを否定しなければならないであろう。しかし、罪を犯した人間は、それでも人間なのである。そして、存在している限り、「善」なのだ。バルトの主張の中には、この事実を弱くするか、見えなくする危険性はないだろうか。
 ここで、エチエンヌ・ジルソンの言うところに耳を傾けよう。
「原罪はどのような結果を人間性の善に生じたかということが問題になるとき、われわれはまずこの善とよばれるところのものを規定しなければならない。じっさい、この善とよばれるものは、三つの異なったものを意味している。第一にそれは、人間性そのもの、すなわちそれの構成的諸原理から生じて、理性をもつ生活体として定義されるところのものである。第二にそれは、人間が善に対して感じる、そして善なるものは一般にそれ自身の善を含有しているから、それなしには人間が生存することもできない自然的傾向性である。第三に、人間性の善とよばれるものは、人間が神から創造のさい与えられ、したがって恩寵としてうけた原本的な正義の賜物である。この最後の意味に解されるとき、人間性の善はその本性の一部分ではなく、それに付加されたもの、したがって原罪によってまったくなくされたのである。第二の意味に解されるとき、人間性の善は真実にその本性の一部分を形成し、したがってなくされることはなく、ただ減ぜられるのみである。すべての行為はある習性のきざしを生ずるものであって、最初の邪悪な行為はさらに邪悪な行為をなす性向を生みだし、かくして善に対する人間の自然的傾向性を弱める。しかしこの傾向性は、それにもかかわらずなお存続して、すべての善の獲得を可能ならしめるのである。最後に、本来の意味における人間性、すなわち人間の本質そのものはどうかといえば、「人間性の原本的善は罪によってなくされることも、減ぜられることもない」(primum
igtur bonum naturae, nec tollitur, nec diminuitur per peccatum.) のである。このことを否定することは、人間が人間でなくなりながら、しかもなお人間であることを認めるものにほかならないであろう。それゆえ、罪は人間性になにものも付加することもなく、また人間性からなにものも除去することもない--『人間にとってその本性であるものは、罪によって人間から除去されることも、また人間に与えられることもない』(ea enim quae sunt naturalia homini, neque subtrahuntur neque dantur homini per
peccatum.) 人間の形而上学的規定は不変であって、たまたまそれにおこる諸偶有性には依存しないのである」(『中世哲学の精神 上』167-168頁)
 この罪の問題がプロテスタントとカトリックを分ける重要点であることを、ジルソンはこう指摘している。
「キリスト教世界は、その本性が罪によって壊敗されているものであると一般に考えられているが、そのように考えられがちであるのは主としてルター、カルヴィン、ヤンセニウスの影響によるのである。しかしかれらの眼によってキリスト教をみることは、トマス説の--あるいは真正のアウグスティヌス説さえもの--とはまったくことなった光に照らしてそれをながめることである。じっさい、聖アウグスティヌスほど、堕落した世界を無価値であると考えなかったものは他にない。まず第一に、そのように考えることは、かれの形而上学的原理の禁ずるところであろう。悪は善の壊敗にほかならず、そして悪はこの善においてのほかは存在することができないのであるから、悪が存在すれば、善もまた存在するわけである」(『中世哲学の精神 上』164-165頁)
 こういう説明で、初めて、アウグスチヌスの一見、矛盾と見えるた部分が理解できるのである。

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