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2005年12月13日 (火)

奇跡の問題

以前、超能力や念力などの真偽問題につき、テレビで激論がありました。これもまた宗教の問題と関わりがあるでしょう。宗教的次元から、この世に飛び込んでくる出来事というのは、普通、奇跡という言葉で表現されています。ですから、テレビの激論は、言ってみれば、奇跡をどう解釈するかという問題かも知れません。

奇跡は合理性(理性に適合すこと)を超えた世界のことでしょう。昔、アリストテレスという哲学者は「人は理性的動物」と言いました。人にとって、理性は不可欠なのです。「脳死は人の死か」ということで論争がありましたが、脳死は理性の消滅であり、従って、脳死状態では、「理性的動物」としての人の「定義」を維持することが不可能になり、そこに人の存在を認めることができない、といった議論も成り立つのではないでしょうか。脳死は人の死という定義に、私は余り抵抗を感じません。

さて、信仰と理性との関係についてどう考えるべきでしょうか。合理とは理性に適合するということであり、すべてを人間の理性の支配下に置こうとするもので、学問の世界では古代ギリシャに、この立場が現れています。

一方、奇跡の世界というのは、理性を超えているのですが、反理性ではないのです。奇跡の超理性的性格は、反理性と一見、同じように見えますが、反理性ではないのです。ここで反理性を否定しないと、宗教は迷信や妄想の世界に入ってしまいます。

宗教の狙いは超能力の獲得などではなくて、理性の癒しだと思います。医者は体を癒してくれますが、人の本質は理性なのですから、体の癒しだけでは十分ではありません。理性が癒されれば、超能力を持ちたいなどという欲求は消えてなくなるでしょう。この理性の癒しこそ、奇跡の本来の目的と思います。
     
西洋合理主義の限界などと盛んに言われて、反理性の立場が宣伝されるのは危険と思います。信仰は疑念をはねつけるところで成り立つ性格を持っているので、一度、信仰の世界に入ると、反理性の事柄と超理性の事柄とが見分けがつかなくなる危険性が生まれます。

迷信や妄想を拒否するために理性の立場を重視するのは大切ですが、理性万能の世界には救いがなく、理性を超える世界を求めるのも、また人の根源的な欲求と思います。西洋では、理性がギリシャ、宗教がユダヤということで、この両者が出会い、その関係を問いながら中世が出来ました。

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コメント

「「超能力や念力は奇跡なんですか」
「3次元プラス時間の世界のことは科学の領域で、その道具は理性ですね。その世界のことで分からないのであれば、とりあえず、不可知にしておけばいいです。カントは不可知論を神の存在に向けたのですが、それは信仰の領域のことで、理性を超えた世界のことを理性で取り仕切ろうというのが、そもそもの間違いです。科学の領域に関しても、不可知とするのは、やがて説明が出るだろうが、今は分からないという意味ですね。
聖書の奇跡というものには意味があるのだと思います。その意味に関しては、説明されれば理解できるし、承認することも出来る。これが奇跡を認めるという意味なのではないでしょうか。そして、科学の領域における非合理的な出来事については、そのような奇跡と結びついていても、不可知でいいのだと思います。科学の領域のことは、やがては解明されるだろうが、今は解明されていない、そういう対応の仕方ですね」

投稿: | 2005年12月13日 (火) 11時02分

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