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2005年12月 8日 (木)

ウェスレーの教会観

ジョン・ウェスレーの両親、サミュエルとスザンナは二人とも非国教会から国教会への改宗者である。初め、サミュエルが改宗し、妻がそれに続いた。サミュエルは非国教会の立場が正しいと主張しようとして、論戦の準備中、国教会に鞍替えしたのである。彼の改宗の動機が何であったか、今の私には定かではないが、ここに教会論があったと見たい。

私はジョン・ウェスレーの教会観は、この両親の教会観を踏襲しているのではないかと考えている。それはイギリス国教の教会観、すなわち「一・聖・公・使徒継承」の教会観である。彼が、晩年、あくまで国教会に止まり続けたのも、この教会観に固執したためではなかろうか。

ウェスレーの創始になるメソジスト教会には「教会論が弱い」という指摘が、よく聞かれる。メソジスト教会の本質は運動である。従って、どういった教会を打ち立てねばならないかといった議論は本質的になじまないところがある。救い、きよめといった関心は個人主義的、心理的な傾向を持つ。そこから教会論、見える教会とはどういったもの、どうあらねばならないかといった議論は二義的、相対的なものになってしまう。

これは何に由来するのだろうか。ウェスレーの中では、教会というものははっきりした姿をもっていた。しかし、彼の弟子らの間で、イギリス国教からの分離問題が起き、実際に分離してしまった後、国教会の教会観である「一・聖・公・使徒継承」を受け継ぐことができなくなってしまった。少なくとも、国教会がいうところの「使徒継承」ではなくなってしまった。その結果、教会観が少しぼけてしまったということではないだろうか。

以上は私の感想だが、最近はウェスレー研究も充実しており、すでにこの問題では定説があるのかも知れない。

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