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2006年1月30日 (月)

人の行いが何かの結果をもたらすことは、この社会のありようを見ていても、了解できることです。行いの前提に夢があります。人はいろいろな夢を語ります。夢は人の行動に活力をもたらし、社会全体の活性化にもつながります。思いは実現する、という人もいます。しかし、人は死にます。その前でもなくならない夢はあるのでしょうか。それが問題です。そんな夢であれば安心なのです。そんな夢を持ちたいのです。

死後、行いによって裁かれる、といった言葉が聖書にあります。行いのない私などは、率直、不安を感じます。立身出世、社会的地位の向上、金持ちになることなど、みな行いの結果です。そんなものがないと、死後、裁かれるのでしょうか。

以前も書いたのですが、人間にとってまず大切なことは何かをなすことではなく、存在のあり方と思います。それが、まず問われるのだと思います。しかし、そこから自然に行いが生まれてきます。その行いは、たとえどんなに小さなものでも、裁きの前で「よし」とされるのだと思います。裁きでは、まず量ではなくて、質が問われるのだと思います。

死という壁にもかかわらず、それを通り抜けていく夢であれば、そんな夢を見たいものです。そんな夢の実現のための行いは、死後においても意味を持っている、従って、生きている間でも意味があるのだと思います。

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コメント

「露と置き露と消えぬるわが身かな
  浪華のことは夢のまた夢」
                (秀吉)

投稿: | 2006年1月30日 (月) 13時38分

生きるということは何かを行うこと。それは歴史的に考えれば何かを建てること。その時、砂上の楼閣を作ってはいけません。砂の上に家を建てるのではなく、岩の上に自分の家を建てるべきと思います。
一人の人の賢明な選択は周囲の人々に益になりますが、逆に一人の人の愚かな選択は周囲の人々に害をもたらします。自分の選択は自分一人のためだけではないことを知るのです。

投稿: | 2006年2月 2日 (木) 12時38分

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